砂漠の虜囚とか冗談じゃないし

 あっこれ見たことあるわ。見たことあるというより読んだことあるわ。これはいわゆるテンプレとか王道とかお約束とか、そういう展開でしょ?
 問題は、それが自分の身に起こってる現実のイベントらしいってことなんだけど。
 のっそりと顔を上げ、漫画や映画でしか見たことのない豪勢な室内を見回したカナタは、ははは、と笑った。
「まじやばい」

 地平線のかなたまで遠く見通すような広い視野を身につけてほしい、という思いをこめて、両親は息子をカナタと名づけた。そんな両親だったので語学教育にも熱心であり、カナタは姉のナナとともに子どもの頃から英語や中国語、スペイン語など、さまざまな言語に接して育った。ちなみに姉の名前は海外の人にも発音しやすいものを選んだのだそうだ。
 姉のナナは現在、日本のさまざまな女性向けのオタクコンテンツを海外に紹介する仕事をしている。自分の意見を堂々と伝える彼女は、日本では「女性らしくない」「生意気だ」と思われがちなのか、あまり日本人男性とつきあっている話を聞かない。最近聞いた話では、香港人の彼氏がいるという。
 しかし、そんな姉は実を言うと昔からハーレクインが大好きだ。「現実を忘れて、開き直って楽しめるからいいじゃない」と言って、よく読んでいる。のみならず、日本のBL漫画やBL小説も「ハーレクインに似てる」と言って、ちょくちょく読んでいる。読むだけでなく一部は海外に紹介し、ちゃっかり仕事のネタにしている。

 なぜこんな話を説明したのかというと、この姉の影響で、カナタはBLというジャンルの本もそれなりに読んだことがあるのだった。姉が貸してくれるのだ。
 いや、まぁ、ぶっちゃけBLに出てくる男って、あれでしょ、女っぽいでしょ。股間についてることはついてるけど、漫画だと黒線や白い丸なんかで隠されてるし、小説でも隠語になってて露骨な表現って出てこないんだよね。性格もなんかめそめそしてるしさぁ。だから平気っちゃ平気。ノンケの俺でも無問題。もっとゴツゴツした体格の男とか、毛むくじゃらの男が犯されるBLもあるらしいんだけど、うちの姉ちゃんの好みじゃないから読んだことないし。
 こういうファンタジーもあるんだなぁ。エロいものはそれなりに楽しめるからいいや。女の人って恋愛ではこんな面倒くさいことをうじうじ考えてるのか、などと思いながら、カナタは姉がたまに貸してくれるBLを読む。ひとり暮らしの部屋が狭いらしく、姉は定期的に実家へBL漫画やBL小説を置いていくので、それをちょいちょい読んでいるというわけだ。

 そんなファンタジーのBLワールドはさておき、ここが本当にアラブのどこかだったら困るな。さすがに俺、アラビア語はわかんないぞ。フスハーもアーンミーヤもさっぱりだ。
 漫画で見たアラブのハーレムのような文様や調度品に埋め尽くされた、異国情緒あふれる室内を眺めて、立ち上がろうとしたカナタは嫌なものに気づいた。自分はキングサイズのベッドの上に寝そべっていて、左の足首にはごてごてと装飾をあしらった金色の足枷がはまっている。足枷には太い鎖がついていて、どうやら遠くまで逃げられないように拘束されているらしかった。
「う、うわー! まじかよ!」
 カナタは叫んだ。声に出すと、少し気がまぎれて冷静になれた気がした。いや、まだ冷静になれていないはずだ。ちょっと待て、状況を把握しよう。
「えーと……来年は就活だから、その準備みたいな感じで様子見しようと思って東京に来た。ついでに姉ちゃんと会うことになって、忙しいからごはんは無理だけどお茶しようってことで近くのホテルのラウンジに入った」
 小声でぶつぶつとつぶやく。
「お茶して、予定がある姉ちゃんを見送ったあと、トイレを済ませてから出ようと思ってホテルのトイレに行った。トイレを出たあたりがよくわかんない……。なんか濃い顔つきのお兄さんに話しかけられた気がする。そして目を覚ましたらアラブ風の部屋にいて、でっかいベッドに寝てて、足首になんかはめられてる。逃げられない」
 言葉を切ったカナタは、再び室内を見回す。
「……で、これってBLの『アラブもの』っていうテンプレかな?」
 記憶を失っているうちに拉致・監禁なんて、BLのお約束そのものじゃないか。これで自分が全裸だったら完璧だ。ここでとっさにBLのお約束だと考えてしまうあたり、カナタの想像力はいささか変な方向に育ってしまっているのだが、当の本人は気づかない。沈黙に耐えきれず、ははは、と笑った。
「まじやばい。人権侵害だよね?」

