豊かな国の幼き子らよ 04

第一章 迷宮(4)

 爽太はケイナのあとについて、すぐとなりの部屋に入る。この部屋も扉がついていないので、その気になれば誰にでも物音や会話が筒抜けだろう。それを気にする様子もなく、ケイナはイスに腰を下ろした。
「爽太も座って」
「……失礼します……」
 どういう言葉遣いがふさわしいのか判断しかねて、ぎこちなく答える。向かい側に座った爽太を、ケイナはまじまじと見つめた。
「爽太、ここに来たばかりで右も左もわからないだろう」
「はい……」
 ふたりきりになったせいか、ケイナはくだけた言葉遣いで話し始める。
「私もこんな見た目だが、陛下のオサナゴだからな。殿下が生まれるよりも前にここへ来た。オサナゴの中では年を食っているほうだ。だからあなたのように新しいオサナゴが出てくるたび、しばらく面倒を見たりするんだよ。この国のことを教えたりだとか」
「……これ、やっぱり夢じゃなくて現実なんですか?」
 爽太の唇からこぼれた声は、思った以上に弱々しい響きをおびていた。ケイナが眉をひそめ、どこか悲しげな微笑みをかすかに浮かべる。
「夢じゃない。私たちは元の世界には戻れない」
「……そん、な」
「過去には元の世界に戻ったやつもいたみたいだな。この国には何百年も前からオサナゴが来ていたんだ」
 ケイナはまばたき、虚空を眺めた。
「だから迷宮の人間は皆、オサナゴの扱いに慣れてる。ここに来たオサナゴは最初、何が起こったのかわからなくて呆然としてるからね。そのあいだに元の世界へ戻れないような処置を施されるんだよ。下着、燃やされただろ」
「燃やされ、ました、けど……あれって本当にそういう意味だったんですか」
「そうだよ。あとは食事をすれば完璧だ。……って、まだ食べてなかったのか」
 あぁ、と軽くため息をついて、ケイナはうつむいた。あわてて爽太は尋ねる。
「食べなかったら大丈夫なんですか? 僕は元の世界に戻れる?」
「駄目だ。元の世界で身につけていた衣服がないと、戻る時の道しるべがない。……あきらめて食べろ」
「えー……」
 飛びつきかけたアイディアをたちまち取り上げられて、爽太ののどから哀れっぽい声がもれた。

 ケイナが着ているワンピースは、色も刺繍の柄も爽太のものとよく似ていた。ただひとつ決定的にちがうのは刺繍の量だ。袖にもたっぷりと金糸で刺繍がしてあって、袖口には絡み合う龍のような模様があしらわれている。その龍の頭を指先で丁寧になでながら、ケイナは言った。
「突然いろいろ言われて混乱しているだろうし、信じられないかもしれないが、これは現実だ。あなたは水の王子のオサナゴとしてこの世界に、この国に来てしまった。服も燃やされた今、元の世界に戻る手段はない。自分に起こったことを受け入れろ。この国でオサナゴとして生きるすべを覚えて、主を支えてすこやかに暮らせ」

 嘘だろ。

 そういえば、この世界では、テオをテオと呼ぶのは爽太だけで、他の人たちは皆彼のことを水の王子と呼ぶのだと、今さらそんなことを思い出した。

 ケイナが去ると、すぐにテオが入口へ顔をのぞかせた。この分では廊下で立ち聞きしていたとしても驚かないなと爽太はぼんやり思う。ケイナの話が飲みこめていくにつれ、爽太は自分が不気味な昔話の登場人物になってしまった気がした。
 友達と同じ顔をしたこの男は、爽太の友達のテオじゃない。
 彼はテオであってテオじゃない。
 彼は自分の手元に来たばかりのオサナゴが元の世界へ戻ってしまわないよう、チョーカーをつけて、着替えさせて、さらに今からこの世界の食事を与えようとしている。死者の国へ来た魂が、死者の国のものを食べて、二度と生き返れなくなったように。そういう神話を子どもの頃に読んだことがある。
「爽太! 早くおいで。食事にしよう」
 この世界のテオが微笑む。爽太はたじろいだ。
「……どうしても食べなきゃ駄目?」
「食べなきゃ死んじゃうよ、爽太。オサナゴだって生き物なんだから」
 部屋に入ってきたテオは、初めて会った時のようにひょいと爽太を抱き上げる。そうして有無を言わさず廊下へ出て、食事が用意してあるとおぼしき場所に向かって歩き始めた。
「テオ」
「うん?」
「オサナゴって、男ばっかりなの?」
 本当に聞きたいことのかわりに、どうでもいいことを尋ねる。テオが楽しそうに答えた。
「そんなことないよ。男の王族には男の子、女の王族には女の子のオサナゴがつくんだ。だから俺や陛下のオサナゴは男なのさ」
「ふーん……」
 廊下を歩く振動が静かに体をふるわせる。爽太を抱きかかえている温かな両腕に、ふと力がこもった。
「言っておくけどね爽太、オサナゴは結婚できないよ。子どもだってつくれない。女の子のオサナゴと仲良くなっても、それだけは忘れないように」
「……はあ? 何言ってんだよ」
 本当に知りたいのは、そんなことじゃない。
 元の世界に戻れないと言われた自分はどうすればいいのか、それが知りたい。
 うつむくと、チョーカーが首元でかさりと小さな音を立てた。まるで首輪のように。

