豊かな国の幼き子らよ 08

第八章 歌うオサナゴ

 爽太は異国の歌を歌っていた。
 窓際に腰を下ろし、中庭に足を突き出して、ひざの上にノートを開き、勉強するふりをしながら歌う。元の世界にいた頃、よく聞いていた歌のひとつだった。
 日本語の歌だと、この国の言葉に変換されて聞こえてしまうかもしれない。だから爽太は、わざとドイツ語の歌を選んだ。確か映画のサントラだった気がする。ドイツ語なんて爽太にもわからないから、発音も適当だ。
 ただし、サビの部分には、元の歌詞と異なる音がまぎれこんでいる。
 意味も知らないドイツ語の単語を歌うかわりに、爽太はユウトの名前を呼んだ。まるでそれが歌詞の一部であるかのように、名詞か動詞であるかのように、素知らぬ顔をして歌う。炎の王子の真名を。
 爽太からは見えないが、この中庭を囲んでいる部屋のどこかに炎の王子がいるはずだ。

 ある日、トイレに行こうとした爽太は、廊下で炎の王子とすれちがった。
 前にもこんなことがあったなと思いながら、従者とともに彼が通りすぎるのを待つ。今度は炎の王子も爽太に話しかけず、そのまま行ってしまうかと思われた。
 だが、初めて出会った時と同じように、何かの衣装とおぼしき荷物をかかえていた炎の王子は、わきがよく見えていなかったらしい。荷物をかかえていた腕が、かすかに爽太の肩にぶつかった。
「おっと……失礼しました」
 立ち止まって炎の王子がふり返り、「どこも痛くありませんか」と尋ねる。
「だ、大丈夫です」と答えた爽太の声は、少しだけうわずってしまった。
 炎の王子はもう一度謝罪して去っていく。爽太のそばに控えていた従者も、ほっとしたように再び歩き出した。爽太もあとをついて歩き出したものの、ぶつかった瞬間に炎の王子が小声ですばやくささやいた言葉が頭から離れない。
 彼は「五のつく日に、中庭で」と言ったのだ。

 あれから、爽太はカレンダーで五のつく日が来ると、勉強時間に中庭を散歩したり、窓際に座ったりして、歌を歌う。異国の歌の一部には炎の王子の真名が含まれていて、炎の王子にだけはそれがはっきりとわかるはずだった。
 テオに尋ねて知ったことだが、どうやら謁見は原則として五のつく日に行われるらしかった。つまり、その日は爽太がひとりで勉強していることが多い。王族のひとりとして、炎の王子も謁見の用事があるはずだが、テオとは別の時間帯なのだろう。
 テオのいないところで自分の真名を呼んでほしいと頼まれた時、そんな機会はほとんどないだろうと爽太は思った。しかし、何もわざわざ会わなくても、爽太が真名を呼ぶ音さえ聞こえればいいというわけだ。これならテオや従者たちに見つかる可能性もはるかに低い。

 しかし、どうしてわざわざ炎の王子の頼みに応じてしまったのか。
 風の王女の体調不良は、花の王子の婚礼準備でにぎわう王宮に薄く影を落としている。彼女にオサナゴがいれば、と国王や王妃が考えて胸を痛めていることは、朝食の席でも見てとれたし、爽太もどことなく落ち着かないものがあった。
 炎の王子は、オサナゴがいなければ自分もいつそうなるかわからないと知って、恐れているだろう。それを思うと、爽太は彼のことを突き放せなかった。毎日、朝食をともにしている相手が、病気になって死んでしまうかもしれないなんて嫌だった。自分が名前を呼ぶ程度でいいのなら、それくらいのことなら手助けすればいいじゃないかと思ったのだ。
 テオが嫌がるのは目に見えていた。だから炎の王子には会いに行かないし、皆が見ている前では真名も呼ばない。中庭で、この国の人々にはわからない言葉の歌を歌いながら、そこに真名をまぎれこませるだけだ。
 それ以上のことはしない、と爽太は決めていた。自分はテオのオサナゴだったから。