 ほどなく事態は進展を迎えた。頭にカフィーヤを巻いた男性が部屋に入ってきたのだ。思ったとおり、日本人ではなかった。少なくとも日本人らしい風貌ではない。ひげもしっかり生やしている。そういえば、BLのアラブものは、ひげを生やしていない登場人物ばかりだったな、とカナタはどうでもいいことを考えた。日本の女性にはひげが嫌われるからだろう。うわぁ、本当にどうでもいいこと考えてる。動揺してるせいだな。
「目が覚めたか。具合はどうだ」
 男性が言葉を発した。よかった、英語だ。カナタは英語で簡潔に言い放つ。
「ここはどこだ。俺の足首についているものをはずせ」
 男性は平然と答えた。
「ここは私の屋敷だ。それと、お前の鎖をはずすわけにはいかない。逃げられては困るのでな」
 カナタは声にわざといらだちをにじませ、一語一語はっきりと発音してやった。
「こんなふうに拘束される理由がない。俺は犯罪者だとでも?」
「まさか、とんでもない」
 初めて男性が笑った。子どもの見当ちがいの意見を聞いてあきれているような笑い方だった。これがリアルなBLだったとしても、そうじゃなかったとしても、どっちにしろ面倒なことになりそうだ。そもそも今この状態がすでに面倒なことになってるけどな。この男を怒らせないようにすべきなのか、あえて怒らせるべきなのか。うーん、とりあえず相手の目的がわからんことには動きづらい。
 カナタはちょっと考えて、単刀直入に聞いた。
「何が望みだ」
 男性はうっすらと笑みを浮かべる。
「お前を私のものにする」
「ぶはッ」
 思わずカナタは笑った。BLだ! まじBLだよ! どうすんだよ!
 変な方向に育ったカナタの想像力が、悲しいことに真実を引き当ててしまった。
「言っておくけど俺はストレートだ」
「私だってゲイではない。だが、お前はまるで女のように見えるからな」
「どこが?」
 カナタはさらに笑った。おいおいふざけんなよ、BLでアラブの王族や富豪に拉致される受けといえば、女みたいにほっそりしていて上品でたおやかな美青年だろ? いやいやふざけてるのは俺の頭だ。ここはBLの世界じゃない。この国では俺の風貌が女みたいだってことになるのか。そういえば俺はひげを生やしてないし……。そんなの、大半の日本人に当てはまるじゃないか。どっちにしろ、ふざけた話だ。

 カナタが思考をめぐらせているあいだに、男性はのっそりとベッドの上に上がってきた。やばい。何がやばいって体格差がやばい。明らかに相手は自分よりも大柄で筋肉がある。体格差どころか体力差も大きそうで危険しか感じない。危険なにおいのする男はお好きですか? 嫌いだよ! 怖い。好きでもない男にロックオンされた女の子の気持ちって、こういう感じなんだろうか。怖い。しかも俺の足首、拘束されてるし! 逃げられないし!
「だああ! ふざけんな! こっち来んな!」
 少しでも離れようと、むなしくあがくカナタを見下ろして、男性は平均的な日本人よりも濃い色の顔に笑みを刻んだ。
「そうやって無駄な抵抗をする姿も、実に愛らしい」
「気持ち悪いわボケェ!」
 英語を使うことすら忘れ、とっさにカナタは関西弁でののしった。日本語で罵倒やケンカをするなら関西弁に限る。しかし、ののしったところで状況は変わらない。男性がカナタを組み敷いた。ぎゃあああ顔が近い! 近い近い近い!
 至近距離で彼の熱い吐息が降ってくる。
「私の名前は✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕だ」
 聞き慣れないアラブ風の名前。由緒正しき生まれを象徴するかのような長ったらしい名前。これまたBLにふさわしい。だからこれはBLじゃないっつうの。
「お前には特別に、ハーリクと呼ぶことを許そう」
「遠慮する」
 今にも唇と唇がくっつきそうなので、あまり唇を動かさないように、カナタは小声で言い返した。ハーリクがふっと目元だけで笑う。
「つれないことを」
 つれてたまるか!

