体内時計工房

 昔、ある村に、姉と弟が暮らしていた。十二歳の姉はジマナ、十歳になったばかりの弟はテバという名前だった。
 他に兄弟がいなかったので、ふたりは毎日一緒に遊んでいた。たまにそれぞれ女の子たちや男の子たちと遊ぶこともあったが、ひとつ屋根の下で両親の作業を手伝いながら、あれこれ言いあったりして遊ぶ時間のほうがずっと長かった。ふたりは仲のいい姉弟だった。

 ジマナとテバの家族が暮らす村のはずれには湖があり、その向こうにある不気味な森と、人間たちの住まう村の境目になっていた。湖を渡ってしまえば、もう人間の掟は通じない。湖の向こうは毎晩、両親が子どもに語り聞かせるさまざまな伝承の舞台であり、行くことを禁じられた幻の土地でもあった。
 伝承によれば、湖の向こうには死んだ森がある。その森を統べる魔物は人間の子どもが大好物なので、特に子どもたちは決して湖を渡ってはならない、と厳しく言われたものだ。しかし、大人であっても湖を渡ろうとする者はいなかった。
「あの湖の向こうへ行って帰ってこれたのは、魔女だけだ」
と大人たちは言い、湖で漁をすることも恐れて、わざわざ離れたところにある川で釣りをするほどだった。そのため、湖には舟の影ひとつなかった。

 湖の向こうから帰ってきた唯一の人間は、魔女と呼ばれる老婆であり、彼女は村と湖のあいだに住んでいた。無愛想で、人づきあいを好まない彼女は、村のお祭りにも顔を出さない。
 ただ、村から死人が出た時だけは魔女も葬送の列に加わり、何やら不思議なにおいのする香壺を手にして歩くのだった。そのにおいをかぐと、人々はしんみりとした悲しみを味わいながらも、どこか安らぐような心地になるので、いつしか彼女の香壺は葬儀に欠かせないものとなった。
 そのことから、どうやら魔女は香りの調合に長けているらしいと考えた若い娘たちが、こっそり魔女の家を訪ねて、何か頼みごとをすることもあったという。まだ子どものジマナにとってはあずかり知らぬことだったが。

 ある日、ジマナが母のおつかいから帰ってくると、家の中でテバが暗い顔をしてふさぎこんでいた。
「どうしたの、そんな顔をして」
「……お姉ちゃん、俺、見たんだよ」
 テバはうつろな目をして、のろのろと姉を見上げる。
「何を?」
「……魔物は、やっぱりいたんだ」
「ちょっと待って。何があったのか、順番に話してよ」
 しゃがみこんだジマナを前にして、しばらくテバは口を開けたり閉じたりしていたが、ようやく話し始めた。年上の男の子たちにけしかけられて、何人かで湖のほうへ行ったのだという。
「渡りさえしなきゃ大丈夫だ、湖を見るのも怖いなんて、とんだ腰抜けだって言われて……。だから皆で行ったんだけど」

 実際、何も起こらないように見えた。湖は不自然なほど凪いでいて、鏡のように空を映している。ただ、湖の向こうにぼんやりと見える森の黒い影だけが不穏なものを感じさせた。内心のおびえを隠すために男の子たちは無理やり大声を出してはしゃぎ、どうってことないじゃないか、さっさと帰ろうぜと言いながら、そそくさと湖をあとにした。
 しかし、なんとなく胸騒ぎを感じたテバは、ふと湖をふり返ってしまったのだ。

「……そしたら、湖の上に、人が浮いてた」
 テバの目に恐怖が宿る。ジマナは眉をひそめて聞き返す。
「浮いてた?」
「泳ぎながら浮かんでるんじゃないんだ。立ったまんま、空中に浮いてるんだよ」
 それは、足元まで隠れる白いローブをまとっていた。大人の男の人に見えたが、湖の上で空中に浮かぶ人間などいるわけがない。魔物だ。これは魔物だ。妙に明るい色の目が、まっすぐにテバを射抜いた。
 心臓が大きな音を立て、あわててテバは湖から顔をそむけて駆けだした。どうしたんだよ、と驚く他の子どもたちを追い越し、一心不乱に駆ける。その様子に皆、不安をあおられて、わあわあ叫びながら走り始めた。その中の誰よりも早く走って、テバは村まで戻ってきた。
 子どもたちが叫びながら走ってきたので、村の表通りを歩いていた大人たちに何事かと聞かれたが、誰も答えられなかった。湖のほうへ行ったなんて言えなかったのだ。一方、叫ぶことすらできずに先頭を走っていたテバは大人たちに呼び止められることなく、まっすぐに家へ帰ってきた。