 結婚式の晴れ着が仕上がったので、衣装合わせをすることになった。
 採寸の時と同じ部屋に行き、今回もテオに抱っこされた状態で仕立て屋の前に進み出る。彼女は爽太の顔を見ると、「おや、以前よりも顔色がよくなられましたね」と言った。床に下ろされながら爽太は「そうですか?」と尋ねる。
「えぇ、そうですとも」
 いぶかる爽太の頭を、テオがそっとなでた。
「お前は最近、俺のいないところで歌ってるらしいじゃないか。歌うのはちょっとした運動になるからね。それで顔色がいいんじゃないかな」
 今まで一度も指摘されたことがなかった爽太は、思わずびくりとテオを見返す。おびえているように見えたのか、テオは「全然怒ってないよ」と破顔した。
「物音を立てられないような厳粛な会議は、もっと離れたところでやってるよ。気にせず歌うといい。でも、俺に一度も聞かせてくれないのはどういうことだろうなぁ」
 爽太の頭をなでたまま、テオが意地悪そうな声を出す。仕立て屋がふふっと笑った。
「オサナゴ様の歌だなんて貴重でしょうね」
「こればかりはオサナゴひとりひとりの資質でね……過去には歌うのが好きなオサナゴもいたと聞いていますよ」
 仕立て屋にそう言って、テオの両手が後ろから爽太の肩をつかむ。
「さあ、衣装合わせだ。恥ずかしいかもしれないけど、服を脱がないとね」
「ここで?」
 テオはにやりと笑った。
「大丈夫だよ、男の子だから。それに、お前ひとりでは着替えられないと思うよ」

 晴れ着もやはり長袖で丈の長いワンピースだったが、爽太が普段着ているものよりもはるかにごてごてしていた。刺繍の数が多くて、そのせいで少し重い。糸をたっぷり使っているせいだ。
 採寸の時に聞いていたとおり、肩からは背中に向かって細長い帯のようなマントのようなものがたれさがり、爽太が立ち上がった状態でも、爽太の身長と同じくらいの長さを床で引きずることになる。さらにその上から、薄いベールのような上着をはおった。
 真っ白なワンピースに、色とりどりの糸を使った刺繍。ひときわ目立つ胸の刺繍は金色。ベールのような上着も白く、銀色の糸で控えめな刺繍が施してある。上着は透けているので、ささやかにきらめく銀色の刺繍の下に、鮮やかで派手な刺繍と金色の刺繍が重なって見えた。
 肩からたれさがった細長い帯には、金色の刺繍。爽太がまじまじと見つめていると、刺繍の一部が日本語に変化した。ということは模様だけでなく文字も縫いつけてあるということだ。しかし、読み取れた文字は、以前ケイナにもらったハンカチの文言と同じだった。「豊かな国の幼き子らよ……」と続く見慣れた詩を見て、爽太はいささかがっかりした。

 仕立て屋の前で下着姿になるのはあまり気が進まなかったものの、ためらったところで従者が爽太の周囲に布をかかげて体を隠してくれることはなさそうだった。この王宮は迷宮じみていて閉鎖的な印象を与える場所なのに、昼も夜も寝る時は下着一枚だし、部屋の入口には扉がないし、変なところだと爽太は改めて思う。
 いや、そうでもないのか。迷宮のような構造も、妙にオープンなのも、オサナゴに余計な自由を与えないためだと考えればつじつまは合う。外へ出られないように閉じこめて、隠しごとができないように裸にさせて。
 もしかすると、戸棚に隠した禁書もとっくに見つかっているかもしれない。
 不穏な想像に背筋がびくつかないよう気をつけながら、爽太は細かいところを調整していく仕立て屋と、数歩離れたところで爽太の全身を眺めているテオを交互に見やった。
 テオの笑顔は、娘のドレス姿を見守る父親のようだ。
「いいね。お前は髪が黒いから、白い服もカラフルな刺繍も際立ってるよ。色合いがはっきりして見える」
 もしここが元の世界だったら、テオはスマートフォンを持ち出してカメラアプリで写真を撮っているだろう。この世界にはカメラが存在しないのかと爽太は内心首をかしげたが、すぐに思い直した。それに近いものは存在するはずだ。なにしろチョーカーだけで爽太の居場所を突き止められる技術が存在するのだから。
「俺のオサナゴを見せびらかすのは気が進まないけど、見せるからには美しく見せないと」
「そうでございますね」
 仕立て屋が心得た様子でうなずく。

