豊かな国の幼き子らよ 05

第五章 中庭

 今の自分が十歳の子どもになったと仮定してみよう。
 爽太はペンの先で、ノートの白いページを軽くおさえる。実際、どれくらいの年齢の子どもになってしまったのかはわからないけど。
 大人になったら、十歳の頃のことなんて遠い昔話だ。あの頃の自分が何を思っていたのかも、すでにぼんやりとした記憶になっている。この先どんどん記憶は薄れていくのだろう。
 とはいえ、十歳の頃に自分がどんな本を読んでいたのか、それは覚えていた。あの頃、すでに爽太は図書館へ行って、大人向けの本を読み始めていたのだ。学校の先生が驚いていたから、覚えている。
 子どもは大人が思っているほど幼くはない。
 オサナゴになってしまった今の自分が、王族たちから受ける扱いほどには幼くないのと同じことで。

 仕事の合間に、ちょっとした休憩時間ができた。
 テオが目を輝かせて「爽太!」と名前を呼ぶ。
「どうしたの」
「しばらく自由な時間ができたよ、中庭で遊ぼう!」
「へっ、中庭? 遊ぶっていったい何を……」
 ノートとペンをイスの上に置いた爽太が問い返すよりも早く、テオはレースカーテンを引いて窓を開け放った。そこからまぶしい日の光が降りそそぐ中庭へ出ていってしまう。
 あきれて窓際まで追いかけると、すでにテオは中庭の中央あたりまで進んでいて、こちらをふり返り、手をふって笑っていた。
 中庭は建物に囲まれていたが、広々としていたし、おまけに周辺の建物が一階か二階までの高さしかないため、それほど圧迫感はなかった。空もよく見えるし、日当たりもいい。手入れが行き届いているのか、それとも日本とは気候が異なるためか、地面にはささやかな芝が生えている程度だった。
 爽太は声を張り上げる。
「テーオ、遊ぶって何するの」
「なんでもいいだろ。たまには走り回ったりしたくない? ほら、早く爽太もおいでよー」
「なんだそれ。人を犬みたいに……」
 ぼやいたものの、爽太もすぐに外へ出た。最初の数歩は歩いて、そのあとは小走りでテオのもとへ近づいていく。

 日差しを浴びたテオは、とてもリラックスしているように見えた。走ってきた爽太に両腕を広げて、楽しそうに笑う。
 爽太がテオの前で立ち止まると、テオは自分から近づいてきて、広げた両腕でがっしりと爽太を抱きかかえた。父親が小さな子どもと遊ぶみたいに。
「うわっ」
 思わず短く叫ぶ。テオが笑った。
「どうしたの、照れちゃって」
「照れてないよ」
「でも急に立ち止まっただろ。俺はちゃーんと両手を広げて、爽太が来てくれるのを待ってたのに」
 だから俺のほうから迎えにきた、と言ってそのままテオは爽太を抱き上げてしまう。子ども扱いにいささかうんざりして、爽太はわざと子どもっぽく抵抗の声を上げた。
「ぎゃあああ」
「こら爽太、耳元で叫ばないで」
「やだー! 人さらいだー! 助けてテオー!」
 なかばヤケになり、そらぞらしく助けを求めて叫ぶ。
 誰の目も気にせず叫ぶのは、やってみると気持ちがよかった。窓際にテオの従者がたたずんで、中庭に異変が起こらないかと見張ってはいるけれども。その従者は嫌そうな顔をするどころか、微笑ましそうにこちらを見守っている。オサナゴが主と仲良くしているのは、彼らにとって非常に喜ばしいことなのだと、この一ヶ月のあいだに爽太は学んでいた。
 テオも調子を合わせて、わざとらしく爽太の顔をのぞきこむ。
「ここだよ、お前のテオはここにいるよ」
「嘘だー! 僕の知ってるテオじゃない! 助けて、テーオー!」

