豊かな国の幼き子らよ 05

第一章 迷宮(5)

 オサナゴはこの国の言葉がわかるのだ、と教えてくれたのはケイナだった。
 どういう仕組みかはわからないが、オサナゴはこの国の言葉を、元の世界で使っていた母国語と同じように感じるのだという。だから会話は何の問題もない。確かに爽太にとって、ここの人々の会話は日本語で聞こえた。だからこそ夢を見ているのだと思ったのだが。
「文字も問題ない。しばらくじっと見つめていれば、自然と読めるようになる。今度試してみろ」
 そう言われていたのを思い出したのは、爽太がテオに連れられて(今度は抱き上げられずに済んだ)部屋に戻ってきた時だった。爽太のワンピースと同じような刺繍をあしらった白いハンカチが、ベッドのわきのイスに置いてあったのだ。
「あれ? 何これ」
「陛下のオサナゴからの贈り物だよ。さっき従者が持ってきた」
 テオに言われて、ハンカチを手にとる。金糸の美しい模様とともに、黒い糸で何やら文字のようなものが縫いこまれていることに気づいた。なんだろう、これ。アルファベットに似ているような……。
 じっと見ていた爽太の視界に、ふと変化が起こる。黒い糸の刺繍はぐんにゃりと形を変えて、そこに日本語の文字が表れたのだ。

 豊かな国の幼き子らよ
 我らが祖国の繁栄に
 恵みをもたらす小さき者よ
 我らが王の礎となれ

「え?」
 小さく叫んで思わず顔を上げる。テオが不思議そうに爽太をふり返った。「なんでもない」と答えて再びハンカチに視線を戻すと、黒い糸の刺繍は相変わらず読めない文字をつづっていた。しかし、じっと見つめていれば、やがてそれはゆがんで日本語の文字に姿を変える。
 こういう仕組みか。
 でも、この詩はいったいなんだろう。
「……テオ、ハンカチに詩みたいなものが書いてあったんだけど、これ知ってる?」
 悩むよりも聞いたほうが早いと考えて、爽太はテオに尋ねた。近づいてきてハンカチをのぞきこんだテオは、こともなげに答える。
「あぁ、これ、オサナゴの詩だよ」
「何それ」
「オサナゴに呼びかける詩。お祈りみたいなものかな。陛下の即位式では必ず詠唱するんだ」
 普段、オサナゴは王族とともに迷宮へ隠されて人前に出てこないが、国王の即位式の時だけは式典に顔を出すのだとテオは教えてくれた。詩の一行目を指差して、テオが微笑む。
「『豊かな国の幼き子』ってオサナゴのことだよ。オサナゴは天にある豊かな国からやってくると言われているからね」
「ふーん……」
 自分は二十一世紀初頭の日本から来た。確かに豊かな国だ。きっと貧困や紛争にあえいでいる国の人間は、この世界へ来ることがなかったんだろうな、と爽太は思った。

 レースのカーテンの外はすでに暗い。
 ベッドの足元に隠されていた間接照明が、夜の部屋をやわらかく照らしていた。天井の蛍光灯やLED電球が室内を真っ白に照らし出す現代日本の住宅事情に慣れた爽太にとっては、いささか薄暗く感じられるのだが、電気があるだけマシだと思うことにする。
 これからは、この部屋が爽太の(そしてテオの)寝室になるのだと言われて案内された部屋は、奥のほうでとなりの部屋とつながっていた。ただし、となりの部屋とつながっている入口にも扉はない。
 この迷宮だか王宮だかには、基本的に扉というものが存在しないらしい。爽太が初めて目を覚ました部屋には扉のかわりにレースのカーテンが入口にかかっていたものの、そういうカーテンすらついていない入口が多い。どの部屋の入口にも扉はなくて、前を通りかかった人間は簡単に中をのぞきこめる。さっきトイレに行った時、初めて扉がついているのを見かけたくらいだった(トイレにはペイズリー柄のタイルが敷きつめてあり、元の世界で見慣れた水洗式の便器が爽太を迎えてくれた)。

「となりの部屋は、爽太の部屋だよ」
 テオと一緒にとなりの部屋へ入ってみたが、大人の腰までの高さ(爽太にとっては肩までの高さ)の戸棚とイスと小さなテーブルがある程度だった。とりあえず戸棚の上に、詩がつづられたハンカチを置いておく。この部屋には廊下につながる入口がなくて、外に出ようとしたらいったん寝室を通る必要があった。寝室はテオと同じなので、扉を閉めきって完全に自分ひとりになれる空間というのは(トイレ以外には)なさそうだ。テオが部屋の入口からのぞきこまなければ、プライバシーも保てるのだが。

「明日から少しずつ、爽太にオサナゴの仕事を覚えてもらうんだけど、そんなに難しいことはないよ」
 服を脱ぎながらテオが言う。
「まずはこの環境に慣れてもらうほうが先だしね。とりあえず、爽太はずっと俺と一緒にいればいいから」
「あ、うん……」
 あまり汗をかいていないから耐えろと言われれば耐えられるけれども、お風呂には入れないのだろうか。そう思いながら爽太も服を脱ぐ。考えを見透かしたかのように「明日は夕食の前にお風呂があるからね」とテオが言った。
「お風呂、毎日じゃないんだ」
「二日に一度だよ。いつも夕食の前だから覚えてて。お風呂がある日は、昼寝の時間も短くなる」
「わかった」
 昼寝は毎日するのか。お風呂よりも優先度の高い習慣らしい。
 まだ慣れないなぁと思いながら、爽太はテオに背を向けて下着を履き替える。新しい下着はベッドのわきのイスに置いてあった。服は従者がここに用意してくれるのだという。イスの下には布製の靴が置いてあった。靴紐はなく、目立つところにワンピースと似たような金糸の刺繍がきらめいていた。明日からはこれを履けということらしい。サイズが合うといいのだが。
 裸をさらすのが照れくさくて、下着一枚の姿でそそくさとベッドへ上がり、金糸の刺繍がきらめくシーツの中にもぐりこむ。すぐにシーツをめくって、となりにテオがやってきた。
「新しいことばかりで疲れただろ、爽太」
 枕元にテオが指をふれると、間接照明が消えて部屋は闇に包まれた。
「うん、そうだね……疲れた気がする」
「ぐっすりおやすみ」
「……おやすみ」
 ほどなく、規則正しいテオの寝息が爽太の耳に届いた。

 夢を見ているのだと思ったのに、夢は終わる気配がなかった。どころか、これはまぎれもない現実なのだという感覚がどんどん強まっていく。
 元の世界に戻れないって、これからはオサナゴとして生きていけって、どういう意味だよ。
 ケイナとの会話を思い出し、爽太は眉間にしわを寄せた。テオに聞こえないよう、小さくため息をついて目を閉じる。
 明日からどんな日々が待っているのか、今は知るよしもなかった。

[第一章 完]