豊かな国の幼き子らよ 07

第七章 訪問者

 誰かがこの部屋に向かってくる。その足音から、従者でもテオでもないことに気づいた爽太は顔上げた。部屋の入口から少し離れたところで、ささやきを交わす気配。ほどなく、見張りに立っていた従者が叫ぶように訪問者の名前を告げた。
「爽太様、アンディー様がお見えです。少しお話がしたいと……」
「大丈夫です。お通しして下さい」
 答えながら爽太は立ち上がった。
 爽太の部屋は、テオとふたりで使っている寝室を経由しないと出入りできないため、爽太が自分の部屋にいる時は、従者は寝室の入口から爽太を呼ばなければならなかった。寝室に入ってきて爽太の部屋の入口まで呼びにいくのは失礼だと考えているのか、わざわざ寝室の入口から爽太の名前を呼ぶ。爽太やテオが寝ている時は、従者たちは音もなく寝室の中へ入ってきてイスのところへ着替えを置いていくのに。

 急いで小さな部屋の中を横切り、寝室へ入っていくと、ちょうど寝室の入口にアンディーが姿を見せたところだった。
 誰もいない寝室に踏みこむのをためらっていたアンディーは、爽太の姿を認めて安堵した表情を浮かべる。
「爽太様、すみません。勉強の最中でしたか?」
「いいんですよ、そんなの」
 爽太が微笑めば、どこか困ったような笑みが返ってくる。ふたりで爽太の部屋に戻ると、アンディーは爽太と向かい合うように腰を下ろした。
「今日はどうされたのですか?」
 尋ねながら爽太は読みかけの本を開き、勉強を続けるふりをした。この半年かそこら、アンディーの突然の訪問にすっかり慣れてしまった爽太は、こうして他の作業をしながら話を聞くほうが、アンディーの罪悪感が少しでも薄れるらしいと学んでいたのだ。
「えぇ、その……」
 床に視線をそらし、アンディーは言いよどむ。

 ヒルデガルドが図書室から盗んだ禁書を、目の前のオサナゴにこっそり渡されて、およそ半年の時が流れた。そのあいだに爽太は自分が少しでも動きやすくなるよう、積極的に本を読んでコラナダのことを学び、こっそりとノートに王宮の地図をつくり続けた。そしてアンディーの主である花の王子は婚礼の準備が着々と進み、肝心のアンディーはしばしば不安になって、爽太のところへ相談しに来るようになった。
 本来であれば、花の王子は最年長の王子で次期国王なのだし、そのオサナゴであるアンディーは爽太の手本になることを期待されていたのだろう。しかし、この半年ですっかり立場は逆転していた。アンディーは自分の悩みを黙って飲みこみ続けていることができず、口からあふれそうになるたびに爽太の部屋を訪れる。爽太はそれを聞くだけだった。
 そう、愚痴や悩みをただ聞いてくれるだけの相手が他にいないのだ。
 従者たちはオサナゴに一歩引いた態度をとるし、主とは距離が近すぎて、主についての悩みを言うわけにはいかない。今この王宮で他のオサナゴといえばケイナだったが、国王のオサナゴである彼は多忙なのに加えて、アンディーにとっては少し恐ろしい存在らしかった。

 なんとなく予想がついていたことだったが、アンディーの悩みは主の結婚後、どう夜をすごせばいいのかということだった。
 夫婦の閨に同席しなければならない。のみならず、ことが終わったあとの夫婦と同じベッドで眠らなければならない。どれだけ本を読んでも、テオに説得されても、いまだに納得できないオサナゴのきまりのひとつだ。
「この世界に来る前の私は大人でした。恋をして、女性と関係を持ったこともあった。なのに今はそれが理解できない現象になってしまって、それが恐ろしいのです」
 言葉を選んで、アンディーが語る。本を読むふりをしながら、爽太は耳をかたむける。