 僕の知ってるテオじゃない。
 ふざけて叫び返した台詞は、思った以上に爽太自身の胸をえぐった。
 ここにいるテオは、水の王子と呼ばれているテオで、爽太の友達のテオではない。
 爽太は元の世界に戻ることはおろか、王宮の外へ出ることもできず、友達のテオにも二度と会えず、テオにそっくりな顔をした別のテオと一緒に、こうしてにせものの親子みたいな真似ごとをして遊んでいる。
 普段は意識していないことを、こうして何かの拍子に突きつけられる。この世界での自分は何者なのか。

 テオはまだ爽太を抱き上げたまま、困った顔で笑っていた。
「そんなこと言われたら悲しいよ、爽太」
 なんと返せばいいか、言葉につまって爽太は口をつぐむ。やっとのことで、こう言った。
「テオ、下ろして」
「だーめ」
「なんで」
 テオは抱きしめた爽太の首元に顔をうずめて、くぐもった声で「お仕置きだよ」とつぶやく。
「意地悪なこと言う子は、もうしませんって言うまで離してあげないから」
「じゃあ、ずっとそうしてれば? どうせすぐに腕が疲れるだろうし」
「かわいくないこと言うんだね、爽太は」
 むっとして、爽太は「当たり前だろ」と言いながら、テオの後頭部を軽くこづいた。
「あいにく僕は、かわいい子どもじゃないからね」
「俺にとっては、すっごくかわいい子どもだよ」
 テオが笑う。それは自分が彼のオサナゴだからだろうなと爽太は思った。

 ふと浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「……テオは子どもが好きなの?」
「どうかな。きっと好きだと思う。自分の子どもがほしいって思うしね」
 抱き上げた爽太の首元に顔をうずめた状態でテオがつぶやくものだから、爽太の首元は妙な具合になまあたたかい。
 子どもがほしいと言われて、爽太はあまり考えないようにしていたことを嫌でも思い浮かべてしまった。テオの耳が痛くならないように、少しだけ声をおさえる。
「テオ、あの、この前ケイナ様に聞いたんだけど」
「うん?」
 爽太が話しかけても、テオは首元にうずめた顔を離してくれない。腕はまだ疲れていないようだ。それともオサナゴになった爽太の体が軽すぎるのか。
「テオが結婚しても、僕はテオと一緒に寝なきゃいけないって」
「……そうだよ」
 テオの腕が、ぎゅっと遠慮がちに爽太の体を締めつけた。
「爽太は俺と一緒にいなきゃ駄目なんだ」
「テオは嫌じゃないの? そんな……人に見られたくないだろ、普通」
 閨の一部始終を見続けなければならないのは嫌だった。でも自分がテオの立場だったら、もっと嫌だ。誰かに目撃されることを想像しただけでも嫌なのに、最初から最後までずっと同じ部屋にいる相手から見られるなんて。それも子どもの姿をした相手に。
 元の世界だったら、AVや風俗のお店にそういうシチュエーションもあったかもしれない。でもそれとこれとは別だ。それに、たとえ元の世界にいても、身近な友人知人のそういう姿を爽太は見たくないし、人にも見られたくない。

 テオがどんな顔をしているのか、爽太には見えなかった。
 首元にテオのなまあたたかく湿った吐息がふれる。その息が言葉をつむぐ。
「……爽太が嫌でも、俺はそばにいてほしい。その……俺の妃になる人のことは、あまり見ないでやってくれるとうれしいけどね。きっと恥ずかしいだろうから」
 当たり前だと爽太は思った。そういう風習だと言われても、きっとその女の人は気にするだろうし、次の日はお互いにどんな顔をすればいいのか。恥ずかしいに決まっている。

 ふいに気づいた。ケイナが何度となく国王の寝室で夜の営みをまのあたりにしなければならなかったように、王妃は何度となくケイナの目の前でそれをしたのだと。
 オサナゴと離れられない国王自身は、そういうものだと最初から受け入れていたかもしれない。テオだって同じだ。
 でも王妃はオサナゴを持たない。オサナゴを持つのはコラナダの直系の王族だけだと本に書いてあったし、その結婚相手は国内の貴族や他国の王族だからオサナゴなどいない。
 毎日、朝食の席で顔を合わせる今の王妃は、オサナゴがいなくても生きられる王妃は、たとえ夜の寝室でもオサナゴを必要とする国王を見て、どんなことを思ってきたのだろう。
 テオが結婚したら、きっとその結婚相手が爽太に対して同じことを思うのだ。

