レトロスケープ

 子どもの頃、私の家族は郊外の団地に住んでいた。人見知りで臆病な子どもだった私は、あまり遠くへ行こうとしなかったため、広大な団地の地理すらもろくに把握できないまま小学生になった。
 ある日曜日の午後、父が私を散歩に誘ってくれた。散歩といっても歩くのではなく、母の自転車を借りてそのへんをぶらぶら走るのだ。
 当時の母の自転車は、ママチャリという呼び名にふさわしい代物だった。日に焼けてくすんでいて、大きなカゴがついていて、後ろには子どもが座るための小さなイスもつけてあった。私が幼稚園に通っていた頃、母は毎日この小さなイスに私を乗せて送り迎えをしていた。
 自転車のふたり乗りは、本当はいけないことなのだが、もちろん当時の私は知らない。まだ背も低くて幼い私を後ろのイスに乗せ、父はゆっくり自転車をこいでいく。イスについた小さな取っ手を握りしめ、私は流れていく住宅街の町並みと父の背中を、交互にぼんやりと眺めていた。

 時々、父は口笛を吹く。「しっぽのきもち」という歌のサビのメロディーだけを吹いて、少ししたらまた吹いて、とぎれとぎれにくり返しながら、自転車をこぐ。父はその歌がお気に入りだった。なのになぜか歌を全部覚えることができず、いつも同じメロディーばかり口ずさむのだ。
 くもり空の下で、視界の中心に見える父の背中。見慣れない景色に少し緊張しながら、私は父の背中を見つめている。いつもぼんやりしている子どもだったので、どこをどう走ってきたのか、道のりもさっぱり覚えていなかった。もし今ここで父とはぐれてしまったら、私は家に帰れないかもしれない。

 あの頃、父が私たちの家のごく近くを走っているだけだったのだと気づいたのは、ようやく中学生になってからだった。成長期の中学生の足でしばらく歩けば、あの時の私が緊張しながら眺めた景色にたどりつく。なんのことはない、父は団地の中を走っているか、団地から少し離れたところにある別のマンションの近くを走っていたのだった。
 やがて、私は自分の自転車でもっと遠くへ出かけるようになった。自分のお小遣いで、「しっぽのきもち」を歌っていたアーティストが出した『歪んだ王国』というアルバムを手に入れ、くり返し聞くようになった。レンアイってなんだろう、などと思いながら。

「ナキミさんって、どんな音楽聞いてるの」
 セクシーなんだか、おばさんくさいんだか区別のつかない、けだるそうな雰囲気を醸し出しながら、喫茶店でカケイさんはそう言った。オネエ言葉を操る無精ヒゲを生やしたカケイさんと、女らしい声音と言葉遣いをどこかに放り出してきた私は、たまにこうして職場の昼休みを一緒に過ごす。
「えぇと、谷山浩子とか」
「谷山浩子? あぁ、あれね」
 コーヒーカップに手を伸ばしながら、カケイさんは宙を見上げる。
「あれでしょ、『部屋とYシャツと私』」
「ちがいますよ」
「知ってるわ。前に課長が同じこと言ってたのよ。それに『部屋とYシャツと私』は平松愛理でしょ」
「誰ですかそれ」
「やだ、知らないの?」
 少し顔をしかめながら、カケイさんはコーヒーを飲む。本当は砂糖を入れたいらしいのだが、我慢してブラックで飲んでいるのだ。
「カケイさん、なんで砂糖入れないんですか」
「三十代になるとねぇ、太りやすいの。でも太りたくないからいろいろ制限してんの。喫茶店でお昼食べるのだってそうよ。牛丼屋で大盛り頼んだ方が、安上がりだしお腹もふくれるけど、もうそんなの食べてていいお年頃じゃないのよぉ」
「めっちゃストイックですやん」
 私は砂糖とミルクを入れた紅茶に口をつける。苦い苦いブラックコーヒーを我慢して飲む日が、私にも来るのだろうか。それならいっそ、コーヒーも紅茶もやめて、水を飲む方がよっぽどマシだと思うのだが。