 オサナゴになった自分たちは、性欲というものがよくわからなくなってしまった。あれほど自然な欲求として自分の中にあったものが、今は感じられない。
 一度、爽太は試しに記憶をたどって、元の世界で見たAVの映像などを思い出してみたものの、男女が髪をふり乱し、息を荒げて興奮する姿は、滑稽に思えるほどだった。記憶に残っているくらいなのだから、かつては自分も興奮しながら見ていたはずなのに。
 しかし、たとえ性欲があったところで、テオが妃を抱くところなんてわざわざ見たくもない。そしてオサナゴになってしまった今、そんな場面を延々と見せられた時には不快な顔をしてしまいそうだった。たとえば、うっかりテオや妃と視線が合ったら雰囲気を壊してしまいそうな顔。だいたい、どんな表情を浮かべてその場にいろと言うのか。
 それはアンディーも同じことで、迫りくる主の初夜を恐れていた。
「ただ、息を殺して、自分はその場にいないのだと言い聞かせて、じっとその時をやりすごせばいいのだと頭では理解しているのです。でも、たまに叫びそうになります。なんでこんなことをしなければならないのかと」
 ささやくように小さな声で、アンディーは言った。
「初夜のあとも、それからずっと同じことをくり返すのでしょう。いずれ私も慣れるのだろうと思います。でも、そのことを考えると私は気分が悪いのです」
 ならば考えないようにすればいいのに、と思ったが、爽太は黙ってページをめくった。

 禁書を読んでいた時も感じたことだが、ほとんどのオサナゴは自分の主を嫌ってはいなかった。むしろ何らかの事件が起こるまでは好意的だった。主とオサナゴの特殊な関係を考えれば無理もない。
 しかし、そのせいでアンディーがうまく割り切れずに堂々めぐりの悩みをくり返しているのも事実だ。花の王子のことをなんとも思っていなかったら、アンディーはここまで悩まない。彼は彼なりに自分の主になついていて、そのせいで余計に閨への同席や同衾を嫌がっているのだった。
 爽太はこの手のことをあまり考えないようにしていたのだが、アンディーが時々こうして不安を吐露しに来るので、否応なしに考えることがあった。
 ただ、爽太はさほど悶々としない。きっと自分はその時が来たら、目を閉じて耳をふさいで、頭の中で歌でも歌いながらやりすごすだろう。テオには「俺を見てくれ」と言われたが、そんなの知ったこっちゃない。「なんで見てくれなかったんだ」と聞かれたら「ちゃんと見てたよ」としらばっくれるだろう。この半年のあいだに、爽太は多少なりとも図太くなっていた。
 アンディーも、もう少し吹っ切ってしまえばいいのに。
 そう思いながら視線を上げる。緑色の瞳が淋しそうにまばたいて、爽太を見返した。

 爽太がこの世界に来た当初は、テオと一緒にいることが多かったが、最近は別々の行動も増えてきた。
 とはいえ、爽太が自由行動を許されているわけではない。爽太はひとりで勉強する時間を与えられて、自分の部屋で本を読んだりノートをとったりすることが増えたのだ。もちろん、廊下には見張りの従者が立っている。
 疲れてくると、中庭をひとりでぶらぶらと散歩した。爽太が自分の部屋から離れて中庭の向こうへ行こうとしない限り、従者も何も言わない。
 食事とお風呂と就寝は、相変わらずテオと一緒だった。
(最近は朝食の席で、たまにアンディーと顔を合わせる日もあった。表向きの理由では、彼は朝の仕事があると言って朝食の席に出ないのだが、実は他の王族たちと顔を合わせるのが苦手で部屋にひきこもっているのだと、数ヶ月前にアンディーは白状した)

 不安定になりやすいアンディーが頼る唯一の相手として、爽太はここ数ヶ月ですっかり周囲の信頼を得てしまった。
 ある日、「花の王子がね、爽太にお礼をしたいんだって。何かほしいものはある?」とテオに聞かれた時は返答に困ったものの、爽太は殊勝な顔をしてこう答えておいたものだ。
「お礼はいいから、殿下に伝えておいてよ。アンディー様は僕よりも繊細な方だから、もっと寄り添ってあげてほしいって」
 本当にほしいものは言えないし、花の王子に求めたところで得られまい。
 テオは爽太の優等生然とした答えに顔を輝かせ、「俺のオサナゴは本当にやさしくて、勉強熱心で無欲だね」と笑った。
 数日後、花の王子からのお礼の品として、さまざまなお菓子やお茶の葉が部屋に届いた。爽太はテオにお礼の手紙を代筆してもらい(オサナゴはこの世界の文字を書けないからだ)、自分が勉強している時や、テオと一緒に仕事をしている時に適当なタイミングを見計らってお菓子やお茶を出してくれるよう従者に頼んだ。おかげで、最近の爽太は少し変わったお菓子を食べる機会に恵まれている。
 今のようにアンディーが訪ねてきた時も、本来であればいただいたお菓子やお茶を出してもてなすべきなのだろう。しかし、アンディーは他の人にあまり話を聞かれたくないらしいので、従者には特に何もしないようお願いしている。