「爽太?」
 抱き上げた爽太を軽くゆさぶって、テオが返事をうながす。
 少しかすれた声で、爽太は思いついたことを口にした。
「……その時が来たら、僕は耳に栓をして何も聞こえないようにして、頭から適当な布をかぶって何も見えないようにして、声ひとつ立てないようにじっとしてるよ」
 ふふ、と笑って、ようやくテオが顔を引き離し、爽太と目を合わせた。抱き上げられているせいで、顔の距離はやけに近い。
 褐色の瞳に、幼い顔をした爽太が映りこんでいる。
 どこか面白そうにテオが言った。
「爽太、隠れちゃうの?」
 恐らくサルにたとえた日本語のニュアンスは伝わらないだろうが、爽太はこう言った。
「こういうの、僕が前にいた世界では『見ざる聞かざる言わざる』って言うんだよ」
 耳を閉ざし、目を閉ざし、口を閉ざし、自分はそこにいないんだという顔をしてやりすごす。夜が明ければ何事もなかったふりをして、テオとテオの妃と顔を合わせる。多分そういうふうにして自分はやっていくしかないのだろう。すごく嫌だけど。できれば最初からその場にいたくないけど。

 太陽が雲に隠れて、日差しがかげる。
 テオはまだ笑っていたが、その笑顔はさっきのように明るく楽しげなものではなくて、別のことを考えながら笑みを浮かべているたぐいのものだった。
「でも俺は、爽太にちゃんと見てほしいけど」
「……はい?」
 爽太の声は裏返る。
「さっき、テオ、妃になる人のことは見ないであげてって言ったよね?」
「言ったよ。でも俺のことは見ていてほしい」
 うっすらと笑みをたたえたテオの顔に、なんとなくよからぬものを感じて、爽太はもぞもぞと体を動かした。けれども爽太の体は相変わらずテオの両腕に抱き上げられたまま、ちっとも下ろしてもらえる気配がない。
「爽太は俺のオサナゴだろ? これからずっと死ぬまで一緒なんだ。ずっとね」
 日差しのかげった中庭の風は、さっきよりも少し冷たい。
 距離が近すぎて、テオが言葉を発するたびに、その息が爽太の顔に吹きつける。
「俺がどんなふうに人を愛するのか、爽太には知っていてほしいんだよ」
 まるで顔に言葉を吹きつけられているみたいだった。

 我知らず爽太はささやく。
「知ってなきゃ駄目?」
「そうだよ、俺のことを知って」
 テオもささやき返した。
「でも……」
 声が小さくなったことで、爽太は思っていたことをぶちまけるつもりになった。ささやき声のまま、自分を抱き上げるテオと視線を合わせて、真摯に意見を告げる。
「……テオが奥さんと愛し合ってるところ、僕は知らなくていいと思うよ。だって、それはふたりきりの時間でしょ?」
 自分は邪魔者になるはずだ、とまでは言わなかったが、本当はそう言いたかった。
 爽太を抱き上げるテオの腕が、ぎゅっと体に食いこむ。間近にあるテオの顔は、聞き分けのない子どもに何度も言い聞かせる大人がよく浮かべる表情をしていた。
「ねえ爽太、わかってほしいんだけど、俺はお前がいないと生きられないんだよ」
「生きられないって……僕がここに来る前から生きてただろ」
 爽太が雰囲気をぶち壊す台詞を吐いても、テオは顔色ひとつ変えなかった。
「それはまだ爽太がいなかったからだ。オサナゴを見つけたら、もう出会う前には戻れない」
 太陽はまだ雲に隠れていて、中庭に吹く風は少し冷たい。
「……いずれ俺は結婚して、子どもをつくる。もちろん妃のことも子どものことも愛するんだろうなと思うよ。でもね爽太、大事なことだから何度でも言うけど」
 雲のすきまから太陽が顔を出す。
「コラナダの王の血を引いて生まれた直系の子孫は、オサナゴなしでは長く生きられないし、オサナゴ以外の誰にも真名を呼んでもらえない。家族であっても伴侶であっても、俺には爽太以上に強くつながっている相手なんていないんだよ」

