豊かな国の幼き子らよ 04

第四章 王の幼き子

 一週間ほどたつと、従者が何冊かの新しいノートを持ってきた。ボールペンに似た筆記具も添えて。
「はいこれ、爽太にあげる」
 夕食から戻ってきたばかりの爽太に、テオがそう言ってノートとペンを渡す。爽太は「いきなりどうしたの、これ」と言いながら受け取った。
「ずっと俺にくっついてたから、だんだん爽太も慣れてきただろ?」
 テオは首をかたむけて同意を求める。
「だからね、これが次のお仕事。覚えておきたいこととか、あとで聞きたいこととかがあったら、そこに書きとめて。記録しておくのが勉強の基本だから」
「あぁ、なるほど……」
 言われてみれば、ここへ来てから覚えるべきことはすべて口頭での伝達だった。メモを残せるのは正直ありがたい。
 スマートフォンがあればもっと便利だったんだけどな、と思ったけれども、さすがにそれは無理だろう。電気は通っているようだが、この王宮の中で電子機器のたぐいを見たことは一度もなかった。
「ちゃんとそれを持って、俺にくっついてくるんだよ」
「はーい」
 素直に返事をして、いつも服がかけてあるイスの上にノートとペンを置いておく。ここなら部屋を出る時も忘れないし、寝る前や朝起きた時にメモしておきたいことがあっても大丈夫だ。

 爽太がノートに書くのは、もちろん日本語だった。この国の言葉はすべて日本語に聞こえてしまうし、文字もじっと見つめていれば日本語に変わるし、この国の言葉を覚えようにも覚えられないのだ。
 しかし、爽太以外の人々には日本語がわからないし、爽太の書いた文字が読めない。爽太の話す言葉は自動的にこの国の言葉で聞こえているらしいのだが。
「ねえ、これなんて書いてあるの?」
 テオが城外の人と謁見しているあいだ、カーテン一枚へだてたところで待機していた爽太は、気になることをせっせとノートに書きとめていた。やがて謁見を終えたテオは、カーテンをめくりながら「爽太ー!」と叫んで、ノートをのぞきこむなり不思議そうに尋ねたのだ。
「え、読めない?」
「知らない文字だ。読めないね。オサナゴは彼らだけの文字を書くって本当だったんだ」
「そんなふうに言われてるの?」
「花の王子から聞いたんだよね。オサナゴにノートを渡しても、何を書いてあるのかは読めないんだって」
「ふうん」
 アンディーの母国語は何語なのだろう。次に会えたら聞いてみようかな。
 爽太は移動に備えて、しおりのかわりにペンを挟んでノートを閉じ、こわきにかかえた。

 乱れた髪を従者に手早く整えさせて、テオが笑いかける。
「さあ、次は書斎に行くよ、爽太。トイレに行かなくても大丈夫?」
「大丈夫だよ、テオ」
 褐色の瞳が、うれしそうに細くなった。
「そうそう、もっと名前呼んで、爽太」
「テオ?」
「そうだよ!」
 テオが破顔する。
 まるで初々しいカップルみたいなやりとりだなと思って、爽太はぎこちない笑みを浮かべた。確かに元の世界でもテオとは仲が良かったが、だからといってそういう関係だったわけではない。
 元の世界のテオは友達だった。この世界のテオは自分の主だ。爽太が望むかどうかにかかわらず。
 そして爽太が幼い子どもの姿をしていて、オサナゴという特殊な立場にあるおかげで、テオは爽太を保護する兄や父親のようでもあった。実際、テオに頭をなでられたり抱きしめられたりした時に感じるのは、大人が小さな子どもに対して示す親愛の情そのものだ。
 そう考えてみれば、言葉を話し始めた子どもにママとかパパとか呼ばれて大喜びする親と、爽太に真名を呼ばれて喜ぶテオは、どこか似ていなくもない。カップルよりも、そっちのほうが近い気がした。