「姉ちゃん……ボーイズがラブだったよ……make loveだよ畜生……ふざけんな……」
 全裸のカナタはしばし放心状態で、ひとり巨大なベッドに横たわっていた。
 はい、事後です。やられました。まじ痛かったんですけど。なんなのこれ。あれは排便する場所であって、ナニを出し入れする場所じゃないんだよ。神様きっと怒ってるよ。俺、仏教徒だけどね。俺が神様だったらきっと「そういう使い方する場所じゃないからぁああ!」って叫んでると思う。それともあれかな、神様は人間が予期せぬことをしでかすのが面白いのかな。子どもの才能を見出して喜ぶ親みたいに。
「何が屈辱ってお前、割とその気になっちゃったことだよ……」
 ハーリクは一回で終わらせてくれなかったので、カナタは二回つきあわされることになった。しかも初回は痛みと違和感が強かったのに、二回目はちょっと気持ちよくなってしまった。ローションってすごいよな。俺も今度からは女の子とエロいことする時にローション使おう。いつもよりスムーズにいけそうな予感がする。それだけじゃなくて、ちょっと新しい扉を開きかけてしまった感がある。そうだ、あの感覚のおかげで、次からは女の子とする時にもっとうまくできそうな気がするぞ。よし、ちょっと気分が上向きになってきた。エロい気分って偉大だわ。
「ま、俺、男だしね!」
 元気な声を出して、カナタは起き上がる。ぶっちゃけ、エロと愛は別物だからな。やっちまったら、すっきりして終わりだよ。あっ、でも普通だったら、男にやられた屈辱で死にたくなったりするのかな。俺が自覚なかっただけで、実はバイセクシュアルだったとか? まさか姉ちゃんのBLの影響じゃないだろ。

「あー、疲れた……」
 そう言いながら、汗とローションで汚れた体をどうにかしたくて、あたりを見回していると、部屋の外から複数の足音が近づいてきた。ほどなく扉が開いて、頭にヒジャブを巻いた数人の女性と、ひとりの男性が部屋に入ってくる。男性が英語で告げた。
「浴室にご案内します」
「わかりました。ちょうどいいや、シャワー浴びたかったんだよな……」
 カナタが返事をするあいだに、男性はベッドに近づいてきて、その手に持っていたカギでカナタの足枷をはずした。走って逃げようかなと一瞬考えたものの、ここがどこだかわからない状態では危険だ。しかも全裸だし、汚れてるし。
 立ち上がったカナタの体に、女性のひとりが大きな布を巻いて裸を隠してくれる。女性たちの何人かはベッドメイキングを始めた。残りの女性たちは男性やカナタとともに浴室へ向かうようだ。本来なら、この場にいるのは、この女性たちだけのはずだったのではないかと、なんとなくカナタは感じた。カナタが暴れたり逃げたりする可能性を考えて、この男性も一緒に来た、そんな気がする。
「あっ……ですよねー」
 男性に見張られながらたどりついた浴室は、目に彩なすタイルで埋め尽くされた巨大な蒸し風呂だった。ハマームと呼ばれる公衆浴場に似ている。ただし、他に誰もいない。カナタが動くよりも早く、女性たちが彼の体から布をはがし、水やお湯をくんだりして準備を始める。英語が通じるであろう男性に向かって、カナタは試しに声をかけてみた。
「あのう、自分ひとりで体を洗いたいのですが」
 男性は表情ひとつ変えず、英語で答える。
「それはいけません。あなた様のお世話をするのが彼女たちの役割です。彼女たちの仕事を奪ってはなりません」
「はぁ、そうですか。なんか、そんな気がしたわ……」
 カナタはあきらめて、彼女たちのされるがままになった。なにしろ疲れていたので、余計な抵抗をするよりも、身をまかせて様子を見ようと思ったのだ。これが普通の観光旅行だったらなぁ。せっかく女の人たちに体を洗ってもらってるのに、全然わくわくしないわ。姉ちゃん、俺これからどうなると思う?