 一筋の光が差して、テオの顔の一部、栗色の髪と褐色の瞳を明るく照らした。
 光と影のコントラストに見とれて、爽太はつかのま言葉を失う。目が急に温かくなって、自分の顔にも日の光が差しているのだと気づいた。魔法が解けるように、爽太の唇も動く。
「……でも、それって、僕がテオと奥さんの時間を邪魔する理由になるの?」
「邪魔だなんて」
 あきれたように、ふっとテオが笑う。
「俺にとっては、爽太よりも大事な人なんていないんだからね。だからずっと一緒にいたいし、爽太と引き離されたら元気がなくなっちゃうよ」
 少しおどけた口調で言われた台詞は、周囲の人々に対する優先順位が、テオの中では残酷なまでにはっきり決まっているのだと爽太に告げていた。

 それが恐ろしくて、ぽつりとつぶやく。
「なんか、怖いね」
 テオは微笑んだ。再び爽太を強く抱きしめたので、爽太にはテオの顔が見えない。
「そうだね、離れ離れになったら生きていけないなんて、爽太にはまだ怖いかもしれないな」
 爽太が何に対して怖いと言ったのか、テオは誤解している。
 そういう意味じゃないけど、と言いかけて爽太は口をつぐんだ。また同じことを何度も言われそうだと思ったのだ。
 やわらかな日差しが温かく明るく中庭を照らし、従者が窓際で顔をほころばせてふたりを見守っている。何も知らない人間にとっては、年の離れた弟を兄がかわいがっているようにしか見えない光景だった。

 ちょっと待てよ。
 テオがようやく腕を下ろし、地面に足がついたところで爽太は余計なことを思いついてしまった。結婚云々の話をしていたせいだ。
 自分も男だから(しかも元の世界ではとっくに成人していたから)わかる。今のテオの生活は、どう考えても性欲を発散する時間がない。
 奇妙なことに、この世界へ来てから爽太はその手の欲求をほとんど感じなかった。自分の思考は元の世界にいた頃と変わらないのだが、オサナゴになってしまった体は大きく異なるようだ。
 今の爽太が女性と顔を合わせるのは朝食の席くらいで、もちろん身の回りにはいやらしい写真も動画も絵も小説も何ひとつない。部屋には扉がついておらず、廊下には常に従者が控えている。
 プライバシーがないのを息苦しく感じることはあっても、人の目があるせいで自慰ができないことは特に気にならなかった。何しろそういう欲求が湧いてこないから、いらだつこともない。その点では、この世界での生活は心おだやかなものだった。
 しかしテオはどうなのか。爽太と同じように常に人の目にさらされ、爽太と一緒に行動をともにしていて、彼にもそんな時間はないはずだ。そして、もし宗教的な理由で結婚までは童貞でいなければならないのだとしても、性欲はどうにかして定期的に発散する必要がある。おまけに、どう見てもテオは若い。

 ためらいながらも爽太は話しかけた。
「テオはさ、」
「うん?」
「エロい気分になって、むしゃくしゃしたりしないの?」
「えっ」
 テオの顔が驚く。褐色の瞳が見開いた。
 なるべくドライに聞こえるよう、爽太はそっけない口調でつけ足す。
「ほら、いつも僕と一緒にいるから、なんかそういうの発散したくなった時にどうしてるのかなって」
「……爽太は、発散したくなったりするの?」
 テオは逆に尋ねてきた。顔が笑っていない。
 質問に質問で返すなよ、と思いながらも爽太は聞かれたことに答えてしまう。
「うーん、この世界に来てからは、そういうの感じないんだけど」
「そう……」
 真顔のテオが目を細める。爽太の反応をうかがっているようにも、爽太の考えを見透かそうとしているようにも見えた。
「で、テオはどうなの?」
「俺?」
 とたんにテオは目をそらす。どこか気まずそうに。
「あー、うーん……その、俺は、外で処理してる、から」
 爽太はぽかんと口を開いた。
「……外?」
「うん」
「外って、王宮の外?」
「そうだよ」
 どうしてテオが目をそらしたのか、やっと爽太も気づいた。というより、気づいたと思った。
 たまにテオも王宮の外でやらねばならない任務がある。そんな時は爽太に読むべき本を与えて、従者に見守らせながら出かけてしまう。本来であればオサナゴと主はずっと一緒にいるべきなのだが、オサナゴを王宮の外へ出してはいけないからだ。