 翌日も勉強時間を与えられて部屋にこもっていた爽太は、誰かがやってくる気配に眉をひそめた。アンディーかと思ったが、それにしては少し足音が重い。誰だろう。それともアンディーが何かを持ってきたのか。二日連続でやってくるのは珍しい。
 ひとりですごせる時間をあまり邪魔されたくないな。本音を心の底に隠して、爽太は立ち上がる。寝室のほうへ顔を出すと、まさに寝室の入口をのぞきこんだ従者が、爽太を呼ぼうとしていたところだった。
「あぁ、ちょうどお声をかけようと思っていたところです」
 従者はわずかに声をひそめる。いぶかしく思って、爽太は近づいた。
「どなたがいらしたんですか?」
「それが、その……炎の王子がおいでです」
「えっ」
 さすがに驚いて、爽太は口を開けた。
 炎の王子の真名を呼んでしまい、自分の主はテオだと主張したあの一件から、彼との接点はほとんどなかった。廊下でばったり出会って、真名を呼んでほしいと頼まれた一度だけだ。朝食の席でもしばらく彼は爽太の視線を避けていたし、最近は普通に視線が合うようになったとはいえ、会話をすることもほとんどなかった。なのになぜ突然、ここを訪ねてきたのだろう。
 しかも、テオの留守中に。

 同じことを案じているのか、従者はさらに声をひそめてささやいた。
「水の王子はご不在だとお伝えしたのですが、それでもかまわないから爽太様にお会いしたいと……」
 なんだか面倒なことになりそうだ。爽太はかすかにうなる。
 ただ、追い返すつもりはなかった。いったい何の用なのか気になるし、露骨に追い返そうものなら、ようやくおだやかになってきた均衡が崩れてしまう。
 以前のように朝食の席で不自然に目をそらされるのは、気持ちのいいものではなかった。王宮にいる人間、つまり爽太が毎日顔を合わせる相手は基本的に入れ替わらないし、この人間関係から逃げる場所もないのだ。できれば穏便に済ませたい。
 爽太は従者を安心させようと、少し微笑んだ。
「では中庭でお話ししましょう。お通しして下さい。それから、僕と殿下が中庭にいるあいだ、窓際で見守っていてほしいのです」
 従者は目に安堵を浮かべ、「かしこまりました」とうなずいて、少し離れたところで待っている炎の王子を呼びに行った。

 中庭に、やわらかな日差しが降りそそぐ。
 子どもの視線から見上げた炎の王子は、燃えるような赤い髪が日の光に照らされて、少しまぶしかった。
「突然すまない。水の王子がいない時に訪ねたりして」
 炎の王子がぎこちなく微笑む。爽太を怖がらせまいとして笑顔をつくっているのかもしれない。あるいは、照れ隠しで笑っているようにも見える。
 なるべく平静を装って、爽太は尋ねた。
「何か、大事なお話なのですか?」
 さくり、と小さな音を立てて、炎の王子が地面を踏む。
「……風の王女が最近、体調を崩していることは知っているだろう」
 低くかすれた声で、つぶやくように炎の王子はそう言った。
 ここ数日、風の王女は朝食の席に出たり出なかったりしていたのだ。「どうも具合がよくないみたいでね」とテオが教えてくれた。てっきり風邪でもひいたのだろうかと思っていたのだが。
 そういえば、と爽太は我が身をふり返る。慣れない環境で、ストレスを感じてお腹が痛くなってもおかしくないのに、今のところ爽太は半年前に中庭で感情を爆発させた程度で、体調はすこぶるよかった。まさかこれもオサナゴになったせいなのだろうか。
 爽太の気がそれていることにも気づかず、炎の王子は深刻な顔つきで地面を見つめている。その唇が開いた。
「オサナゴがいないからだ」
「……風の王女に、ですか?」
 炎の王子は完全に立ち止まってしまった。爽太のほうを見ないまま、「もちろんそうだよ」と答える。
「彼女の年齢なら、オサナゴがいてもおかしくない。でも、まだオサナゴが見つからない。子どものうちはまだいいんだ。病気に強いから。でも、大人になってもオサナゴがいないと……」
 その先を飲みこんで顔を上げ、褐色の瞳が爽太をまっすぐに射抜く。
「爽太……本当にお前は俺のオサナゴじゃないのか? 俺の真名を知っているのに」