「あいつ……あいつ、にやにや笑ってた」
 小さな声で、テバがささやく。
「魔物だよ。あいつはまた来る。俺のこと追っかけてくるんだ」
「何言ってるの」
 思わずジマナも小声で叫んだ。
「何の根拠もないじゃない」
「ううん、きっと追ってくるよ。お姉ちゃん、俺、怖い。怖いよ」
 血の気を失ったテバの顔に、ジマナはかける言葉を失った。

 それから数日のあいだ、テバはあまり元気がなかった。湖で魔物を見たと言ってから四日後に、ジマナは家の外をふらつきながら歩いているテバを見つけた。声をかけると、テバは白い顔で返事をした。
「あんた、具合が悪いの?」
「お姉ちゃん、俺、湖、湖に」
「まさか、また湖に行ったの?」
 テバはうつろな目をして、「あいつ、あいつが」とつぶやいた。ジマナは急いでテバの手を引いて家へ帰り、温かいお茶を飲ませた。少し落ち着いたのか、それでもまだ尋常ではない顔をしたまま、テバはぽつりと話し始める。
「俺は湖なんて行きたくなかったのに、足が勝手に動くんだ。あいつが呼んでるんだってわかった。行きたくない、行きたくないって思いながら、俺は湖に行った」

 湖は以前のように、しんと静まり返って鏡のように空を映していた。白いローブをまとい、明るい色の目をした男が、湖の上に浮かぶ。やわらかな声がテバの耳をじんわりと侵した。
 来たね。
 男はそう言った。
 お前は私の工房に連れていくよ。
 テバの顔をじっくりと眺めながら、男はうっすら笑ったように見えた。
 怖いのか。ならば今は逃げるがいい。でも次は私の工房に連れていくよ。お前はもう逃げられないんだ。
「工房?」
「……そう言ってた。……お姉ちゃん……どうしよう、俺、あいつに……」
 その続きを恐れてテバは口をつぐむ。ジマナも口をつぐんだ。魔物の工房とはなんだろう。子どもをさらってきて何かの材料にしてしまうのだろうか。どちらにせよ、ジマナはもうこれ以上、ふたりだけでおびえていることはできなかった。

 ジマナとテバの話を聞いた両親は、しばらくテバを家から出さないことにした。そのため、ジマナはテバの分もおつかいへ行かねばならなくなった。テバは遊びにも行けなくなり、おびえ続けることにぐったりと疲れた様子で、のろのろと母の手仕事を手伝っていた。
 しかし翌日、周りが目を離した一瞬のすきに、テバは青ざめた顔のまま立ち上がり、走るように家を出てしまったのだ。
「テバ! 待って!」
 あわててジマナは追いかけ、テバの腕をつかんだが、まるで見えない大きな手に引きずられているような強さで、テバの体はずんずんと突き進んでいく。ジマナは止めることができず、腕をつかんだまま一緒になって走った。テバは村を出ると、まっすぐ湖に向かった。近づくにつれ、鏡のように静かな湖の水面は急にざわめき始めた。風も吹いていないのに、湖面に波が走る。
「お姉ちゃん」
 湖の前で足を止めたテバが、ようやく声を発した。真っ白になった顔でジマナをふり返る。
「逃げて」
 そう言ってテバがジマナの手をふり払った瞬間、テバの体は吹き上げられるように宙へ飛んだ。
「テバ!」
 湖の上に誰かが立っていて、飛んできたテバをボールのように受け止めた。ジマナは呆然とそれを見つめる。白いローブをまとい、明るい色の目をした、大人の男のように見える人影。湖の上に浮かぶ魔物。
 それはジマナには目もくれず、くるりと背を向けて、幻のように消え失せた。その胸に抱いたテバとともに。