「……そういう施設があるんだね、この国にも」
 爽太ののどからは、平坦な声が出てきた。
「まぁそうだけど、その……一般向け以外に、王族や貴族に対して接待をする場所があってね……」
 言いにくそうにテオが釈明する。
 子どもの姿をした相手に対して、下半身絡みの話をするのは気が進まないのだろう。
 ただ、爽太の中で引っかかったのは、テオがそういう接待を受けていること自体ではなかった。もっと広い意味で、テオが持っていて、爽太が持っていないもの。
「……へえ」
 暗雲がたちこめるように、胸の中で広がっていくものがある。
 自分の声は、思っていた以上に冷たい。
「テオは、王宮の外で、ちゃんと自分の欲求不満を晴らすことができるんだね。外に出て、プライベートな場所で」
「爽太」
 少しあせった様子でテオが手を伸ばす。ほおをなでられるよりも早く、爽太は後ろへ退いた。溜まり続けたものが決壊して、叫び声になる。
「僕はここから出られないのに!」

 とっさに駆け出した爽太は、中庭を突っ切った。
「爽太!」
 後ろでテオが叫んでいる。体が軽いせいか、爽太はこの年齢の子どもとは思えないほど速く走れた。どころか、今までの人生でこんなに速く走ったことはないと思うほどの猛スピードだった。別の建物の廊下から中へ入る際、一瞬だけ後ろをふり返ったが、テオや従者たちが追いついてくる気配はみじんもない。
 なんでかな。この世界で初めて目を覚まして、テオを見つけて駆け寄った時は、ここまで速く走れなかったのに。
 理由なんてどうでもいいや。走れ。
 駆け出してしまったあとはただ逃げることしか考えられない。幸い、従者たちとすれちがうことはなかった。いくつもの角を曲がり、風のように駆ける。そして、ペイズリー柄のタイルが敷きつめられた空間を見つけて飛びこむ。トイレの個室のドアを閉めてしまえば、そこは完全にひとりだけの空間だった。

 トイレの個室の中は、お世辞にも長居したい空間とは言いがたい。
 王宮のトイレは水洗式で、洋式便器に似ており、座り続けること自体は何の苦労もなかった。ほんのりと間接照明がともっているので明るさも申し分ない。
 どの個室の角にも小さな台がすえつけてあって、その上には花瓶や水を張ったお皿が置いてある。花瓶には花がいけてあり、お皿には切り花が浮かんでいた。ほんのりと花の香りが漂ってくる。トイレ特有のにおいはほとんどしない。
 それでも、どことなく空気がひんやりとしていて、じっと座りこんで長時間すごすのに適した空間ではなかった。

 爽太はフタを下ろした便器に腰を下ろし、ぼんやりと個室に飾られた花を眺めていたが、見ているようで見ていなかった。衝動的に叫んで走ってきた時の勢いが少しずつおさまってくるにつれ、思考も戻ってくる。
 ぼそりとつぶやいた声は、ひがみっぽい響きを帯びた。
「自分だけ外に出て息抜きしてるとか、」
 テオのことをずるいと思った。
 正確に言えば、この感情は嫉妬だ。四六時中ふたり一緒に行動せねばならないのに、テオは時々王宮の外へ出て、仕事の合間に息抜きができる。きっと従者の監視の目から逃れて(もちろん部屋の外で待機はしているのだろうが)欲求を発散できる。それなのに爽太ときたら、王宮の外に出ることはおろか、中庭に出ることさえまれだった。トイレに行く時も従者がいて、どこにも自由がない。
 別に女の人とあれこれしたいわけじゃないけど、外に出たい。ひとりになりたい。やっとひとりになれたのがトイレの個室の中だけなんて。