 カナタを浴室に連れていった男性は、ヘサームと名乗り、周囲にいる女性たちは全員あなたのためのメイドだ、と告げた。つまり侍女というわけだ。いよいよもってカナタは笑いだしそうになったが、どうにか耐えた。なんだこのBL展開。
 ゆったりとした衣服を着せられたところに、侍女のひとりが飲み物を持ってきてくれたので、風呂上がりのカナタはありがたくいただいた。冷たいレモネードにミントを混ぜてあるらしく、とてもさっぱりしている。あー、生き返る。
 飲み終わると、ヘサームが言葉を発した。
「食事をご用意しておりますので、こちらへ」
「あ、はいはい」
 逃げるにしろなんにしろ、腹が減っては戦ができぬ。カナタは従順に立ち上がった。しかし一応、前を歩くヘサームに何気なく問いかけてみる。
「あのう、俺のiPhoneがどこにあるかご存じですか?」
 ここで目を覚ました時、いつもポケットに入っているはずの硬い感触がなかった。彼らに奪われたのか、それともどこかで落としたのか。奪われたのだとしたら、どうせ素直に返してはもらえないだろうが、聞くだけ聞いてみなければ。
 ヘサームはちらりと目線をくれた。
「荷物と一緒に管理しておりますので、お返ししましょう」
「ありがとうございます」
 もしかしたら、iPhoneに何か変なアプリを入れられているかもしれないなと思いつつ、カナタはにっこり微笑んだ。

 さっきの部屋とはまた別の大きな部屋に通され、カナタはひとりで食事の席についた。給仕をする侍女と見張り役のヘサームの存在をなるべく意識しないように、せっせと羊肉をほおばる。どう見ても食べきれない量の料理の皿が並んでいたが、カナタは気にしなかった。きっとここでは客人が食べられないほどたくさんの料理を出すのが礼儀なのだろうと思ったからだ。確か中国もそうだったよな。
 食後は最初の部屋に連れていかれた。大きなベッドのわきにカゴが置いてあり、その中にカナタの服やカバンが入っていた。iPhoneもあったので、おそるおそるロックを解除してみる。まぁ当然ながら圏外だよね。Wi-Fiは多少飛んでるみたいだけど、パスワードがわからないな。さすがにパスワードは教えてもらえないかもしれない。だってネットにつながったら俺、いろいろ調べたり助けを呼んだりして逃げる気満々だし。
「ミスター・へサーム、Wi-Fiのパスワードを教えていただけますか」
 ヘサームは無表情で答える。
「ハーリク殿下の許可がありませんと、お教えすることはできません。それと、ミスターは不要です」
「……わかりました」
 やっぱり駄目か。しかし、ミスターをつけるなということは、見張り役の男性を呼び捨てにしなければならないのだろうか。一見フレンドリーだけど、多分そういう意味じゃないよね。でも、足枷もはずしたままだし、iPhoneも一応返してくれたし、思ったより動きやすくなるかもしれない。カナタは邪気のない笑顔を浮かべて、ヘサームに話しかけた。
「ヘサーム、いくつか聞きたいことがあります」
「お答えできる範囲であれば、なんなりと」
「ここは中東のどこかの国ですか?」
「そうです」
「この建物の外に出て、散歩やジョギングをすることはできますか?」
「できません。外はとても暑くて乾燥しています。運動には向きません」
 それもそうだろう。中東のどこだろうか。さすがにトルコやイスラエルではなさそうだ。イランか、エジプトか、それともアラブか。場所を推測するのはあとにして、カナタは質問を続けた。
「屋内で運動できる場所はありませんか? そこに行きたいのです」
 ヘサームは少し驚いたような顔をした。彼の表情を崩すことができて、カナタはにやりと笑う。肉を食べて、運動するのだ。自分がどうなるかわからないからこそ、体力はつけておかないとね。

 ヘサームが案内したのは、スポーツジムのようなマシンが並んだ一室だった。ここだけは他の部屋と異なり、壁も天井も真っ白でほとんど装飾がない。カナタはしばらくランニングマシンで走った。侍女がこまめに持ってきてくれる飲み物で水分補給しながら、運動と休憩をくり返す。何度目かの休憩中に、ヘサームが声をかけてきた。
「そろそろお戻りになる時間です」
「あ、そう?」
「浴室にご案内します」
「一日二回も? シャワーでいいよ」
「いいえ、身を清めていただかなくてはなりません」
 潔癖だなと思いながらカナタは言われるがままに浴室へ行き、またもや侍女たちに体を洗ってもらったが、部屋へ戻ってからようやく事情を察した。夜が来たので、またハーリクに抱かれろということらしい。なんだそれ。BLだな。まじBLだわ。精力絶倫の攻めに毎晩抱かれる受けだわ。いや、絶倫ってわけでもないのか。ハーリクの年齢は知らないけど、若ければそんなもんだよな。いやいや、その相手をさせられるのは俺みたいなんですけど。