 爽太はテオに尋ねた。
「あのさ、花の王子の結婚式って、どんな人が来るの?」
「コラナダの貴族の家長夫妻、神殿の上層部、周辺諸国の国王夫妻もしくは次期国王夫妻、あとは妃の近親者かな」
 虚空を見上げて、テオが数え上げる。
「花の王子の妃になる人って、どんな人?」
「デステマのカナ王女だよ」
 そんなことも知らなかったのか、という顔で、テオが驚きに目を見開く。
 爽太は今までに勉強した内容を思い出した。デステマはコラナダの隣国のひとつだ。国内ではなく、他の国から妃を迎えたということか。
「デステマとコラナダは親交が深くて、あちらの王室にはオサナゴの仕組みも伝わってる。そういう意味では心強いね。もちろん、婚約する前にオサナゴのことについて何度も事情を伝えるし、そこを理解してもらわないと俺たちの結婚相手にはなれないんだけど」
「ふーん……」
 テオの説明を聞いて、やっぱりこの国の事情は特殊なんだなと爽太は改めて実感した。自分がその当事者になってしまっているので、どうしても気にかかるのだ。

 晴れ着に合わせた靴もあるというので、仕立て屋が差し出した真新しい靴に履き替える。本当はごてごてした服を着る前にすべきだったのだが、うっかり忘れていたのだ。重たい刺繍と、繊細な上着と、マントのように引きずる帯に注意を払って、爽太はそろりと前にかがみこもうとする。
「危ないよ」
 テオが近づいてきた。とっさに爽太の名前を呼びかけて唇を噛み、ごまかすように少しうなって、爽太の前にしゃがみこむ。
「そのまま立ってて。靴を履かせてあげる」
「えっ、悪いよ」
「せっかくの晴れ着を汚したり、うっかり踏みつけて怪我をしたらどうするんだ。こういう服装は誰かのサポートがないと着られないものだからね」
「じゃ、じゃあ、他の人に……」
 今の自分は、仕立て屋の前で王族をひざまずかせている状態なのだと気づき、あわてて手をふる。仕立て屋でも従者でも、誰か他の人に手伝ってもらったほうがいいと思ってそう言ったのだが、テオは不愉快そうに顔をしかめた。
「あのね、他の人はあまりオサナゴにさわれないんだよ。俺は主だからお前にさわっていいの」
 採寸だって服の上からだったし、さっき着替えた時だって俺が手伝ったし、彼女は必要最低限しかお前に近づかなかっただろ、と小声で言いながら、テオはさっさと爽太の靴を脱がせて新しい靴をあてがう。仕立て屋は何も聞こえなかったかのように、すました顔で待っていた。
 白い靴にも色とりどりの刺繍と金の刺繍があしらわれている。爽太は全身を刺繍におおわれ、まるで刺繍に隠されているかのようだった。

 テオにうながされ、爽太がゆっくりとそのへんを歩いてみて、服の動きや重さを確かめているところへ、従者が顔を出した。
「殿下、お通ししてもよろしいですか」
「通してくれ」
 誰か来たの、と爽太が尋ねようとした時、部屋の入口に黒いワンピースを着た男性と、薄い青色のワンピースを着た男性が現れた。
「おお、すばらしい!」
 青いワンピース姿の男性が、軽く両腕を広げて感嘆の声を上げる。仕立て屋が軽く頭を下げると、彼は「さすがだね、見事なものだ」と言いながら部屋に入り、黒いワンピース姿の男性に「どうぞ……」と小声でささやいた。