 数日たつと、テオが爽太に告げた。
「明日は夕飯のあとで、陛下のオサナゴがいらっしゃるよ」
「どうして?」
 ふり向いた爽太は、きょとんとしながら聞き返す。自分の顔は見えないけれども、実際にきょとんとした顔をしているだろうという気がした。
「さあ。詳しくは聞いてないけど。定期的な様子見じゃないかな。爽太はここへ来て一ヶ月くらいだし」
「ふうん」
 ちらりと手元のノートに視線を落とす。記録をつけるものはこれしか持っていなかったので、予定を書きこむのも同じ場所になっちゃうな、と爽太は考えた。もっとも、常に従者に先導されてテオと一緒に行動しているから、予定はすべて従者が教えてくれるのだし、特にメモしておく必要もないのだが。
「テオ、ここってカレンダーとかないの?」
「うん?」
 どうやら、この世界にもカレンダーと同じものがあるようだ。爽太の言葉はちゃんとこの国の言葉で届いたらしく、テオの顔にゆるゆると笑みが広がった。
「あるよ、カレンダー。自分の未来に興味を持つのは喜ばしいことだね」
 大げさだなと爽太は思ったが、テオは本当にうれしそうにしている。時計の針の読み方を覚えた子どもを褒めるように、テオは爽太の頭をなでた。
「あとで爽太の部屋に用意させておくよ」

 多分、爽太が元の世界へ戻ろうとするのをあきらめ、この国での暮らしに順応しようとしているからテオは喜んでいるのだろうと、ベッドへ入る頃になって爽太は気づいた。

 翌日、爽太の部屋には地図のついたカレンダーが運びこまれた。
 一年分の月日を表にして並べ、その上にコラナダの地図が描かれたポスターのようなものだ。カレンダーというよりも、地図におまけでカレンダーがついているデザインだった。予定を書きこむスペースはない。
 ありがたいことに、この国の数字もアラビア数字だったらしく、いちいち時間をかけて見つめなくてもすぐに読み取れる。今日は五月十三日だよ、と言いながらテオがカレンダーの日付のひとつを指差した。
 そういえば、この部屋には時計もない。爽太に聞かれたテオは「従者が時間を管理してくれるから、俺たちは時計を見る必要がないんだよね」と言って笑った。

 色とりどりの模様をあしらった立派な壁に穴をあけるのは気が引けたのだが、従者たちはテオの指示するままに位置を調整して、画鋲に似たものでカレンダーを設置してしまった。テオは満足そうにうなずいている。
 従者たちが下がると、テオは「ほら、カレンダーだよ!」と言いながら爽太を抱いて、壁にかけたカレンダーと同じ高さまで持ち上げた。
「ここまでしなくても見えるよ」
「遠慮しないでよ爽太。オサナゴなんだから。よく見えるようにしてあげるのも俺の役目だろ」
 それはどうだろうかと爽太は思う。面倒なので口には出さなかったけれど。

 テオや他の王族たちは、やたらとオサナゴを子ども扱いしたがるのだが、いくら子どもの背丈になってしまっているとはいえ、こんなふうに抱き上げるほどの小ささだとは思えない。
 爽太は子どもの頃の身長など覚えていないし、元の世界でも周りに小さな子どもがいなかったので判断しづらいのだが、なんとなく今の自分は小学生の中学年くらいになってしまっている気がしていた。
 つまり、だいたい十歳前後だ。たまに家の中で親のひざの上に座って甘えるのならともかく、これ見よがしに抱き上げて運んだりするほど幼くはない。第一、その年頃の子どもに人前でそんなことをしたら嫌がられるだろう。
 でも、きっとここでは「オサナゴだから」という理由ですべてがまかりとおるのだ。

 こんな扱いを受け続けていたら、そのうち自分も慣れていって、子どもっぽいふるまいをするようになって、退化して幼児みたいになってしまうかもしれない。ふとそう思って、爽太は顔をしかめた。
 大人の自分を忘れてはいけない。思いついたことはこまめにノートに書きとめて、頭を使って考えるようにしよう。でないと本当に自分の中の何かが崩れてしまいそうで不安だった。