 村は大騒ぎになったが、大人たちですら湖に近づくことを嫌がった。勇気のある大人たちが何人か湖へ行ったが、どうすることもできなかった。湖の向こうへと渡る舟すらなかったのだ。テバを連れて湖へ行った子どもたちはひどく叱られ、当の子どもたちも恐れおののいて泣いた。
 ジマナと両親も湖へ足を運び、おびえながらも湖の向こうに目を向けた。ぼんやりと見える森の影は、不吉なほど黒かった。

 数日後、テバを助けようと決心したジマナはこっそりと家を抜けだして、村はずれまで歩いていき、魔女の家の扉を叩いた。
 魔女の家はひとり暮らしにしては大きく、扉は濃い青に塗られている。無愛想な魔女の顔が扉から出てきた時、ジマナは頭の中で何度も練習したとおりに言った。
「突然ごめんなさい。ジマナといいます。弟が湖の向こうに連れ去られたの。どうすれば帰ってきますか?」
 ふん、と魔女はかすかにため息をついた。
「立ち話もなんだから、お入り」

 意外なことに、家の中は掃除が行き届いていて、明るく清潔だった。壁際にはたくさんの棚や引き出しがあり、植物を乾燥させたとおぼしきものをつめこんだガラス瓶や、古めかしい本がぎっしりと並んでいる。窓からは温かな日差しが降りそそぎ、魔女と呼ばれた老婆のしわだらけの顔をやわらかく照らした。
 ジマナが腰かけると、それまで黙っていた魔女はようやく次の言葉を口にした。
「何があったのか、順番に話してごらん」
 ジマナは話した。テバが他の子たちに連れられて湖に行ったこと、魔物を見て言葉を聞いたこと、テバの意に反して体が動き、湖に走っていったこと、彼女の目の前で魔物に連れ去られたこと。

 話し終えたあと、魔女はほんの少し黙っていた。ジマナは恐る恐る尋ねた。
「あのう、おばあさんが湖の向こうから戻ってきたというのは、本当なんですか」
 ふん、と再びかすかなため息をついて、魔女が答える。
「本当だよ。ずっとずっと昔の話だ」
 魔女は立ち上がり、「だが、それは今話すことじゃない」と言いながら、部屋の奥へと向かっていく。
 ひとり暮らしにしては大きい家だと思ったが、魔女の秘薬の材料だろうと思われる瓶を並べた棚がたくさんあるので、さほど広さは感じない。部屋の奥にある扉を開けて、その先の寝室から魔女は何かを持ってきた。
「これを持ってお行き」
 ころん、とテーブルの上に何かが転がる。
「青銅の指輪だ」
 指輪は古びて、くすんだ青緑色をしていた。ジマナがそっと手にとって眺めるあいだに、魔女は引き出しのひとつからほっそりとした銀色の鎖を取り出す。
「ここらじゃめったに見かけないがね、大きな街へ行けば、女の人の首にかけても見劣りしない、とても小さくて細い鎖がたくさん売ってるのさ。首元へ宝石を飾るのに使うんだ」
 そう言いながら魔女は青銅の指輪に鎖を通して、ジマナの首へかけようとする。彼女はあわてて引き止めた。
「ま、待って下さい。そんな珍しくて高そうなもの、怖くてとてもつけられません」
 魔女はかすかに微笑んだ。
「いいや、これが必要なんだ。革紐で首にかけても、たちまち詩人に破られてしまうからね」
「詩人って?」
 ジマナの首に指輪の鎖をかけてしまうと、魔女は再び無愛想な顔になって腰を下ろす。
「湖の向こうにいる魔物の名前だよ。私は昔、あいつの元から逃げてきたのさ」