 黒いワンピース姿の男性は、爽太によく似た黒髪を長く伸ばして、腰のあたりまで届く一本の太い三つ編みにしていた。この世界に来てから初めて見る髪型だ。目をまるくした爽太の前へ彼が進み出て、静かな声でささやく。
「オサナゴ様、殿下のお許しをいただきまして、ごあいさつにまいりました」
 目線の高さを合わせるため、彼はひざ立ちになった。ひるんだ爽太を、赤茶色の瞳が見つめている。
「私は王宮内の神殿におります、神官のサパルと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「あ、あの……はい……。水の王子のオサナゴです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 仕立て屋の前で名乗ってはいけないことを思い出し、爽太はぎこちなくあいさつした。
 立派な地位についているだろう大人たちに、こうしてうやうやしく礼儀を尽くされるのは、やっぱり慣れない。元の世界の爽太はただの大学生だったし、この世界の爽太は子どもの姿なのだし、どうしても違和感がぬぐえなかった。
「花の王子の婚礼は私のもとで行いますため、オサナゴ様へのお目通りをお願いしておりました」
「そ、そうなんですか?」
 ふり返ると、近づいてきたテオが晴れ着の帯を踏みつけないよう、爽太の斜め後ろに寄り添ってうなずく。その手が爽太の黒い髪をなでた。
「王族とオサナゴは、オサナゴの許可さえあれば従者に取り次いでもらえるけど、それ以外の人間は主の許可が必要だ」
「テオ、初耳だよ。なんでそういう細かいきまりを教えてくれないの?」
「必要な時に教えればいいと思ってたからね」
 テオは首をすくめて、サパルに「よろしく頼むよ」と声をかけた。

 サパルの次に進み出たのは、薄い青色のワンピースが、ウェーブを描いた金髪によく似合う男性だった。
 どこか茶目っ気を感じさせる顔つきで笑ってから、彼は胸に手を当て、深々と腰を折り曲げた。
「ベルディと申します。オサナゴ様、お目通りがかないまして光栄です。大変よくお似合いですよ」
 彼は大臣のひとりだとテオが横からつけ加える。
「ベルディは花の王子の結婚式を取り仕切っている」
「そうなんですね。あの、よろしくお願いいたします」
 爽太があいさつすると、ベルディ大臣は青い瞳をきらめかせて笑った。陽気そうな人だ。
「いやはや、殿下のオサナゴが見出されたとお聞きしてから、ずっとお目通りの機会をお待ちしていたのですがね」
 仕立て屋がいるので、それ以上の内容は話せないと判断したのか、彼はテオに顔を向けて祝いの言葉を贈った。
「殿下、改めましておめでとうございます。オサナゴ様とのすこやかな未来があらんことを」
 テオは微笑んでそれに応える。
 それからベルディ大臣は、爽太やテオの服装について仕立て屋と言葉をかわし、さらに宗教的な観点から見ても問題がないことをサパルに確かめたのち、サパルとともに部屋を辞した。
 お疲れ様でございました、と仕立て屋にねぎらわれて、ようやく着替えの許可が下りる。爽太は軽く息を吐いた。ただ服を着て確認するだけだと思っていたのは甘かったようだ。

 衣装合わせが終わると、すぐに昼食だった。
 テオとふたりきりで食事のための部屋に行き、野菜とナナ(マントウに似たもの)が浮かぶスープをすくって口に運ぶ。
 外国に長期滞在した人々と同様、爽太も時折ひどく故郷の味が懐かしくなった。梅干しのおにぎり、サンマの塩焼き、友達とよく行ったお店のラーメン。どうってことない食べ物が恋しくて仕方がない。しかし、ここは外国どころか別の世界だ。母国から空輸してもらうこともできず、たまにだらだらと口の中で湧き起こるよだれを飲みこんで、耐えるしかなかった。
 気をまぎらわせるために、水を普段よりも多めに飲む。悲しいかな、爽太はあまり料理ができるほうではなかったし、王宮の厨房にもぐりこんで自分が食べたいものをつくるわけにもいかなかった。この世界の食材は元の世界と似ていたから、もし爽太がテオの許しを得ることができたら、多少は料理ができたかもしれないが。
 もちろん、一度だけ軽く聞いてみたものの、テオの許可は下りなかった。大勢の大人が行きかう厨房へ子どもをやるのは心配だということ、料理人の仕事を奪ってはいけないということ、それ以前にオサナゴをあまり他の人の目にふれさせたくないということが、その理由だった。