「ふーん、谷山浩子ねぇ」
 突如、話題が戻る。
「カケイさん、谷山浩子、知ってるんですか?」
「ちょっとだけね。昭和歌謡とか、そういう昔の人の歌が好きだから」
「お言葉ですが、谷山浩子は平成も現役ですよ」
「それもそうね」
 カケイさんは窓の外に目をやる。お店のお姉さんがやって来て、食べ終えたふたりのお皿を片づけていった。あともうしばらくしたら、職場に戻らないといけない。
「……昔さぁ、中学のクラスに、谷山浩子を好きな男がいたのよ」
 静かな声で、カケイさんがつぶやいた。
「清純でおとなしそうな女の子が好きだって言ってた。髪は長くて真っ黒で、おとなしくて、いつもニコニコしてて、口答えしなくて、ちょっと天然の女の子が好みだって言ってたのよ。ばっかみたい」
「中学生の男の子は、たいていアホですよね」
 私も静かに答える。女の子だってそうだけど。
「そうよ。馬鹿でアホよ。そんな男を、あの頃の私はちょっといいなーなんて思っててさ。そんな自分も馬鹿みたいだと思ったわ。私が谷山浩子を知ったのって、それがきっかけだったけど」
 カケイさんは、ブラックコーヒーをぐうっと一気に飲みほし、実に苦そうな顔をして、「そろそろ行く?」と言った。

 私も昔、同じことを思っていた。
 清純でおとなしそうな女の子が好きだという男の子たちを、遠くから眺めて、ばっかみたい、と心のなかで毒づいていた。私は彼らを馬鹿にして嫌っていたし、彼らも私を恋愛の相手だと思っていなかった。当然だ。自分を馬鹿にしているような女を、好きになる男などいない。
「私だって同じなのにね」
 職場へ戻りながら、小声でつぶやく。私のつぶやきはオフィス街の喧騒にまぎれて、カケイさんには聞こえない。
 清純でおとなしそうな理想の女の子。
 ただひたすら私を愛してくれる王子様。
 どっちもファンタジーだ。

 夢を見た。
 世界は砂の色に包まれている。ピラミッドのように巨大なお墓に閉じこめられているのだ。どこからかぼんやりと光が差しこみ、遠くから歪んだ王国の世界を歌うメロディーが聞こえてくる。
 お墓なのに、まるで王宮のようなつくりだなと思いながら、私は歩いた。整然と並ぶ円柱が、恐ろしく高い天井を支えている。
 やがて、広間のようなところに出た。広間の奥には舞台のように高くなっている場所があって、そこに玉座がしつらえてある。円柱も、天井も、広間の床も壁も、玉座も、すべて砂の色。

 ゆらりと白いものがゆれた。白いワンピースのような服を着た彼女が、玉座に座ろうとしている。『歪んだ王国』を気に入って、歌詞をノートに書き写していた、あの子だ。
 舞台のそでから若い男が現れて、彼女に手を貸し、座らせた。男は彼女をずっと見つめている。彼女は男に微笑みかけてから、私をまっすぐに見すえた。
「ナキミ、永遠の愛って、あると思う?」
 ありえないよ、と私はまた答えるのだろうか。
 彼女は少しあきれたように目を細めて、小さな子どもに言い聞かせるような口調で言った。
「簡単だよ。永遠なんて、奇跡っていう言葉と同じくらいの大安売りなんだから。永遠の愛を誓う王子様なんて、探せばすぐに見つかる。そこらへんに山ほど落ちてるから」
 そう。私だってわかっているのだ。誰だって永遠の愛を大真面目に考えているわけではない。本当にできるかな、と思いながらも、その時は真剣に永遠の愛を誓って、そうして結婚していくだけなのだ。

「ナキミさんたちは簡単だね」
 背後で声がする。軽やかに歩いてきたカケイさんが、彼女と同じように微笑みながら、私と彼女を交互に見つめて、皮肉っぽく言った。
「王子様だのお姫様だの永遠の愛だの、勝手にすればいいじゃない。あなたたち、とりあえず男と女で結婚できるんだから」
「ナキミは王子様を見つけた?」
 玉座に座った彼女が、わざとらしく無邪気に問いかける。
 高い天井のどこかから黄金の光が差して、砂色の床に文字が浮かび上がった。永遠の愛を誓った偽りの歌。それをつづった文字が金色に輝く。
 ねえ、愛されるって、どんな気持ちなの。思わず私は本音を口にしていた。
「質問に質問で返すなんて、ナキミさん、いけてないわぁ」
 カケイさんが楽しそうに混ぜっ返す。
 彼女は玉座の横に立っている男と手をつなぎ、気の毒そうに微笑んだ。
「ナキミ、それは誰かを愛した人間が言うべき台詞だよ」
 夢が終わる。
 目が覚めたあと、アラームが鳴るまでの三十秒間、私は呆然と横たわっていた。