 食事をする部屋は今までで一番広かったが、窓は一番小さかった。小さな間接照明がいくつか壁に取りつけられ、ほんのりと淡い光を放っている。どうやらこの世界には電気があるらしい。
 大きなテーブルには十個前後のイスが並んでいた。食事のしたくをしてあるのは、端っこの席だけだ。いわゆる誕生日席と呼ばれる席と、その左手側の席に、真っ白なお皿や銀色のカトラリーが用意されている。カトラリーの内訳はナイフやフォーク、スプーンだった。洋食だろうか。
 テオは誕生日席に腰を下ろしながら、「そこに座って」と爽太に指示を出した。言われるがまま、左手側の席に爽太も座る。ちょうどテオとはL字型になる配置だった。確かこれは真正面から顔を見ることもなく、かといって横並びで相手の顔が見づらくなることもない理想的な席順だ、と爽太はどこかで読んだ知識を呼び起こす。
 給仕の男性たちがするりと部屋へ入ってきて、ふたりの前に料理の皿を並べる。この世界へ来てから爽太は一度も女性の姿を見ていなかった。ここは王宮だと言っていたし、大奥や後宮やハーレムのように男女は分かれて暮らしているのかもしれない。
 冷菜、何かの肉を焼いたもの、野菜と白くてつるりとしたものを煮たスープが主な料理だった。白いものは餃子やマントウに似ている。お米やパンのようなものは見当たらなかったので、この国では主食の穀物を平たい団子状にしてスープで食べるようだった。
 透明な水をたたえたグラスを手にとって用心深くにおいをかいでみる。アルコールではないらしい。
「それは水だよ。果物のジュースがよかった?」
 おかしそうに笑ってテオが言う。爽太は首をふった。
「ううん、水がいい」
 今の自分は子どもの姿をしているし、それ以前にこんなよくわからない場所でアルコールを飲む気にはなれなかった。飲めるかどうかはともかく。

 テオはスープのボウルのお玉を手にとり、自分のボウルによそい始めた。給仕は部屋のすみっこにひとりだけ控えている。取り皿にとるのは自分でやっていいんだな、と爽太はどこか不思議な気持ちでそれを眺めた。テオは王族らしいし、てっきり高級レストランのように給仕がなんでもやってしまうのかと思ったのだが。
「遠慮せずにいくらでも食べて、爽太。嫌いなものはない?」
「大丈夫……」
 トングで肉や冷菜をつかみ、自分の皿へ盛りつける。いつのまにかテオがじっと爽太の動きを見つめていた。フォークを手にした爽太が、それを食べ物に突き刺して口へ運ぶのを、今か今かと待っている目つき。
 これを食べたら元の世界に戻れなくなるなんて。
 信じたくなかった。今だって心のどこかでは誰かに嘘だと言ってほしくてたまらない。でも、爽太の事情を多少なりとも知っているのはケイナだけだったし、当のケイナには「もう戻れないからあきらめて食事をしろ」と言われてしまった。それを思い出すと、フォークを持ち上げる手から力が抜ける。
 でも食べなかったところで、どうなるっていうんだ。
 香ばしい肉のにおいをかいだ。急にお腹がすいてくる。今これを食べずに我慢したって、明日もあさってもずっと同じ日々が続いていくのなら、この夢にしか思えない世界から抜け出せないのなら、どうしようもないじゃないか。
 肉を口に運ぶ。肉にかかったソースがほんのり甘酸っぱい。びっくりするほどの旨味が口の中に広がって、爽太は初めて自分がとてもお腹をすかせていたことに気づいた。無言で咀嚼して、最初のひとくちを飲みこむ。
 ちらりと右手側を見やると、テオが満足そうに微笑んでいた。
「爽太、おいしい?」
「うん……」
「スープもおいしいよ。よそってあげようか」
「……じゃあお願いします」
 抵抗するのが面倒になってそう答えると、テオはいそいそと爽太のボウルを手にした。まるで子どもの世話を焼きたくて仕方がないお母さんみたいに。