 その日、爽太はいつものようにテオと行動をともにしながら、いつも以上に熱心にメモをとった。夕飯のあとでケイナが来ると言っていたし、テオに聞きづらいことは彼に聞いてみようと思ったのだ。
 とはいうものの、自分の感情を吐露していた不安定なアンディーに比べると、ケイナはあまりにも落ち着いていて、そのせいでどこか、オサナゴというよりも王族寄りの立場に感じられる。同じオサナゴであっても、アンディーが同級生だとすると、ケイナは教師に近い印象だ。個人的な悩みは、あまり相談する気になれなかった。今のところは。

 夜、食事を終えて部屋に戻ると、しばらくしてから従者がケイナの訪れを告げた。
 爽太はノートとペンを手にして、ケイナとふたりですぐ近くの部屋へ入る。なんとなく、国王に呼ばれていった時の部屋のように、入口についたてを立てておきたくなったが、残念ながらこの部屋にはその手のものがない。
 仕方がないので声のトーンをおさえ、なるべく静かに話すことにした。廊下には従者たちが見張りに立っているし、自分が相談する内容も聞こえてしまうだろう。そう思うと落ち着かないのだ。文字だったら、どんなに見られても彼らには読めないのに。

 腰を下ろすと、ケイナはすぐに口火を切った。
「ここでの暮らしにも慣れてきたか、爽太」
「え、えぇ、まぁそこそこ」
 まるで何かの面接を受けている気分だ。実際、似たようなものだろう。
 国王のオサナゴだからか、ケイナはアンディーほど丁寧な言葉遣いではなく、教師か保護者のような口ぶりだ。それもあって余計に面接じみていた。愛想よく笑顔をふりまくこともない。
 爽太と似たワンピースを着て、爽太と同じ金糸の刺繍をした黒いチョーカーを首につけて、子どもの姿をした異邦人。ケイナが顔を動かすたび、肩にかかる長さの金髪がさらさらと流れ、灰色にくすんだ色合いの青い瞳が、爽太の内心を見透かすようにこちらを凝視する。

 ふむ、と小さくうなって、ケイナはかすかに首をかしげた。
「単刀直入に言おう。アンディーと会ったそうだな。何か聞きたいことがあるのではないか」
 ある。
 爽太はすうっと息を吸った。
「あの……アンディー様に教えていただいたんです。『主の死が私たちの死だ』って。……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
 間髪をいれず、ケイナの言葉が返ってくる。
「今までおかしいと思わなかったのか。殿下は何かとすぐに爽太を抱いて歩くだろう」
「え、それが……?」
 急に話が飛んで爽太はぽかんと口を開く。
 ケイナは無表情に話を続けた。
「私たちは子どもの姿をしているが、大人がそんなに軽々と抱き上げられるほど幼いわけではない」
「そうですけど」
「オサナゴは普通の人間よりもずっと体重が軽いんだ」
「体重が、軽い……?」
 予想もしていなかった話の流れに、爽太はまばたく。
 ケイナはかすかに微笑んだが、それはどこか皮肉な笑みだった。
「私たちは内臓が何か足りないんじゃないか? だから軽いんだ。運ぶのも簡単だし、その気になれば簡単に誘拐できる。オサナゴは王族にとって非常に重要な人質になるからな」
「あ、あぁそうですね。人質にもなりますよね、要人みたいなもんだし……」
 きなくさい話になってきた。ケイナが爽太をまっすぐ見つめる。
「もちろん王族はオサナゴをとてもかわいがるよ。我が子みたいに。だからしょっちゅう抱っこしたがるんだろうけどな、爽太、常に肌身離さずそばに置いておくためでもあるんだ」