 魔女の家を出たジマナは、首からかけた指輪を服の下に隠して、そのまま湖へ向かい、岸辺に立った。
 まるでジマナが来ることを知っていたかのように、無人の小舟がすうっと湖の上をすべってきて、岸辺で止まった。彼女が乗ると、小舟はひとりでに岸辺を離れ、漕ぎ手もいないのに、氷の上をすべるようななめらかさで湖の向こうを目指して動き始めた。
 ひかえめな波の音だけが聞こえる。風も吹かず、鳥も鳴かず、不気味な静けさが支配する湖の上で、ジマナは服の下に隠した青銅の指輪をぎゅっと握りしめた。今や頼りになるのは魔女の言葉だけだ。
 湖の向こうには奇妙な森が広がっていて、その中に詩人の家が建っているという。「まずは詩人の家を探すんだよ」と魔女は言った。どんな家なのかと尋ねるジマナに、魔女はこう答えたのだ。「他に家なんてありゃしない。あれは死んだ森だ」と。

 やがて、湖の向こうの景色が見えてきた。不思議なことに、森の木々は少しも動かなかった。生い茂った葉がちっともゆれないのだ。まったく風が吹かないのだとしてもおかしい。どうやら、小鳥のたぐいもいないらしい。おまけに、どことなく森全体がくすんだ色をしている。青々とした緑がどこにも見えない。木々も灰色がかっている。
 じわじわと追いつめられるような心地で、永遠にも似た時間を小舟の上ですごしたが、ようやく小舟は湖の向こうに着いた。何が起こるかわからなかったので、ジマナはうんうん言いながら小舟を岸辺にすっかり引っぱり上げた。湖から少し離れた場所へ小舟を置いて、森の中へと進んだ。

 湖の上から見たとおり、森の木々はすべて灰色がかっていた。それだけでなく、まるで石化しかかっているように見えた。時を止めたように動かない、くすんだ木々の群れ。
 さらに、木々の枝の上や、木々の陰には、骨だけの姿になった小動物や小鳥たちがたたずんでいた。骨だけになって、その骨を支える筋肉もとっくに失われているのに、生きていた頃のまま、枝を這ったり、枝にとまったり、木々の陰から走りだそうとしたりしている。まるで見えない何かで固められているかのようだった。
 ここは化石の森だ。生前の姿をとどめた死者の森だ。ジマナはぞっとして、何度か悲鳴を上げそうになった。必死でそれ以外のもの、特に詩人の家らしきものを探して視線をめぐらせながら歩いたが、そこかしこで骨だけになった動物たちの姿が目に飛びこんでくるのだ。

 どれくらい歩いただろうか。石のような木々のすきまに、真っ白な石が見えてきた。近づいてみるとそれは石ではなく、石のような素材でできた小さな塔だった。
 塔の周囲をぐるりと回ってみると、灰色の扉があった。扉にはよくわからない模様が描かれている。しかし、ジマナが見ている前で、模様はぐんにゃりと水に溶いたかのように崩れて、するすると文字に姿を変えた。彼女にも読める文字で「体内時計工房」と書いてある。
 きっとここが詩人の、魔物の家だ。ジマナはしばらくためらったが、勇気を出してそっと扉を開いた。
 扉の中には真っ白な空間が広がっていて、中央に灰色のらせん階段があった。急に崩れ落ちたりしないだろうかと不安に思いながらも、階段を上る。塔の中に、彼女のひかえめな足音が響いた。

 らせん階段はそれほど長いものではなかった。ほどなく真っ白な天井が現れ、その天井の一角に開いた四角い穴へとつながる形で階段は終わっていたのだ。思いきって穴の中へ頭を出すと、そこには真っ白な円形の部屋があった。
 奇妙なことに、部屋は外から見た塔の外周よりもずっと広かった。そして、円形の部屋の壁際には、大きな黒い鳥かごが並んでいた。どの鳥かごも底は円形で、上部はドーム型になっている。鳥かごの中には白い服を着た子どもたちが座りこみ、突然現れたジマナのことを不思議そうに見つめ返す。
 呆然としてそれを眺めていたジマナは、鳥かごのひとつにテバが入っていることに気づいた。なぜか彼は少し幼くなって、悲しげに彼女を見つめている。
「テバ!」
 ジマナはあわてて残りの階段を上り、部屋に入って弟の鳥かごに駆け寄った。
「どうしたの? これは何なの? あんた、何をされたの?」
 テバは彼女を見上げたまま答えない。
「おや、これは珍しいお客さんだね」
 背後で見知らぬ声がした。