 私が初めて聞いた谷山浩子の歌は、「しっぽのきもち」だった。父が自転車をこぎながら口笛を吹いた、あの歌だった。あなたのしっぽになりたいと歌う、なんとも奇妙でかわいらしい恋の歌。あの歌のように、自分も自然と誰かを好きになるのだと思っていた。
 私が初めてのめりこんだ谷山浩子の歌は、『歪んだ王国』というアルバムと、そのアルバムの冒頭を飾る「王国」だった。彼女とふたりで歌を聞きながら、この歌のように、自分も誰かから強く愛されたいと思っていた。

「この前は、ヘルプに入ってくれてありがとう」
 その日、お昼の休憩を終えて職場に戻ると、村吉チームのスタッフのひとりがやって来て、コンビニのお菓子をそっと私のデスクに置いた。
「えっ、いやいや、お礼なんていいよ」
「いやいや、気にせず食べて下さいよ」
「じゃあ、ありがたくいただきます」
 お菓子を持ってきてくれたスタッフの指に光るものを見て、そういえば彼女は去年結婚したばかりだなと思い出した。
「ねえ、後学のために聞きたいんだけど、結婚生活ってどんな感じ?」
「えっ、どんな感じ、ですか?」
「どんな時に、あぁ、いいなーって思ったりするの?」
「うーん、そうですねぇ」
 とぼけた顔で腕を組んだ彼女は、五秒とたたずに答えを出した。
「あ、そうそう、台所で旦那が料理してくれる時、私が後ろで変な踊りを踊ったりするんですよ。旦那がふり返ったら踊るのをやめたりして、ちょっとふざけて。そしたら、『いいよ、踊っててよ』とか『急にやめても、視界のすみで踊ってるの見えてるから』とか旦那が言うんです。そんな時、あぁ、いいなーって思います」
「へぇー。ごはんつくってくれるんだ。仲良くってうらやましいなぁ」
「えへへへ」
 ふいに涙がこぼれそうになった。
 そんなことで、そんなことだけでよかったのに。永遠の愛だの、王子様だの、わけのわからない夢みたいなことなんていらないから、一緒に台所に立ったり、踊ったりふざけたりするような、ただそれだけの幸せがあればよかったのに。
 どうして私は気づかなかったんだろう。

 帰りの電車の中で、私は夢を見る。
 台所で料理をしている旦那さんと、その後ろでしっぽのように踊っている職場のスタッフと、顔をしかめてブラックコーヒーをあおるカケイさんと、砂色の玉座に座った彼女が、やがて皆、一緒くたになって踊りだす。
 知らない人たちもどこからか増えてくる。姿を見せない父の口笛が「しっぽのきもち」を奏でる。皆楽しそうにおじぎをしたりゆるやかなステップを踏んだりしながら、いつまでも狭い台所でぎゅうぎゅうに踊っているのだ。
 私も踊りの輪の中へ入っていく。しっぽになりたい、好きな人のしっぽになりたい、と意味のわからないことを叫びながらもみくちゃになって踊る。なりたい、なりたい、なろう、なろう。皆で大合唱しながら踊り続ける。好きな人いるの? まだいない! じゃあ好きになればいいんだよ!
 電車が速度を落とし、私の降りる駅に到着する。私の夢からあふれた幻影の人々の群れは、わあわあと叫びながらホームになだれていき、踊りながら消えていく。彼らが消えたあとも、その大合唱は耳の中でふわふわと反響していた。好きな人のしっぽになりたい、なりたい、なろう、なろう。好きな人いるの? まだいない! じゃあ好きになればいいんだよ!

「そんな簡単に好きになれたら、苦労しないっつうの」
 思わずそうつぶやきながら、改札を通る。
 しかし、周りの人に聞こえないよう、私も小声で歌い始めた。しっぽになりたいと願う恋の歌を口ずさみながら、いつもよりほんの少しだけ踊るような足どりで、家への道のりを急いだ。

[完]

作品情報

2013年、Amazon Kindleストアで販売した小説『歪んだ王国に生まれなかった私たち』に収録。
(現在は販売終了しました)

ブログへ再掲するにあたって、若干修正しました。

…アラサーにもなって「永遠の愛とは」なんて言い出したり、恋愛や結婚に対して「一緒に台所でふざけたりするような幸せがほしい」という実にぼんやりした願望しか出てこないあたり、ナキミの結婚はまだまだ遠そうです。別にしなくてもいいと思いますけどね。