 食後、寝室に戻ってそろそろ昼寝をしようかというところで、テオが急に言いだした。
「ねえ爽太、俺のお願いを聞いてくれる?」
「何?」
 服を脱ぎかけて問い返すと、テオの微笑みが目に入る。
「寝る前に歌ってくれないかな。爽太の子守歌が聞きたい」
「……子守歌?」
「子どもにお願いするなんて、ちょっと変だけどね」
 テオの手が伸びてきて、爽太のほおをつまむ。幼い子どもをいじって遊ぶように。
 爽太はその手をつかんで引き離そうかと思ったが、おとなしくされるがままになった。テオは爽太を子ども扱いしたがる。へたに反抗するよりも、それに合わせておくほうが懸命だった。それでもたまに、あまり子ども扱いしてくれるなと抗議しそうになるのだ。
「なんで子守歌?」
「寝る前に歌うものは子守歌だと相場が決まってるだろ」
 ふにふにと爽太のほおを軽くひっぱって、テオの指が離れていく。
「別になんだっていいんだ。爽太が好きな歌を歌ってくれたらいいよ」
「テオ、急にどうしたのさ」
「急じゃないよ。前から思ってたんだよね。俺も爽太の歌が聞きたいって」
 そういえばそうだった。採寸の時に、それらしきことを言われていたのだ。
 うーん、と小さくうなってから、爽太は「寝る前だから、ちょっとだけだよ」と答えた。
 テオはたちまち顔をほころばせて「もちろん!」と喜ぶ。
「うれしいな。爽太が歌ってくれるんだ」
「あんまり期待しないでよ。僕は別に歌がうまいわけじゃないんだから」
 大した歌でもないのに、そんなに喜ばれると歌いづらい。爽太は少し荒っぽく服を脱ぎ捨てた。
 テオも服を脱いで、ベッドに上がりながら上機嫌で笑う。
「大丈夫。俺はただ爽太に歌ってほしいんだよ。それだけ」

 何を歌うべきかしばらく迷って、爽太は中庭で歌っているのとはまた別の歌を選んだ。
 今回も念のために日本語ではない歌にしようと考え、フィンランド語の歌を記憶の中からひっぱりだした。もちろん爽太はフィンランド語も知らないから、正しい発音では歌えない。確かこの歌は、動画サイトで見つけたのだ。フィンランドの民謡だっただろうか。
 テオのとなりに横たわり、爽太は口を開いた。

 異国の歌が寝室に広がる。

 寝ている時は、座っている時よりも歌いやすい気がする。
 中庭に向かっている時のほうが、開放的な気分になれて、のびのびと歌える気もするけれど。

 民謡なので、歌はそんなに長くない。
 歌い終えた爽太は、わざわざ終わりを告げるのが照れくさくて、ごそごそと寝返りを打ち、テオに背を向けた。
「ちょっと、なんでそっち向いちゃうの、爽太」
 テオが不満の声を上げる。その声にはかすかに甘える響きが隠れていた。爽太はふり返らずに答える。
「歌はおしまいだよ。テオ、おやすみ」
「ねえ爽太、せっかく歌ってもらったのに、お礼も言わせてくれないの?」
 そう言われると、恥ずかしさで背を向けてしまった自分が本当に子どもっぽく思えて、しぶしぶ爽太は寝返りを打ってテオのほうへ向き直った。
 テオがおだやかに笑みを浮かべ、「子守歌をありがとう、爽太」とささやく。
「あまり子守歌っぽくなかったかも」
「そんなことないだろ。静かな歌で、寝る前にはぴったりだったよ」
「……ならいいけど」
「これからも時々こうして歌ってくれる?」
 爽太は少し眉をひそめたが、「……たまになら」と答えた。
 喜んだテオが爽太の体に腕をまわし、抱き枕のように抱き寄せて眠りに落ちてからも、爽太は炎の王子のことを考えて、すぐには眠れなかった。