 心臓がぎくりと跳ねた。

 炎の王子は友達のユウトによく似ているけれども、髪の色がちがう。瞳の色もちがう。テオは友達のテオとまったく同じだった。それだけだ。
 でも、どちらかを選べと言われたら、爽太は元の世界の友達と同じほうを選ぶ。他に選び方なんてわからない。何が正解なのか、誰も教えてくれやしない。爽太が決めるしかなかった。だからあの時、爽太はテオを選んだ。最初に自分が見つけた相手、元の世界の友達とまったく同じ外見の相手を。
 本当にそれでよかったのだろうか?
 爽太の本当の主が誰なのか、それはテオか炎の王子のどちらかが亡くなればはっきりすることだ。オサナゴは主のあとを追って死ぬ。でも、そんなの試せるわけがない。だから国王もあの時、爽太に決めさせた。傾国のオサナゴに誰かを選べと告げた昔の国王のように。
 できれば、そんな大変なことを決めたくはなかったと思う。この国の歴史や、王族とオサナゴの仕組みについて知れば知るほど、爽太はテオを選んだ時のことを思い出して気持ちが沈んだ。どちらかを選ぶというのは、選ばなかったほうを捨てるということなのだ。
 オサナゴのいない王女が体調を崩し、それを目にした炎の王子は、爽太のことをあきらめきれなくなったのだろう。恐ろしいほど迷いのない瞳で、爽太の内心の迷いを見透かすように尋ねてくる。本当に爽太はテオのオサナゴなのかと。

 視線をそらさず、爽太は口を開いた。声がうわずったり、ふるえたりしないことを祈りながら。
「……前に言ったとおりです。僕は確かにあなたの真名を知ってる。でも、僕はテオの、水の王子のオサナゴだ」
 ぎゅっと目をつむってしまいそうになるのをこらえて、かわりに爽太は手を握りしめた。自分を励ますように。

 問い返す炎の王子の声は、不思議なほどおだやかだった。
「お前は俺を選んでくれないのか?」
「そういう言い方、あんまり好きじゃないです」
「だってそのとおりだろう。お前は俺と水の王子の真名を知ってる。お前は自分の主を選べるんだ」
 さくり、と再び地面を踏む音がした。近づいてきた炎の王子が、身をかがめて顔を寄せる。
「なあ爽太、俺を主に選んでくれないのなら、せめて俺の真名を呼んでくれ」
「え……」
 見上げた褐色の瞳には、途方に暮れた様子の爽太が映りこんでいる。
 爽太だけをその瞳に映して、炎の王子は静かに言いつのった。
「お願いだ。俺の真名を呼べるのはお前しかいないんだよ、爽太」
「……ユウト?」
 炎の王子は小さく笑って「もう一度」とささやいた。
「ユウト」
「そうだよ。俺の真名だ」
 小さな子どもに笑いかけるように、炎の王子は笑った。真っ赤な髪が、日の光にきらめく。
「……これからも、今みたいに呼んでほしい。水の王子がいない時に」

 テオが戻ってきたのは、炎の王子が立ち去ってから一時間もしない頃だった。
 王宮の外へ行くのでもない限り、テオは爽太を長時間ひとりにしない。勉強時間として与えられるのは、長くてもせいぜい二時間くらいだ。どうやらそのあいだに、テオは謁見などの仕事をこなしているようだった。爽太を一緒に連れていったところで、王宮の外の人間と顔を合わせる謁見の場には同席させられない。だからちょうどいいというわけだ。
 従者に報告を受けていたのか、寝室に入ってくるなり、テオは少しあせった様子で「爽太、何もなかった?」と聞いた。
 自分の部屋にいた爽太は急いで本を閉じ、ぱたぱたと寝室へ走っていって、どすんとテオに抱きつく。こういうふうに、幼い子どもが親に甘えるしぐさを真似れば、喜んだテオが態度をやわらげるのだということを、爽太はすでに学んでいた。
 自分の性格は大人のままであっても、子どもっぽくふるまうほうが、オサナゴとして王宮の中で世渡りしやすい。
 もう一度「大丈夫?」と尋ねるテオの声からは、すでにあせりが消えている。
「うん」
 ぐりぐりとテオの胸に自分の頭をこすりつけ、子どもっぽく甘えてから、爽太はひょいと顔を上げた。テオを見つめて、明るい声を出す。
「炎の王子は、風の王女が体調を崩してるから心配なんだって」
「あぁ……」
 テオが悲しそうに眉を下げる。
「彼は子どもの頃、風の王女と仲良く遊んでいたからね。無理もない……」
「そうなの?」
「しょっちゅう彼女に、おままごとで騎士の役をやらされていたよ。赤毛の騎士なんていう称号までつけられて。彼女は俺や花の王子よりも、炎の王子がお気に入りだったから」
 懐かしそうに語りながら、テオの手が爽太の頭をなでる。
「爽太、少し疲れただろ。次は書斎仕事だし、花の王子にいただいたお茶をいれようね。お菓子も食べる?」
「食べる」
 爽太が即答すると、テオは声を上げて笑う。廊下に控えていた従者が、心得たとばかりにうなずいた。