 いつのまにか、部屋の中に魔物が立っていた。白いローブに、明るい色の目。テバが連れ去られた時、湖の上に浮いていたのと同じ姿だ。
「湖を渡ってくるお客さんなんて、何年ぶりだろうね」
 大人の男の姿をした魔物は、そう言って微笑んだ。やさしくてやわらかな声だ。驚きと緊張でジマナは心臓の音をやけに強く感じたが、それでもどうにか声を出した。
「あなたが詩人ですか?」
「そのとおり」
「人間じゃないのに、なんで詩人なの?」
「おや、どうして私が人間ではないと知っているの?」
 何かよくないことを言ってしまったかもしれないと思って、ジマナは口をつぐむ。魔物は微笑みを絶やさない。
「冗談だよ。私は人間の姿をしているのが好きでね、だから人間の職業を名乗っているだけさ」
「でも、なんで詩人?」
 この魔物にふさわしいのは、せいぜい人さらいという名前ではないのか。それに詩人というのは大きな街に住み、貴族からお金をもらって詩をつくることで暮らす人々なのだと聞いたことがある。しかし、ジマナの考えを読みとったかのように、魔物は小さく笑い声を立てた。
「どうやら、お客さんは詩人という職業に、あまりいい印象をお持ちでないようだ」
「……私のお母さんは、詩人なんてろくなもんじゃないって言ってました。人間は手を動かして働くものだと」
 ふふ、とまた魔物が笑う。
「あぁ、なんて俗っぽいのだろう。実に庶民らしい考えだね」
 貴族はこんなふうに笑うのかもしれないと、なぜかジマナはそう思った。何を考えているのかわからない笑顔。
「でも、お母さんはまちがっていないよ。詩人なんていうものは、ほんの一部の人間が、人生の一時期だけ務めるような、とても特別な職業だからね。生まれてから死ぬまで詩人でいられる人間などいない。だから私の名前にふさわしいんだ」

 ジマナには、魔物の言い分は理解できなかった。この話題が長引く前に、自分の役目を果たさなければ。そう思って、弟の入った鳥かごに手をふれる。
「この子、私の弟なんです。返して下さい」
「ほう」
 魔物はふいに身をかがめ、ジマナの顔をのぞきこんだ。間近で真っ白な顔が彼女を見すえる。
「お客さんは、この子のお姉さんなんだね。名前はなんというの?」
「魔物に教える名前なんてありません」
「よその家を訪ねておいて、名乗らないのは礼儀知らずだよ」
「……ブロンズ、です」
 魔女にもらった青銅の指輪のことを思い出し、ジマナは金属の名前を名乗った。魔物はかすかに嫌そうな表情を浮かべる。
「本当にそんな名前なの?」
「詩人を名乗っている魔物に言われたくありません」
 ふん、と鼻を鳴らして、魔物は顔を遠ざけた。
「じゃあね、ブロンズさん、あなたの弟を鳥かごから出せたら返してあげる。この鳥かごは、いったん閉じたら開けられないんだ。それに、鳥かごの中にいる限り、ここの魔法からは逃れられないんだよ」
「どういうことですか? 私の弟に何をしたの?」
 ジマナは魔物に問いただす。まだ恐怖は心の底にくすぶっていたが、テバの身に何が起こったのかを知りたかったのだ。魔物は再び微笑みを浮かべる。
「ここにいる子どもたちをごらん。幼く見えるだろう。皆、八歳二ヶ月で時を止めているんだよ」
 真っ白な部屋の中で、黒い鳥かごに閉じこめられた子どもたち。
「美に仕える詩人としての感性が、子どもの一番美しい年頃は八歳二ヶ月だと教えてくれたのさ。だから、私は連れてきた子どもたちを皆その年齢にして、時を止めてしまうよう、鳥かごに魔法をかけた。一番古い子どもは数百年前からここにいる」
 魔物が得意そうに両腕を広げる。
「ここは体内時計工房だと、扉に書いてあっただろう? 子どもたちの体内時計を巻き戻して止めてしまう工房だね。この子たちは皆、私の美しく愛らしいコレクションなんだ」

