星降る帰り道

 地平線の果てまで続く青空と麦畑の中を、私たちは歩いている。どこまで歩いても変わらない景色の中を、私たちは歩いて、家へ帰ろうとしている。
 私と彼女、青空と麦畑には不似合いな銀の髪を風にゆらゆらなびかせて、手をつないだり、手を離したり、また手をつないだりしながら、ずっとずっと歩いている。

「ねえ、だんだん体が軽くなってきたね」
「きっとお腹がすいてるんだよ」
「でも全然感じない。ただ軽いの、軽い軽い」

 私たちは、どうでもいいことをおしゃべりしながら、風にそよぐ黄金の麦畑を歩き続けた。体が軽いの、という私の言葉に、彼女は微笑む。
「あんまりお腹がすいたから、感じなくなったんだね。家に帰るまでの辛抱だよ」
「あんたは?」
「私はお腹がすかないし、体も軽くならない」
「どうして?」
「私はあなたより、ずーっと大きいから」
 私と同じくらいの背格好をしているくせに、彼女はそう言って微笑むのだ。まるでずっと年上のお姉さんみたいに、余裕しゃくしゃく。
「嘘だよ。どこが大きいの」
「よーく見て」

 彼女の黒い瞳が大きく見開き、私を見つめた。
 彼女の瞳はまるで空を飛ぶ鳥のように、鬱蒼と生い茂る巨大な森や、広大な草原や駆けていく獣たち、雪を抱いた峰々、寄せては返す波のつらなりを、くるくるとめまぐるしく映し出す。
「ね、すごいでしょ」
「何それ、ずるい。なんであんただけ、ちがう世界が目に映るのよ」
「私はあなたより、ずーっと大きいから」
 彼女はすました顔でまばたいた。たちまち彼女の瞳には私と麦畑しか映らなくなった。元通り、私と同じで、何の変哲もない瞳。
「つまんない」
「さあ、行くよ」
 彼女は私の手をとり、また歩き続ける。

 うらやましかったので、私もちがう世界を見ようとした。歩きながら、彼女に気づかれないように、そっとまばたきをする。
 森も獣も見えないかわりに、まぶたの裏で暗闇が広がり、たくさんの星が散らばった。白い星、青い星、赤い星、黄色い星、怖いほどたくさんの星が、私を取り巻いて、ただ輝いていた。

 時々、どこからか、きれぎれの歌声が聞こえる。私たちはおしゃべりをやめて、歩きながらじっと耳をすます。
 歌声は、私たちに帰り道を教えているのだ。麦畑の中には道もなく、何の目印もないように見える。でも、歌声は目印を教えている。無数の麦の中から、目印となる麦を見分けて、そっちへ進めと歌う。
「この歌声、家から聞こえてるんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ、案外けっこう近くにあるんじゃないの」
「そうでもないよ」
 彼女は目印の麦を指でさわってから、空を見上げた。
「この麦畑、全然終わりが見えないんだよね。多分、麦畑の大きさに比べたら、家までの距離なんてほんのちょっとなんだろうけど、私たちにとっては遠いんだよ」
 そんなこと、本当は知っている。
 ただ、くだらないことを言いたかっただけ。

 しばらく黙って歩いたあと、私は声を上げた。
「ねえ、あんたの目、もっぺん見せてよ」
「目?」
 彼女の瞳は、ただ麦畑と青空だけを映している。目の前にあるものだけを映す、私と同じ、何の変哲もない瞳。
「前みたいに、いろんなもの映してみてよ。森とか、海とか」
「家が恋しくなった?」
 目を細めて微笑んだ彼女が、私に顔を近づける。
「家?」
「そうだよ。森も海も山も、家の中にあったのに。忘れちゃったの?」
「……そうだっけ」
 忘れてしまった。どこまでが自分の思い出で、どこまでが他人の思い出なのか。
 大勢の人々が、家を出る私にたくさんのものを与えた。そして、家を離れているうちに、ちょっとずつ一緒くたになってしまったのだ。自分の思い出も、他の人が私に与えてくれた思い出も、私の中でとっちらかっている。
 しばらく黙っていると、彼女はまばたきながら私の顔をのぞきこんで、きれいな朝焼けと虹を見せてくれた。
 これも家にあったの、と彼女は言った。それとも私が言ったのかもしれない。どこまでも青空が続くこの麦畑では見ることができない、色とりどりの朝焼けと虹は、本物よりもずっとはかなく、彼女の瞳から薄れて去っていく。