 ノートとペンを手にして、爽太はテオとともに書斎へ向かう。
 テオの態度を見る限り、炎の王子との会話は従者にも聞こえていなかったようだ。テオがいない時に真名を呼んでほしい、と炎の王子から頼まれたことについて、爽太は誰にも言うつもりはなかった。だいたい、そんなにしょっちゅう彼がテオの不在を狙って訪問すれば怪しまれるのは確実だ。だから実際には、そこまで真名を呼ぶ機会もないだろう。
 それに、テオになんでもかんでも報告する気にはなれなかった。炎の王子を警戒したテオが余計なことをするのは目に見えている。
 もちろん、アンディーにも言わない。秘密を知る者は増えれば増えるほど危険だ。
 炎の王子が去り際、従者に背を向けて、爽太にしか見えないところで共犯者めいた微笑みを浮かべたことを思い出したが、爽太は首をふって忘れようとした。

 寝る前に服を脱ぎながら「明日は昼食のあとで採寸があるからね」とテオが言った。
「採寸? 新しい服をつくるの?」
 爽太は首をかしげる。
 この世界へ来てからというものの、一度だって採寸されたことなどなかった。王宮の中で目を覚ました時から爽太はオサナゴのワンピースを着ていたし、従者が毎日持ってきてくれる服もそれと同じサイズだ。服といっても長袖で丈の長いワンピースだから、シャツやズボンやスカートに比べると、そこまで厳密にサイズを測らなくても大丈夫なのかもしれない。なのに、どうして今さら改まって採寸する必要があるのだろう。
 テオはうれしそうに「そうだよ、爽太の晴れ着をつくらなきゃ」と笑顔を見せた。
「花の王子の結婚式は王宮の中で行われるからね。だからオサナゴも全員参加するんだよ」
「あぁ、そういうことか」
 オサナゴが王宮から出られるのは、即位式の時だけだと聞いたことを思い出す。ということは、即位式は王宮では行わないということなのか。
 爽太の考えを見透かしたのか、テオは「即位式は神殿で行うんだけどね」と言った。
「結婚式は神殿でやらないの?」
「王宮の中にも、小さな神殿がある。結婚式はそこを使うんだ」
「ふーん」
 男性もワンピースを着ている国での晴れ着って、どんな感じなんだろう。ワンピースがごてごてと派手になったようなものなのかな。想像してみようとしたが何も思い浮かばず、爽太は脱いだ服をイスにかけた。最初は裸で寝るなんて無理だと思ったのに、半年以上もたてば慣れてしまうものだ。
 なんだって男と添い寝しなきゃいけないんだと思ったのに、今ではテオと同じベッドで寝ることにも慣れてしまっている。その男から、まるで抱き枕を扱うように抱きつかれても。

 王族御用達の仕立て屋と顔を合わせるのは、もちろんこれが初めてだった。
 オサナゴは王宮の外の人間とは基本的に顔を合わせることがない。しかし、数少ない例外のひとつが仕立て屋で、こうして晴れ着を仕立てる時だけは採寸のために顔を合わせるということだった。
「過去には、自分のオサナゴを仕立て屋に見せたくないと言って、従者に代理で採寸させる王族もいたみたいだけどね」
 仕立て屋の到着を告げる従者とともに、採寸用の別の部屋へ向かいながら、テオはそう言った。
「代理で?」
「そう。どこを測ればいいか仕立て屋に確認して……。でも、手間がかかって面倒だし、仕立て屋だってここへ来るまでに厳重なチェックを受けてるからさ。さすがにそこまで警戒する必要はないと思うよ、俺は」
 爽太はテオと並んで廊下を歩いていたが、目的地の部屋の前で従者が立ち止まり、突然くるりとふり返ったテオを見て、すべてを察した。
「……テオ、抱っこしないと駄目?」
「抱っこさせて。俺が常に爽太のことを見守ってるんだってアピールしないといけないからね」
 爽太はしぶしぶ両腕を上げて、かがんできたテオの首に巻きつけた。テオは慣れた手つきで爽太を抱き上げ、従者のあとをついて部屋に入っていく。