 危うく爽太が最初の質問を忘れかけたところで、ケイナは笑みを消し去り、話を戻した。
「……で、実際、オサナゴの軽すぎる体には何かが足りない。オサナゴは真名を呼ぶことで主の健康を支えるが、オサナゴも主から引き離されると長くは生きられない。だから主が死ねばオサナゴも死ぬ」
 ひゅっと小さく息を飲む音がする。自分ののどが立てた音だと気づくのに、数秒かかった。
 気づくのとほぼ同時に、爽太は尋ねていた。
「死ぬって……一緒に死んじゃうんですか?」
「いや、じわじわと衰弱して死ぬんだよ。だから王族の葬儀は埋葬までに時間がかかる。あとを追うように死んだオサナゴも一緒に葬るからだ。……死ぬのがわかっているから、それを待って埋葬する」

 閉じたままのノートとペンを持った手は、すっかり冷たくなっていた。
 ケイナは言葉を切り、困ったように首をかしげる。
「……ここへ来たばかりで、これから主を支えていく若いオサナゴにするべき話ではなかったね。聞かれたことにそのまま答えてしまった」
 ショックを受けながらも、もっと早くそれに気づいてくれと爽太は思った。聞いてしまったあとで、今さら遅すぎる。とはいえ、彼が言葉をごまかして答えてくれなかったら、それはそれで爽太は不審に思っただろう。
 軽く指に力をこめて、しっかりした声を出そうとした。
「いえ、気にしないで下さい。僕が聞いたことなので」
「それもそうだな。でも爽太、どうしてそんなことを? アンディーに何か言われたのか」
 爽太はためらう。あの不安定なオサナゴのことを責めたくはなかった。

「アンディー様は……どうしてあんなふうに? なんだかすごくお悩みだったみたいで……」
 ケイナもアンディーを責めるつもりはないのか、わずかに首をふる。
「別に誰のせいでもない。これはアンディーの問題だ。彼は十代の頃にひととおり悩んで、克服したと思っていたことを、オサナゴになったせいで再び悩んでいる」
 それは、思春期云々のことだろうか。
「思春期がどうとか……?」
「そうだな」
 目をそらしたケイナは、壁に描かれた色とりどりの模様を眺めるともなしに眺めた。
「元の世界でのアンディーは十代の頃、死んだら自分はどうなるのか、大人になってどう生きればいいのかと悩んでいたそうだ。どう生きてどう死ぬべきか、とね」
 いろいろな宗教の聖典や、古今東西の哲学書に手を出したと聞いたことがあるよとケイナはつけ加えた。
「自分の悩みに折り合いをつけて大人になったと思ったら、この世界へやってきて、死ぬまで年をとらないオサナゴになってしまって、主になった花の王子とは、元の世界では考えたこともない特殊な関係にある。おまけに自分の主が次の国王陛下だ。それで悩んでいるんだよ、彼は」
 そう聞くと、実にあっさりした悩みに思える。
 でも、アンディーは真剣に苦悩しているのだろう。こんなふうに他の誰かの口から事情を聞いてしまってよかったのだろうか。

「すみません、いろいろと聞きすぎたみたいです」
 爽太が目を伏せると、ケイナは眉を上げた。
「謝る必要がどこにある? 私が話したのは最低限の事情だ。気になるならアンディーに聞けばいい」
「は、はい」
 ケイナの指が、袖にあしらわれた龍の模様の刺繍をなでる。なんとなく爽太はその動きを目で追った。
 あまり感情のうかがえない声が、淡々と語る。
「オサナゴが悩むのは当然だよ。突然こんな役割を与えられたら、誰だって一度は立ち止まってしまうものだ」
 やさしさのかけらもない声だったが、至極当然だとばかりに言われたその言葉で、爽太はふと何かが楽になるのを感じた。