 やがて、ハーリクが部屋に入ってきた。面白そうに笑みを浮かべている。
「カナタ、お前は今日、トレーニングルームで走っていたそうだな」
「走ったよ。何か問題でも?」
「いや……無理やり連れてこられたというのに、実に堂々としたものだ。お前は強い」
 くつくつと笑う。意味がわからない。俺のどこが強いんだよ、とカナタは内心つぶやいた。本当に強かったら、強引にぶっちぎってここを出てやるのに。それができないから、しばらく様子を見て体力をつけることにしたんだよ。
 黙っているカナタを見下ろし、ハーリクはまだ微笑んでいる。
「心配するな。私は芯の強い人間が好きなんだ。お前がどこかの姫君のように泣き崩れなかったからといって、気持ちが冷めたりはしないさ」
 いや、冷めてほしい。切実に。
「……別にそういうことは心配してない」
「では何を考えている?」
 面倒くせぇな。そう思ったカナタが何かを答える前に、ハーリクは馬鹿みたいに大きなベッドへ腰を下ろした。ベッドをソファのかわりにして座っていたカナタは、まるで自分が抱かれるのを待っていたみたいじゃないかと思って一瞬立ち上がりかけた。しかし、ハーリクの動きのほうが早かった。また顔が近い。むしろ全体的に近い! 親しくもない人間の顔がこんなに近くにあるのって、ちょっと怖いんですけど! ってお前、股間! それ股間! 当たってるから! めっちゃなめらかに押し倒されて股間当たってるから!
 なんだか腹が立ってきて、カナタはハーリクが唇を寄せてきてもまぶたを閉じず、じっとにらんだ。ハーリクは面白そうに見つめ返しながら舌を動かしている。両手もやたらとあちこちを動きまわっている。ほどなく恥ずかしさと敗北感でカナタは目をそらしてしまった。自分よりも大柄で、自分よりも腕力のある経験豊かそうな男に、好き勝手やられている敗北感。この野郎。
 姉ちゃん、俺やっぱりBLはファンタジーだと思うよ。だって俺は自分がBLみたいな受けの立場になったわけだけど、快楽に流されてほだされて攻めのことを愛しちゃったりしそうにないもんな。

 恐ろしいことだが、カナタはこの生活に一週間とたたず慣れてしまった。人間の順応力というものを甘く見てはいけない。建物の外には出られないものの、空調が行き届いていて快適だし、食事は(たまに和食が恋しいこともあるが)おいしいし、ネットにはつながらないもののiPhoneだって手元にある。足枷がついていたのも最初の日だけだった。どうやら逃げそうにない(逃げられそうにない)と判断されたらしい。
 いきなり拉致されて知らない男に抱かれるというBLな展開と敗北感を味わいながらも、彼は図太かった。「BLかよ!」と心の中で盛大にツッコミを入れたため、妙に冷静になってしまい、ここから脱出するために前向きな方法を考え始めたのである。しっかり食べて、体を動かし、自分の要望は英語の通じるヘサームに伝えてみた(丁寧に却下されることも多かったが)。
 しかし、それでも時間は余る。カナタは当初、運動しない時は音楽を聞いたり、もしくはオフラインで遊べるゲームアプリをいじったりしていた。それに飽きると今度は、ヘサームに頼んで紙やペンを持ってきてもらい、部屋の調度品などを模写し始めた。スマホやタブレットで絵を描くことも考えたのだが、紙のほうが充電しなくていいし、多少乱雑に扱っても平気なので、気楽だったのだ。模写に飽きたら、模写したモチーフをもとに適当な模様をでっちあげて描いた。
 細かい模様を無心に追って描いていると、心が落ち着いてくる。そうだ、監禁生活で精神をやられないためにも、考えすぎないように何か手を動かしたほうがいいんだ、とカナタは絵を描きながら気づいた。体を鍛えて、心を落ち着けて、このBLワールドから日本に帰るんだ。