 廊下を歩く静かな足音が近づいてきた。足音はふたり分だ。ひとりの足音はトイレの手前まで来ると立ち止まり、もうひとりの足音はトイレの中に入ってきて、爽太がいる個室のドアの前で止まった。
「爽太」
 テオの声がする。やけにやさしい声。
 声ににじむ不機嫌さを隠さず、爽太は問いかけた。
「なんで僕がここにいるってわかったの」
「お前の首につけたチョーカーは、ただの飾りじゃないんだよ」
 おだやかにテオの声が答える。
 くそ、こいつかよ。
 爽太は首のチョーカーをひっぱったが、もちろん取れやしなかった。なんでその可能性に気づかなかったのか。きっと発信機でも仕込んであるのだろう。オサナゴの衣装のひとつなのだと見せかけて、その実、ペットにつける首輪とたいして変わらない。爽太が逃げ出せないように、テオから離れられないように、きっと最初からそういう目的で。
 王宮内では電子機器を一切見かけないから油断していた。もしかすると、この国の技術は爽太がいた二十一世紀初頭の日本よりもずっと別の方向に発展していて、見た目は全然わからない形をしてあちこちにひそんでいるのかもしれない。もっと用心する必要がありそうだった。

「最低」
 爽太は低い声でうなる。変声期前の声では、あまり迫力が出なかった。ただ、爽太が怒っていることだけは充分に伝わる声音。
 一方、テオはあくまでもやさしくおだやかに言い聞かせる。
「そのチョーカーはすべてのオサナゴがつけるものだ。爽太だけじゃない」
「だからって僕が、はいそうですかって言うとでも思ってるの? 僕は犬や猫じゃないんだよ!」
 叫んだ声は個室の中で跳ね返り、トイレの中に響き渡った。
 残響が消え去ってから、テオは静かに答える。
「……でも我慢してほしいんだ。爽太はとても大切なオサナゴだから。王宮の中で迷子になったら大変だろ。それに万一のことだってある。爽太がどこにいるのか、常にわかるようにしておかないと、従者たちだってお前を守れないし、俺だって安心できない」

 そっちの勝手な都合じゃないかと思いながらも、自分の息の音を聞いて、どうにかして興奮をおさえようとした。
 そもそも自分が中庭から駆け出してここへ逃げこんだきっかけは何だったのか。ひとりになりたいのに全然なれないからだ。いつも誰かがそばにいて見張られている状態に、落ち着かなくてずっともやもやした気持ちを腹の底にかかえていたから。
 きっと否定の言葉が返ってくるだろうと思いながらも、爽太は尋ねる。
「……僕がどこにいるのかわかるんだったら、僕が王宮の外へ出ても問題ないんじゃないの?」
「それとこれとは別だ、爽太」
 案の定、すぐにテオは断じた。
「危険な場所へみすみす宝石を持ち出す馬鹿はいないよ」
「テオは外に出られるのに」
「俺は王族として、この国のために果たさなければならないことがある。爽太は俺のオサナゴだろ。俺の命綱だ。とても大切だから、外には出せない」
 頭ではわかっていた。王子が王宮の中に閉じこもりっぱなしですごすわけがない。外へ出てさまざまな任務をこなすのは当然だ。自分はさぞかし子どもっぽいことを言って駄々をこねているように見えるだろう。
 ただ爽太は、自分も一緒に外へ出たいだけだった。ものすごくむしゃくしゃしていた。
 納得しきれなくて、どうしても嫌味っぽい言い方になってしまう。
「……僕のこと大切だからって王宮に閉じこめて、そういうテオは外で仕事をしたついでに息抜きができるんだよね」
「そう、だね」
 気まずそうにテオの声がゆらぐ。