 他にも何か聞きたいことはないかと問われて、ノートをもらう前にあった出来事を思い出す。
「あっ、あります。テオ……水の王子に質問して、それっきりになっていたことがあるんです。すっかり忘れてたんですけど」
 ケイナはけげんそうな顔つきになる。
「殿下は教えて下さらなかったのか?」
「えーと、タイミングが悪くて話の途中になってしまって……」
 説明するのが面倒で、爽太は言葉をにごした。炎の王子と会った時の騒ぎで、うやむやになってしまった会話だったからだ。
 念のためにノートを持ってきたものの、さっきから爽太は一度も開いていなかった。ここまできたら、もうノートを開く気にはなれず、自分が思いつくままに話し始める。
「僕は今、水の王子と同じベッドで寝てるんです」
「そうだろうな。オサナゴは皆そうだ」
「でも、王子が結婚したら、さすがにベッドは……というより寝室は別ですよね?」
「同じだ」

 爽太は耳を疑った。
 即答したケイナは、重ねてもう一度言った。表情ひとつ変えずに。
「ベッドは一時的に別になるかもしれないが、寝室は同じだ。主が任務で王宮の外に泊まる場合でもない限り、オサナゴは主とともに眠る」
「はい?!」
 この世界へ来てから珍しく、爽太はすっとんきょうな声を上げた。
「い、いやいや、おかしいでしょ。夫婦の寝室ですよね?」
 それ以上はさすがに言いにくかったが、結婚したら世継ぎを産むためにやることをやるはずだ。なのに、その場にいろと?
 食い下がった爽太を見返すケイナの声は、心なしか不機嫌そうな響きを帯びた。
「信じたくないだろうが、残念ながら私たちの寝る場所は主のとなりだ。主が結婚していようがいまいが、そう決まっている。だから王族は夫婦で別々の寝室を使うことが多い」
「あー……」
 少しほっとする。さすがに夫婦の寝室で一緒に寝るのは爽太も嫌だった。気まずいったらない。

 しかし、安堵の吐息が消えるよりも先に、ゆるみかけた気持ちをケイナが叩き切った。
「爽太、別々の寝室を使うことが多いと言っただけだ。もちろん夫婦の営みのためにひとつのベッドで寝ることもある。その時も私たちは一緒に寝なければならない」
「えっ」
 同じオサナゴとして愉快な話題でないことは確かなのだろう。話し続けるケイナの顔から表情が消える。
 それでもその唇は容赦なく告げた。
「もっと具体的に話したほうがいいか? 結婚した殿下が妃と子どもをつくっているあいだも、あなたは同じ部屋にいないといけないんだよ」
「なんで?!」
 気が遠くなりかけた。
 いくらなんでも悪趣味すぎる。友達にそっくりの男のそんな現場に居合わせるなんて冗談じゃない。友達のそんなプライベートすぎる姿は見たくない。いくらテオが友達のテオ本人ではなかったとしても見たくなかった。テオだって見られるのは嫌だろう。多分。

 ケイナは無表情に、ちらりと部屋の入口へ視線を走らせる。爽太が叫んだので、見張りの従者の様子を気にしているらしい。
 特に何も起こらないのを確認して、ケイナは爽太の問いに答えた。
「……なんでって? 離れているあいだに、オサナゴが逃げ出したりしないようにするための措置だ。それにお互い、そばにいたほうが体調はいいからな。あと……これは事実かどうか疑わしいものだが、オサナゴに見守られているほうが受胎しやすいという俗説もある」
「聞きたくなかった……」
 片手で顔をおおって、うわずった声で爽太はうめいた。そんな生々しい話、本当に聞きたくなかった。なんなんだよ、オサナゴって。
「爽太は知っておいたほうがいい」
「なんでですか」
「花の王子は婚姻の準備が進んでいる。そうなると、次にその話が持ち上がるのは水の王子だ。オサナゴも見つかって一人前になったからな」
 ケイナは事務的にそう告げた。
 自分の主が五人の子どもの父となるまで、この人は何度となく夫婦の閨で夜をすごしてきたのだということに爽太は気づく。どんな顔をしてやりすごしたのか、先達として教えてほしい心境だったが、さすがにそれをここで聞くのはぶしつけに思えた。