 家を出るのは大変な事件だった。
 私たちの家はとても大きい。森も海も朝焼けも、すべて家の中にあるものだ。そして私たちの家には扉がないので、家を出ようと思ったら無理やり窓を破らなければならなかった。
 あの時、家を出られない大勢の人々が、私に夢を託した。私に道を教え、力を貸して、たくさんの情報を与えた。外の世界が知りたい、と彼らは言った。外の世界で見たことを教えてほしいのだと。
 彼らは私が家を出たあとも、きれぎれの歌声で、私に呼びかける。帰っておいで。帰っておいで。家はここだよ。遠くの世界で見てきたことを、教えておくれ。
 だから私は、家へ帰るのだ。

「あなたの名前、思い出した?」
 ふいに彼女が聞いた。

「ううん、思い出せない」
 自分の名前を忘れたまま、私は平然と麦畑の中を歩いている。そういえば、彼女は私が家を出る時、一緒にいたのだろうか。
 私たちは、いつから一緒に歩いているのだろう。
 彼女は誰なのだろう。
 夜も朝も訪れない、延々と変わらない青空と麦畑の中を、ひたすら歩いているのは、なぜだろうか。
「じゃあ思い出して」
 彼女はこんな時でも微笑んでいる。私に謎をふっかけながら、いつもと同じ表情で笑っている。だから私も、あまり深刻に考えずに答えた。
「うん、思い出すから」

 それまでと同じように、どうでもいいおしゃべりをしながら、私たちは麦畑の中を歩いた。
 ふいに彼女が立ち止まる。
「そろそろ家の近くに来たよ」
「そう?」
「まだしばらく歩くんだけど、でも、ここまでね」
 彼女が私の顔に向かって、手をかざす。
「ほら、目を閉じて」
「なんでよ」
「早く、目を閉じるの」
 しぶしぶ目を閉じると、まぶたの裏には暗闇と無数の星の世界が広がった。まばたきをした時と同じだ。白い星、青い星、赤い星、黄色い星、広大な星空が、私を包む。
「たくさん星が見えるよ。これは夢?」
「ちがうの。これは、あなたのいるところ」
 目を開けようとすると、彼女の手が私の顔を押さえつけた。
「あなたの名前、思い出した?」
「まだ」
 彼女の手は冷たかった。
「もう時間がないの。私が一緒に歩けるのは、ここまでだから」
「何それ」
 まぶたの裏に散らばった星は、またたきもせず、ただ、しんと静かに光り続けている。大気がないから、またたきもしないのだ。星がまたたくのは、大気のゆらぎで光がゆらめくからだ。
 ここは大気がない。
 そう気づいた瞬間、私は思い出した。

 私は夢を見ていたのだ。
 青空と麦畑の中を、彼女としゃべりながら歩く夢。家にいた頃のように、息を吸いながら歩く夢。
 目を閉じたまぶたの裏に広がる、静まり返った星空の中を、たったひとりで飛びながら、麦畑の夢を見ていたのだ。淋しい長旅を続けながら、彼女とふたりで歩く夢を見ていたのだ。