 彼は自分の描いた絵を床に散らかしながら、次の絵を描いていったため、当然ながらその絵は侍女たちの目に入った。興味を持った彼女たちにカタコトの英語で話しかけられた翌日から、彼の部屋にはさまざまな花をいけた花瓶や、細やかな刺繍を施した小物、美しい反物が少しずつ集まり始めた。カナタの絵の題材になるよう、侍女たちが身の回りのものを持ってくるようになったのだ。
「おかかえのパトロンの愛人やってるアーティストみたいだな」
 カナタはそう言って笑った。あぁ、少しでも笑えることがあるとうれしい。気持ちが明るくなる。BLでさ、砂漠のハーレムに拉致された受けの男たちって、なかなか笑わないよね。落ちこんでて、やられっぱなしで、生命力も弱そう。でも俺は嫌だ。そんなふうにはなりたくない。パトロンの愛人みたいになっちゃっても、しぶとく生きのびて自分の居場所に戻ってやるよ。
 その『パトロン』はほとんど毎晩カナタの部屋にやってきた。体が疲れるので正直なところ、あまり抱かれたくはないと思う。いくらカナタがうっかり気持ちよくなってしまったとはいえ、これでは本当に愛人じゃないか。隠れて性欲を処理せずに済むのはありがたいが、まるで下半身に頭を乗っ取られた中学生みたいな気分を味わうこともしばしばだった。前途洋々たる若者がこんなことでいいのだろうか。いや、よくない(反語)。将来のキャリアとか考えなきゃ。その前にまず、砂漠のリアルBL脱出ゲームをクリアせねばならない。でも、どうやって?

 いくら空調が効いていても、やはり昼間は少し暑いので、カナタは夕方に運動するようになった。昼間はゆっくり絵を描いている。そのうち信用されてきたのか、ヘサームと一緒であれば建物の外に出てもいいことになった。出るとはいえ、せいぜい塀に囲まれた庭の中である。それでも天井のない空を見上げるのは気持ちのいいことだった。トレーニングルームに行って走ったあと、ヘサームとともに庭へ出て、しばらくぶらぶらと歩き、日暮れ前の気温の変化を味わう。そのあと、軽くシャワーを浴びて食事をとり、浴室で身を清められてハーリクの訪れを待つのが日々のルーチンワークとなった。
「あなた様は、やはり女性とはちがうのですね」
 その日も走って汗をかき、庭の一角でぼんやりとたたずんで空を見上げていたら、ヘサームがそう言った。カナタがふり返ると、彼は言葉を続ける。
「殿下はあなた様を見初めて、略奪婚のように日本から連れてきたのだとおっしゃいました。あなた様のことは、ここの女主人として扱うようにと」
「え、そうなの?」
 ご存じなかったのですか、という顔をしてヘサームがカナタを見た。
「あなた様のような立場に置かれた女性たちは、国に帰りたいと言って泣き崩れたり、突然の幸運に舞い上がって宝石や服を求めたり、殿下の寵愛が薄れるのを恐れて美容に励んだりなさることが多いのです」
 ふうん。つまり、過去にも俺みたいに拉致されてきた相手がいるってわけだ。カナタは内心あきれてため息をついた。金や権力を持っている人間って、同じようなことするんだよな。気に入った相手を次々に愛人にしてさ。自分がここへ来たばかりの頃を思い浮かべる。ヘサームや侍女たちも、この手のイベントには慣れていたのかもしれない。
「ですが、あなた様は超然としていらっしゃる」
「はは……」
 思わず笑ってしまった。超然としているなんて、まったくもって見当ちがいだ。カナタだって国へ帰りたい。心の底は不安でいっぱいだ。でも、だからこそ体を動かし、絵を描いて、自分を保とうとしているのだ。ここから逃げる日のために。自分自身のために。笑った顔のまま、カナタは答えた。
「そりゃそうですよ。俺はハーレムのお姫様じゃないんだから」
 俺はBLの登場人物じゃないんだよ。

 翌日の朝、ミントの入ったレモネードを飲みながら、今日は何を描こうかと考えていると、突然ハーリクが部屋にやってきた。日が暮れる前に来るなんて、珍しいことだ。なんかあったのかな、とカナタが問いかける前に、ハーリクはこう告げた。
「今から出かけるぞ」
 おいおい急すぎるだろ。
「どこに?」
「パリだ。そういえば、お前をまだ買い物に連れていったことがなかったからな。どんな高級店でも貸し切りにして、ほしいものを好きなだけ買ってやろう」
「はあ?」
 またBLだー! これ絶対にプライベートジェットでパリに飛んでいくやつだー! 久しぶりにBLセンサーが絶叫する。扉の外では侍女たちが待機していた。なるほど、カナタを着替えさせるためなのだろう。どんだけ手間のかかる着替えなんだよ、と内心ツッコミを入れてから、カナタは答えた。
「俺は行かないよ」
 一瞬、沈黙が訪れる。しかし、この手の言動にも慣れているのか、ハーリクはすぐに肩をすくめてこう言った。
「なぜだ? ほしいものがないのか? 今は思いつかなくても、店に行けば何かほしくなるだろう。いい気分転換になるぞ」
「だったら、日本に連れてってくれよ。俺は日本に帰りたいんだから」
 カナタはなるべく静かに答えた。再び沈黙が訪れる。