「気持ち悪い……」
 思わずジマナはつぶやいた。ただこうして並べて眺めて楽しむために、この魔物は子どもたちを連れ去り、閉じこめているのだ。
 魔物は彼女の言葉が聞こえなかったように、笑顔でふり返る。
「そうだ、ブロンズさん、あなたも閉じこめてあげようか」
「嫌です!」
「ここにいれば、親に叱られることも、男の子にひやかされることも、無理やり結婚させられることも、働き疲れることも、年老いることもない。何も食べなくても生きていけるんだよ」
 魔物が彼女に腕を伸ばす。その手を叩き落とそうとしたが、服の下に隠した青銅の指輪がビリッと音を立て、魔物の手を弾き返すほうが早かった。魔物の顔からは微笑みが消し飛び、かわりに疑いと怒りが浮かんでいる。
「青銅の指輪……どうしてそんなものを」
 ジマナは思わずあとずさった。
「さては、最初から私の秘密を知っていたな!」
 今にも襲いかかろうとする魔物の気配を感じて、ジマナはとっさに弟の鳥かごの上へ伏せた。すると、鎖がゆれて青銅の指輪が服の下から飛びだし、鳥かごにふれた。
 大きな音を立てて鳥かごが割れる。魔物が叫ぶ。
 テバが鳥かごを出て立ち上がり、みるみるうちに十歳の姿へ戻る。
 ジマナは首にかけた鎖をはずし、テバを抱き寄せながら、魔物に向けて必死で指輪をかざした。
 雷が落ちたような大音響と閃光で、何も見えなくなる。

 気がつくと、姉弟は湖の岸辺に倒れていた。お互いの無事を確認したあと、すぐにジマナは小舟を探しにいき、ふたりで湖の上へ浮かべて乗った。小舟は来た時と同じように音もなく進み、ふたりの村がある岸辺へとたどりついた。
 テバが戻ってきたことで村は再び大変な騒ぎになり、ジマナは大人たちや子どもたちから根掘り葉掘り聞かれたが、ただ「魔女に助けてもらった」とだけ答えた。村の人々は感謝と好奇心で胸をふくらませて魔女の家を訪ね、魔女は普段どおり無愛想な対応で追い返した。しかし、魔女の家をこっそり訪ねて悩みごとを相談する人の数は増えたという。
 ジマナは、魔女にだけは何が起こったのかを詳しく打ち明けた。鎖と指輪を返す時、魔女は「もう二度と、これを使わなくていいようにと思ったんだがね」とつぶやいた。

 時は流れ、ジマナは十八歳になった。
 ある日、彼女がおつかいから戻ってくると、母が家の前で待っていた。娘の帰りを待ちきれなかった様子で、「あぁ、早く帰ってきてほしかったんだよ。早く早く」と早口でまくしたてる。
「どうしたの?」
「それがねぇ……」
 母はそわそわした様子で声をひそめる。
「となりの街からね、あんたを嫁にしたいっていう人が来てるんだよ」
「えっ?」
「身なりもいいし、いいとこの紳士らしくてねぇ。もしかしたら、つりあわないかもしれないけど、一度会って話をしてごらん」
 さぁさぁ早く、とせかされるままに家へ入り、とりあえず歩きながら髪を整えて、服のしわを軽く伸ばし、ジマナは部屋の扉を開けた。となりで母が「さぁ、今帰ってきましたよ」と愛想よく声を上げる。部屋の中で待っていた若い男が、微笑みながら立ち上がった。
「こんにちは」

 湖の上に浮いていた魔物、テバを連れ去った魔物、体内時計工房に住んで詩人を名乗る魔物と同じ顔、同じ声をした男が、白いローブをまとって、そこに立っている。

 ジマナは言葉を失い、自分が何を見ているのかわからなくなった。
「素直に名乗ってくれないものだから、見つけだすのにずいぶんかかってしまったよ。出会ったのは、もう何年も前なのにね」
 あの魔物のようにやさしくやわらかな声で、男が語りかける。明るい色の目は笑っていない。
 その時、テバの悲鳴を、ジマナは確かに聞いた気がした。

[完]

作品情報

2016年、Amazon Kindleストアで販売していた短編集『月狩り』収録の作品。
(現在は販売終了しました)