 テオは今いくつなのだろう。
 この世界に来て一ヶ月前後。わかってはいたことだが、爽太がここに来る前からこの世界は存在していて、王宮では時間が流れていたのだ。ケイナがここへ来て、国王が即位して、王子と王女が産まれて、アンディーがここへ来て、花の王子の結婚が決まって、それで。
 爽太が現れたことで、ひとりの王子の将来が決まった。テオはこの王宮で「王位継承権を持ち、結婚も可能な一人前の王子」になった。爽太にまったくそのつもりがなかったとしても、爽太がテオの名前を呼んだから。
 夢の中だと信じていた世界で、友達を見つけたと思って名前を呼んだ、それだけなのに。
 自分が望むかどうかと関係なしに、爽太の生きる世界は変わってしまった。多分、テオの暮らしも。

 ふと、顔をおおっていた手を下ろして、爽太はつぶやくように尋ねた。
「……アンディー様は、なんて言ってました?」
 不意をつかれたのか、ケイナがわずかに目を見開く。
 こんなことを聞くのは、ショックを受けているのが自分だけではないと知って安心したいのかもしれない。そう思いながら爽太は尋ねる。
「アンディー様にも、こういう話をしたんですよね? 結婚後もオサナゴは主と一緒に寝るんだって」
「あぁ」
 納得してうなずく動きとともに、ケイナの金髪がゆれる。
「そうだな、アンディーはひどく嫌がっていた。元気をなくしたので、殿下も陛下も心配していたよ。おまけに彼はずっと悩んでいるし」
 だが婚姻の日取りは変えられない、と言ってケイナは立ち上がった。
「すまない。もっと聞きたいこともあるだろうが、私に許された時間はここまでだ」
「あ、はい」
 急に切り上げるんだなと思いながら爽太も立ち上がる。もしかすると爽太の気づかないところで、部屋の外から何か合図があったのかもしれなかった。
「あの、ありがとうございました」
「気にするな」
 入口に向かおうとしたケイナが、爽太の持っているノートに視線を落とす。
「爽太がそのノートに書いているのは、どこの言葉だ?」
「へ? 日本語です」
「そうか」
 それきり、ケイナは部屋を出ていこうとする。あわてて爽太は言葉を投げかけた。
「ケイナ様は、どの国からいらしたんですか?」
 灰色がかった青い瞳が、こちらを見やる。
 すでに遠い過去になってしまったものを語る口調で、ケイナは去り際に答えた。
「私の国は、もうないよ」

 爽太は自分の部屋に戻って、ケイナの話の要点をノートに書きとめる。
 爽太の部屋とつながっている寝室では、テオがそわそわしながら待っていたのだが、「ちょっと向こうで考えたいことがあるから」と言って通りすぎ、自分の部屋に来たのだ。テオは飼い主に置いていかれた犬のように哀れっぽい表情を浮かべた。
 変なの、と思いながらノートを開く。まるでテオのほうが母親に必死でまとわりつく小さな子どもみたいだ。すぐ近くの部屋でケイナとしばらく話をして、それからちょっと自分の部屋へ行っただけなのに、テオはおあずけを食らったといわんばかりの顔をして待っている。
 別に日本語の文字をどれだけ書いてもテオには読めないから、テオの目の前で書いてもよかったのだが、読めないとわかっていてもなんだか嫌だった。凝視されていると、すごく書きづらい。特に自分がショックを受けている時は、ひとりで考えをまとめながらメモをとりたかったのだ。

 いささか生々しい話だったので、ノートを開いた爽太は少々ぼかして簡潔に箇条書きで書きとめる。

  • 主が死ぬとオサナゴも衰弱死する
  • テオの結婚後も寝室は同じ
  • オサナゴがひとりで寝るのは駄目
  • 花の王子の次はテオが結婚する

 そこから下へと矢印を伸ばして、自分が感じたことを書いてみようとした。しかし、なかなか言葉がうまく出てこない。
「うーん……」
 所在なくペンをぱたぱたと上下にゆらす。
 爽太の思考を破るように、となりの寝室からテオの声が呼んだ。
「ねえ爽太、まだー? 早くこっちにおいでよー」
「まだー! もうちょっと待って」
 叫び返すと、聞こえよがしにテオが「あーあ」と大きなため息をついた。

 ふと思いついて、矢印の下に言葉を書きつける。

  • ひとりになりたい
  • もっとプライバシーがほしい
  • テオは同じように感じないのか?