 部屋に入ってきた時は少し微笑みすら浮かべていたハーリクの顔が、次第にけわしくなっていった。
「日本に帰りたい? どうしてだ。ここでの暮らしが不満なのか。お前は今まで嫌だと言わなかったじゃないか」
「あなたが怖いから黙ってたんだよ、ハーリク」
 カナタは顔の筋肉を動かして、無理やり口元だけで笑みを刻む。少しおどけたふうに。
「俺はいまだに、ここがどこかもわからないし、家族と連絡もとれない。あなたが何者なのかもわからない。だから怖くて言えなかったんだ」
「……私のことは少しずつ教えてやろう」
 眉間にしわを寄せながら、ハーリクが低い声で答える。
「だが、お前を手放すつもりはないぞ。私は愛した相手を大勢の目にふれさせたくないんだ。だからお前のためにこの場所を用意した。お前が望むなら何でも買ってやろう。気に入らないなら日本風に改装してやる」
「そういうの、望んでないから」
 ふう、とカナタは息を吐いた。すごいな、見事に話が通じないわ。もう少し我慢しようと思ってたんだけど、言っちゃおう。そう決めたら気持ちが落ち着いて、するすると口が言葉をつむぐ。
「ぜいたくな体験させてもらってありがたいけど、拉致されて無理やり抱かれたことは許せない。朝鮮半島に北朝鮮っていう国があるだろ? 周辺の日本や韓国では、北朝鮮に拉致されて戻ってこない人が大勢いて、大きな問題になってる。あなたがしていることは、それと同じだ。俺は日本に帰りたい」
 不思議だよな。BLって、アラブのハーレムに拉致された受けの男たちは、そのへんの話を連想しないみたいなんだよ。不機嫌さを隠そうともしないハーリクの顔を見上げながら、カナタはどうでもいいことを考えた。地下鉄の駅の壁に貼ってあった、拉致被害者の救出を訴えるポスター。テレビで何度も流れた拉致被害者の帰国ニュース。やっぱりBLってファンタジーだわ。BLに出てくる日本は、日本であって日本じゃない。あ、でも、こんなふうに反抗した俺は、監禁されて殺されたりするんだろうか。ふいに嫌な想像が浮かんでしまう。
 カナタの内心の動揺をよそに、ハーリクは大きく舌打ちをすると、部屋の外で待つ侍女たちに何かを指示しながら出ていった。

 どうなることかと不安をかかえながら、表面上は平静を装ってカナタはいつものように絵を描いた。やがて、いつものように侍女たちが飲み物や軽食を運んできて、夕方になるといつものようにヘサームが現れ、トレーニングルームへ連れていく。こちらが拍子抜けするくらい、普段と同じ流れだ。
 だから、もやもやしてすっきりしない気持ちを吹き飛ばすように、カナタはいつもよりペースを上げてランニングマシンで走り、時間をかけてストレッチをした。負けたくない。自分の数分先の未来があの男に握られているような、自分が何をされるかわからないような、そんな現状に負けたくない。怖いけど負けたくない。俺は帰りたい。帰りたいんだ。くそっ!
 シャワーを浴びて食事をとったあと、カナタは急激な眠気に襲われた。なんだろう。ちょっと運動しすぎたのかな。いや、それにしてはあまりにも……あれ? もしかして睡眠薬でも盛られた? こういう展開のBLも読んだことあったよな。ふざけんなよ……あぁ、畜生、まぶたが重すぎて無理だ、起きてられない……。

 目が覚めたカナタは、日本に戻っていた。
 彼は自分が拉致されたホテルのスイートルームで一ヶ月連泊していたことになっていて、その費用はすでにいただいておりますというのがホテル側の説明だった。支払った相手が誰なのかはお客様情報の守秘義務というわけで教えてもらえず、ホテルの部屋に置いてあったカナタの荷物からは札束が出てきた。それを見つけた時、カナタは三十秒ほど凍りついてしまった。
 実家に電話すると、母親が「インターンのお仕事はもう終わりなの?」と言う。どうやら、カナタは急遽インターンシップの受け入れ先を見つけて、しばらく東京に滞在すると連絡を入れたことになっていたようだ。適当なあいづちを打ち、急いで東京を離れた。もうあのホテルには金輪際近づくものか、と思いながら。