 自分が真名を知っている王子ふたりに、歌を歌って聞かせてしまったわけだ。
 だからどうしたと言われたら、それまでの話だったが、なんとなく落ち着かない。

 霧のような雨が降っている。
 昼寝から起き上がった爽太は、窓の外を見やって目を見開いた。
「あれ、アンディー様だ」
 霧雨が静かに降る中庭を、悩めるオサナゴが歩いている。
 あんなに無防備に外を歩いて、雨で濡れて風邪をひかないだろうか。声をかけようと思って窓を開いた爽太の耳に、歌声が届いた。

 豊かな国の幼き子らよ
 我らが祖国の繁栄に
 恵みをもたらす小さき者よ
 我らが王の礎となれ

 アンディーが歌っている。
 ケイナがくれたハンカチに書かれていた、オサナゴの詩。爽太の晴れ着の帯にも縫いつけてあった祈りの言葉。
 不思議なことに、アンディーが歌っているのは爽太の知らない言葉だった。それなのに、爽太はその歌の意味がはっきりとわかったのだ。あのオサナゴの詩だと。

 衝動的に爽太は窓を全開にして、中庭へ飛び出していた。テオが後ろで呼んでいるのもかまわずに、まっすぐアンディーのもとへと駆け寄っていく。
「アンディー様!」
 くり返し同じフレーズを歌っていたオサナゴは、霧雨にけぶる黒いまつげをまばたかせ、緑の瞳に爽太を映した。アンディーの目の前へやってきた爽太を、何かまぶしいものでも眺める目つきで見つめている。
「……爽太様と初めてお会いした時も、こうでしたね」
「へ?」
「雨が降っていて、私は中庭で雨に濡れていて……そこに爽太様がいらした」
 そういえばそうだった。
 最初の頃、アンディーとは朝食の席で会ったことがなくて、たまたま雨が降ってきた時に中庭を見て、そこに立っているアンディーを見つけたのだ。
 しかし、今の爽太はそんな思い出にひたっている余裕などなかった。
「……あの、アンディー様、それよりも今、歌を……」
「えぇ、歌っていました。この歌を覚えるようにと言われたのです」
 アンディーは小さく笑った。
「王宮内の神殿から人が来て、その人が歌うとおりに歌えと……。婚礼の儀式に必要なのかもしれませんね」
「そ、その歌、もしかして、コラナダの言葉で歌っているのですか?」
 食い気味に尋ねた爽太を、アンディーがどこか切ない顔つきで眺めている。
「……爽太様にも、この歌の意味がわかったのですね」

 髪が、肩が、手足が、霧雨に濡れて少しずつ湿っていく。それなのに、爽太はそこから動けなかった。
「私たちオサナゴは、この国の言葉がわからない。すべて自分たちの母国語に聞こえてしまうし、文字だってそうだ。だからこの国の言葉は覚えられないのだと、そう思っていました」
 アンディーの声が、どこか遠くから聞こえる。
「でも、歌だけは、そうではなかった。旋律に乗せた言葉は、母国語として耳に届かないのです」
「じゃあ、歌にすれば、この国の言葉がわかるということですか?」
 アンディーが首をふる。ウェーブのかかった黒い髪が、頼りなげにゆれる。
「私もそう思って、花の王子にいくつか歌をお願いしたのです。確かに私の知らない言葉の歌として聞くことができました。コラナダの言葉の発音が聞こえたんです。でも、何ひとつ意味がわからなかった。私が意味を理解できたのは、このオサナゴの詩だけだった」
 どういうことだ。
 爽太がその意味を理解する前に、うなだれたアンディーは両手で顔をおおってしまった。
「オサナゴとは、なんなのですか? オサナゴの詩だけは歌を聞いても意味が通じる。いったい、この詩にどんな呪いがかかっているというんです? それともオサナゴになった私たちが呪われているんですか? 自分が自分ではないみたいで……それがとても怖い」

 テオが従者とともに中庭を横切ってくるまで、爽太はアンディーとともに立ち尽くしていた。

[第八章 完]