 歌声が聞こえた。
「ほら、呼んでるよ。早く家に帰らなきゃ」
 彼女の冷たい手から、次第に重さが薄れていく。手をふり払うように目を開くと、そこには底なしの星空が広がっていた。どんなにまばたいても消えない、恐ろしいほどに果てが見えない星空だった。
「あなたが迷子になった時も、あの人たちはずっと、あなたを探していたの。あなたを探して、私を遣わしたの。遠い遠いあの家から」
 周りを見渡すと、彼女は私の右肩のあたりに浮かんでいた。まるで幽霊のように半分透けている。彼女の周りにだけ、ぼんやりとかげろうのように青空や麦畑がにじんでいた。
 大気がないのに、彼女の声は私の頭の中でとてもよく聞こえた。きっと本当の声ではないのだ。どうして私は気づかずにいたのだろう。
 呆然とする私に、彼女は微笑んだ。
「初めてひとりで家を出て、ずーっと遠くへ行っていたのに、よくここまで帰ってきたね」
「あんた、私の道案内をしてたの?」
「あの人たちは、あなたが家を出たあと、何年もあなたのことを気にかけてた。あなたが帰ってくるのを待ってたわ。あなたが凍えてないか、けがしてないかって、そればっかり心配して」
 彼女は相変わらず、年上のお姉さんみたいな顔をして、少し切なそうに笑った。その頭上を歌声がかすめていく。帰っておいで。帰っておいで。
「あなたの名前、思い出した?」
「思い出したわ」
 どうして忘れていたのだろう。あの人たちがつけてくれた名前を、ずっとずっと覚えていたはずだったのに。

 彼女の指差す先に、オレンジ色の星が輝いていた。家にいた頃は、あんなにも大きく、特別な星に見えたのに、こうして見ると、果てしない星空のどこにでもありそうな普通の星だった。
「あれが太陽」
 私は思わずつぶやく。
「ここまで来たら、もう淋しくないでしょ。もうすぐ家に帰れるよ」
 彼女はそう言いながら、どんどん透き通っていく。あわてた私は駄々っ子のように叫んだ。
「待って! 最後にあれを見せてよ、まばたきして森とか海とか見える奴」
「家に帰れば、そんなものいくらでも見えるのに」
 彼女は笑いながらまばたいた。恐ろしいほど孤独な星空の一角に、さまざまな木々の並ぶ森や、色とりどりの獣や、波間に跳ねる魚がちらちらと透き通ったフィルムのように映し出されては消えていった。
 それは私の思い出だった。私の中でごっちゃになって混じっていった、他の人々の思い出だった。私と同じ家の思い出を瞳に映しながら、彼女は消えていく。

 風を切って飛んでいく鋭いくちばしの鳥の姿が、最後にゆらりと星空をよぎった。家を出る時に、私と同じ名前の鳥だよ、と誰かが教えてくれた。とても飛ぶのが速い鳥で、ハヤブサという名前だと。

 歌声は私を呼んでいる。帰っておいで。帰っておいで。この道をたどって、あの人たちが待っているあの場所へ帰っておいで。
 模様のように渦巻く白い雲と、緑と土が入り混じった大地と、青い海におおわれた星が、少しずつ近づいてくる。歌声もどんどん近づいてきていた。帰っておいで。家に帰っておいで。

 底なしに続く星空の中を、私は飛んでいく。白い星、青い星、赤い星、黄色い星、無数の星の群れは、まるで麦畑に実る麦の穂のように果てしなく、ずっとひとりで飛んでいると、気を失いそうになる。
 でも、あの人たちがずっと呼び続けて、道案内の彼女を飛ばしてくれたので、私はこうして家へ帰ってきたのだ。

 銀の髪を燃え立たせ、大きな火の玉となって輝きながら、私は家へと引き寄せられて、深く深く墜ちていく。まるで星のように輝きながら、あの人たちのはるか頭上を墜ちていく。
 すさまじい速さで墜ちながら、彼女が見せてくれた森や海やたくさんの思い出を、走馬灯のように思い描いたけれども、私が本物の森や海を再び見ることは、もうなかった。

[完]

作品情報

谷山浩子の「僕は帰る きっと帰る」という歌をモチーフにした小説。
(歌詞の引用は行っていません)

2013年、Amazon Kindleストアで販売した小説『秘密の宝物』に収録。
(現在は販売終了しました)

このストーリーは、ネットに投稿された動画を見て心を動かされた谷山浩子さんが、「『僕は帰る きっと帰る』は探査機はやぶさの歌だということにします」という趣旨の発言をされたことに由来しています。
(2011年のソロライブツアー@京都FANjでのMCにて)