 その後カナタがどうなったかというと、彼は姉が実家に送ってくるBLを読めなくなってしまった、ということもなく、相変わらず暇つぶしに読んでいた。ただし、アラブものは読む気になれなかった。
 自分が掘られる側を体験したこともあり、女性とのセックスは丁寧になった。たまに男性とセックスしたくなることもあったが、さすがに地元で相手を探す勇気は出なかった。ネットで情報を調べ、東京のハッテン場に行ってみることを想像する程度で満足した。俺、ゲイってわけじゃなさそうだもんな。そう思ったら、実際に行く気にはなれなかったのだ。
 そんなことをしながらも、一方では要領よく就活もこなし、東京の外資系金融企業に就職した。競争が激しいけれども給料のいい仕事。同期はバイリンガルやトリリンガルが当たり前、仕事も遊びもエネルギッシュな反面、下半身もやりたい放題の連中が少なくなかった。年収も肩書きも派手なので、何もしなくてもモデルをやっているような女性たちが群がってくるし、仕事のストレスが溜まっているから据え膳を食い散らかさずにはいられないのだ。
 カナタは人間関係のこじれが面倒くさくて、あまり遊ばないようにしていたが、疲れている時は何度か彼らと同じダークサイドへ堕ちてしまいそうになった。そのたびに、ふと一年前の強烈な日々が脳裏をよぎるのだ。自分がどこにいるのかもわからず、砂漠の建物の中に閉じこめられて男に抱かれていたあの時と、派手な同僚たちに囲まれて激務に追われている今と、どっちのほうがしんどいんだろう、と。

 そして社会人一年目が終わる頃、スーツ姿のカナタはホテルの最上階の一室で立ち尽くしたまま、ははは、と笑っていた。
「まじやばい」
 目の前のテーブルでは、カナタよりも何桁か値段が異なるであろうスーツを着たあの男が、尊大な笑みを浮かべてコーヒーを飲んでいる。まちがいない。もう会うこともないだろうと思っていたのに、なんであいつはここにいるのか。
「おい、どういうことだよ」
 カナタは後ろをふり返る。彼をこの部屋まで連れてきたアメリカ人男性は、いたずらっぽくウィンクした。
「確かに僕は『きみ、男女両方いけるタイプでしょ。契約取らせてあげるからホテルに来て』と言ったよ、カナタ。でも、僕がきみを抱くとは言ってない。きみのお相手は、あそこにいるハーリクさ」
「くっそ!」
 忘れた頃にまたBL展開かよ! ふ・ざ・け・ん・な! つーか、なんで俺はこの取引にのこのことついてきたんだ! エロいことするだけで契約が取れるなんて思った俺が甘かった!

 カナタが天をあおいで毒づいた一瞬のうちに、「じゃあね」と彼は廊下に消える。抗議する暇もなく、ハーリクの声が耳を打った。
「久しぶりだな、カナタ」
「えぇ、お久しぶりですね、ハーリク」
 やけになったカナタは口元だけ笑って答える。ハーリクの尊大な笑みは変わらない。
「二年前、お前に文句を言われたので、俺は考えたのだ。お前のほしがるものを与えようと」
「へえ。それで俺を日本に帰して下さったのですか。実に正しいご判断でしたよ」
「それだけではない」
 ハーリクが立ち上がって、ゆっくりと近づいてくる。逃げようかと思ったものの、契約のことが脳裏をよぎってタイミングを逃した。
「どれだけ女のように見えても、お前は男だ。仕事での成功を求めている。だから、私に抱かれる報酬として、契約を取らせてやろうと言っているんだよ」
「ほう、実にシンプルな取引ですね」
 カナタは負けじと微笑みながら言い返した。
「そうだろう?」
 目の前まで近づいたハーリクが、ふいにガッと腕を伸ばし、カナタを捕まえる。唇を食われそうになる寸前で「ちょっと待て」とカナタは声をとがらせた。
「……詳しい内容をまだお聞きしていませんよ。この契約を取るのに必要なセックスは何時間です?」
 ハーリクがにやりと笑った。
「いい度胸だな」
「ビジネスですから」
 カナタが虚勢を張れたのは、そこまでだった。押し倒されて何時間あえいだのかは思い出したくない。気がついたら朝だったなんてテンプレすぎる。BLってファンタジーだと思ってたんだけど案外、本当にある話なのかもしれないよ、姉ちゃん。信じたくないけど。

[完]

作品情報

2016年、Amazon Kindleストアで販売していた短編集『砂漠の虜囚とか冗談じゃないし』収録の作品。
(現在は販売終了しました)

BL小説のテンプレにツッコミを入れるパロディ小説。ギャグ風味。