 口からこぼれた爽太のつぶやきは、ため息に近かった。
「僕も息抜きがしたいよ……」
「爽太」
 かつん、とかすかな音がする。テオがトイレの個室のドアに手をあてて、その爪がドアを叩いた音だ。
「爽太、ここを開けて」
「嫌だ」
「ちゃんと顔を見て話がしたい。……ねえ爽太、それは駄目だよ。オサナゴは結婚できないし、誰ともそういう関係にはなれないんだ」
 テオが突然何を言い出したのか、とっさに理解できなかった。
 少し考えて、息抜きの意味合いを誤解されているのだと気づく。爽太は外に出たい、ひとりになりたいという意味で言ったのだが、テオは王宮の外で受けた接待の内容を連想したようだ。欲求不満にならないのかと中庭で質問したせいだった。
「あの、テオ、そういう意味で言ったわけじゃないけど」
「爽太、開けて」
 やさしいのに有無を言わせぬ響き。かつんと再び爪がドアを叩く。
 そのうち従者を呼びつけて無理やりドアを開けるのではないかと思えてきて、とうとう爽太は自分からドアを開けた。ドアがゆっくり全開になるのを待って、テオが両手を伸ばしてくる。幼い子どものように抱き上げられて、個室から連れ出される。

「ごめんね、爽太」
 なだめる手つきで、テオが爽太の頭をなでた。
「今さらだけど、昔ケイナ様に教わったのを思い出したよ……。オサナゴは、オサナゴとして生まれてくるんじゃないんだって。ある日突然、オサナゴの運命を与えられてこの世界に来るんだって言われたんだ」
 初めてのことばかりで、きっと爽太は毎日大変だよね、と言いながらテオの手が頭をなでる。
 ほんの少し気がゆるんで、爽太はむっつりと口を開いた。
「……ケイナ様に聞いてたなら、もっと早く思い出してほしかったよ」
「ごめんね、疲れさせて……。でも今の状態に慣れてもらうしかないんだ。爽太は俺のオサナゴだから、王宮の外には出せない。お願いだからわかって」
 あまり爽太をゆらさないように、ゆっくりと歩いてテオが廊下へ出る。少し離れたところで従者が控えていた。爽太がおとなしく抱き上げられているのを見て、従者がほっとした表情を浮かべる。
 テオは従者と視線で何かをやりとりして、落ち着いた足取りで歩き始めた。そのあいだにも、抱き上げた爽太の耳元で話し続けるのをやめない。
「それとね、爽太……もしかするとこれから爽太は、誰か他の女の子や男の子と仲良くなりたいとか、もっと会いたいとか思ったりすることがあるかもしれないけど……」
「けど?」
「その子たちのことを好きになったり、必要以上にお互いの体にさわったりしちゃいけないよ」
 奥歯にものが挟まったような物言いだった。はっきり言えばいいのに。
 ささやかな抗議の意志をこめて、爽太はテオの首にまわした手を動かし、テオの後頭部の髪を軽くひっぱる。
「いたっ。爽太、何するの」
「テオがあやふやな言い方するからだろ。何? 僕に恋愛とかセックスとか、そういうことするなって意味?」
 言い方が直球すぎたのか、テオはつかのま黙りこむ。

 次の角を曲がる頃になって、爽太の耳元でテオが答えた。
「……そういうことをしちゃいけないし、できないんだよ。だからオサナゴは死ぬまで幼いままなんだ」
「何それ、誰が決めてんのさ」
「ずっと昔から決まってることだよ。……オサナゴは子どもをつくらない。死ぬまでずっと、主だけの幼き子」
 詩の一節を唱えるようにそう言って、テオはふたりの寝室にたどりつく。

 ふざけた話だ。
 一生そういうことができないなんて、だったら最初から本当に幼い子どもがオサナゴになればいいじゃないか。
 爽太も、アンディーも、そして恐らくはケイナも、大人になってからこの世界でオサナゴになって目を覚ました。友達をつくり、恋人をつくり、家族をつくる未来があるはずだったと知りながら、そのすべてを突然失った。ご丁寧にも、性欲が薄れた体になってまで。
 今なら、アンディーが情緒不安定になってしまうのも当然だと思えた。

 ベッドに下ろされ、爽太は首についたチョーカーを軽くひっぱる。何か言いたげなテオの視線は、しばらく爽太から離れていかなかった。

[第五章 完]