 いくら王族だからって、子どもの頃から常に大勢の人に見守られて暮らしてきたからって、それに息苦しさを感じないなんてこと、あるんだろうか。テオはひとりになりたいと思ったことないの? ぱたぱたとペンをゆらして、爽太は心の中で問いかける。当の本人は壁一枚へだてたすぐとなりにいるので、直接聞いてみればいいのだが。
「あ、でも、テオはたまに王宮の外へ出てるんだっけ」
 王子として、王宮の外で行う仕事もたくさんあるはずだ。爽太は一度たりとも連れていってもらえたためしはないし、これからも王宮の中に閉じこめられたままかもしれないのに。
 そう思うと、急に息苦しくなった。衝動的に汚い字で書き殴る。

  • 王宮の外に出たい

 すでにケイナとの会話に関係のあるメモではなくなっていたが、書いてみると少し気持ちが落ち着いた。自分が感じていることを言葉にしてみるのは、きっと大事なことだ。少しずつ自分の頭の中を整理していこう。周りのことを覚えたりするだけじゃなくて。
 自分が自分でいられるように。

「爽太ー、おいでよー」
 再びテオの声が呼んだ。さっきよりも淋しそうに。
 仕方がない。爽太はノートを閉じて、ペンと一緒にこわきへかかえ、寝室に向かった。
「来たよ」
「あーもう遅いよ、爽太」
 ベッドに腰を下ろしたテオは、文句を言いながらも、ほっとしたようだった。イスにノートとペンを置いて、爽太もベッドに座る。
「テオ、ちょっと離れただけで、そんなにわあわあ言わなくていいだろ」
「ちょっとだって? その前に他の部屋でケイナ様としゃべってたじゃないか。そのあいだずっと俺はお前を待ってたのに」
 テオは両手を伸ばし、爽太を抱き上げて自分のひざの上に座らせた。
 子どもの頃、父親のひざの上に座ったことを思い出し、爽太はもぞもぞとお尻の位置を調整する。
「たまにはテオだって、ひとりでぼーっとしたいんじゃないの?」
 ようやくしっくりくる位置を見つけて、軽い調子でそう聞いてみると、テオは顔をくもらせた。
「……前はそういう時もあったよ。でも今は爽太と一緒にいたい」
「なんで」
「オサナゴと一緒にいるほうが落ち着くんだ」
 僕はひとりになりたい時があるけど、と言いそうになって爽太は口をつぐんだ。オサナゴと主は離れてしまうとよくないのだとケイナは言っていたが、今のところ、その影響は爽太よりもテオのほうが顕著に出ているらしい。
 単にテオが淋しがりだという可能性もあるけれど。

 テオが後ろから爽太の髪をなでた。
「きれいな黒髪だね」
「……そういうの、女の人に言う台詞じゃない?」
「どうして? 相手が男でも女でも、年寄りでも子どもでも、きれいだと思ったら言うべきだろ」
「ふーん」
 子どもを慈しむように、テオの手が爽太の頭をなでて、髪の手触りを楽しんでいる。
 爽太は猫のように目を閉じた。
「……まっすぐなこと言うんだね、テオ」

 そのうち、テオは同じような台詞を妻となる女性にささやくのだろう。
 その時、爽太は同じ部屋の中で、ふたりの行為が終わるのをじっと待っていなければならない。
 相手の女性は嫌じゃないんだろうか。

 ひざの上に座っていると、テオの体の動きが伝わってくる。前かがみになって、爽太の背中におおいかぶさっている。
 薄目を開けると、後ろからテオがのぞきこんでいて、その褐色の瞳が慈愛に満ちたまなざしで、じっと爽太を見つめていた。

[第四章 完]