 仕立て屋は女性だった。年齢は四十代くらいだろうか。
 王族以外の女性と顔を合わせるのは非常に珍しいことだったので、爽太は思わずまばたいてしまった。この世界に来てから、爽太が出会った女性は王妃とふたりの王女、そして彼女たちのそばに控えている侍女だけだったのだ。広すぎる王宮の中で、それぞれの従者や侍女が足を踏み入れていい場所は厳密に定められていて、見慣れない顔にばったり遭遇することもめったにない。知らない人と会うこと自体が久しぶりだった。
(王宮の外から謁見に来た人々とは、カーテンでへだてられていて顔もよく見えないし、会話をかわすこともない。それに、爽太がひとりで勉強する時間を与えられるようになってからは、その機会もなくなった)

 仕立て屋の女性は、きりっとした顔をかすかにほころばせてあいさつした。
「殿下、お久しぶりです。オサナゴ様にお会いできて光栄ですわ」
「俺もこの子に出会えてうれしいですよ」
 テオは彼女に微笑んでから、まだ抱き上げたままの爽太にささやきかける。
「残念だけど、彼女の前ではお前の名前を呼ぶことができないんだ。オサナゴの名前を教えてはいけないからね……お前も名乗ってはいけないよ」
 どこまで秘密主義なんだと思いながらも、爽太は「わかった」とうなずいて、テオの腕から下ろしてもらった。
 仕立て屋が少し腰をかがめ、爽太と目線の高さを合わせる。
「はじめまして、オサナゴ様」
「……はじめまして」
「素敵な晴れ着を仕立てましょう。あちこち測りますが、すぐに終わりますからね」
「晴れ着って、どんな格好をするんですか?」
 爽太が尋ねると、仕立て屋は驚いた様子で少し目を見開いたが、すぐに小さく笑みを浮かべる。
「……オサナゴ様は宝石をつけてはいけないというきまりがございますの。ですから、王族の方々のように宝石を縫いつけることはいたしません。そのかわり、美しい糸をたっぷりと使って、目を驚かすような刺繍で飾るのです」
 なるほど、王族の晴れ着には宝石を縫いつけるのか。爽太は元の世界のテレビニュースで見かけた海外の王室の結婚式や、歴史漫画で読んだ王侯貴族の衣装を思い浮かべようとした。
「宝石をつけないのは、どうしてですか?」
「私も詳しいことは……。ただ、昔からそうなのです。オサナゴ様の晴れ着は、すばらしい刺繍で飾るもの。それと、両肩から帯のように細長い布を背中に向かってたらします。歩く時も後ろに引きずるほど長い布です。細長いマントのようなものですね。そちらも右と左とで左右対称になるように刺繍をあしらうのです」
「へえ……」
 身分が高い人々の晴れ着は、基本的に歩きにくいものであるようだ。爽太の脳裏に、長いマントを引きずって歩く王子や、長いドレスのすそを引きずって歩く王女の絵が浮かんだ。どちらも元の世界で見たものだったが、きっとこっちの世界にも似たような格好があるのだろう。
 ふと爽太はテオをふり返った。
「テオは? テオも一緒に採寸するの?」
 仕立て屋と爽太のやりとりをうれしそうに眺めていたテオは、「もちろんするよ。お前のあとでね」と答える。

 今の爽太は、オサナゴの服や王宮の壁の意匠に意味があることを知っている。
 オサナゴをここから出さないための呪文が、爽太にはわからない形で描かれている模様。
 晴れ着の刺繍も、もちろんそういう意味を持っているのだろう。
 そんなことは知らないふりをして、爽太はにこにこと無邪気そうに笑い、「お仕事や勉強は疲れちゃうから、たまにはこういうのも楽しいね」とテオに声をかけた。
 爽太が禁書を持っていることも、爽太が炎の王子の真名をこっそり呼んだことも知らないテオは、幼い我が子を見つめる父親の表情で「そうだね」と答える。
 仕立て屋はその様子を微笑ましそうに眺め、てきぱきと爽太の採寸を進めた。

 アンディーがどれだけ悩んで爽太の部屋を訪れたところで、その日は着々と迫ってくる。
 花の王子の結婚に向けて、王宮の中はあわただしく動いていた。