豊かな国の幼き子らよ 02

第一章 迷宮(2)

 テオの周りに何人もの男性たちが来ては去る。何かがあわただしく動いているようなのだが、爽太にはさっぱりわからない。謎かけに似た言葉がいくつも爽太のわきを風のように通りすぎていった。
 テオは爽太を抱き上げたまま歩き出した。いくつもの角を曲がり、壁が途切れて中庭のような空間に出る。四角くて、吹き抜けになっていて、青い空が見えた。それ以外は何もない。その空間を通り抜けて再び屋根の下に入ると、さっきとは趣が変わる。壁の模様はさっきよりも細かくなり、ところどころに金色や銀色の輝きが見えた。こちらの部屋はもっと大きいらしく、入口と入口の間隔がさっきよりも広い。
 爽太は何度もテオに話しかけようと思ったのだが、結局は口をつぐみ、黙ってテオの首にしがみついていた。さっきの反応からして、テオは爽太のことを知らないようだったし、それなのに爽太に対して並々ならぬ関心を持っている。事情がまったくわからなくて不安だ。それにしても、いつになったら自分は夢から覚めるのだろう。子どもになってテオに抱っこされるというのは、なかなか面白い体験だけど。まるでテオが親戚のお兄ちゃんになったみたいだ。
 ふいにテオは、とある部屋の中へ入っていった。あとからついてきた男性たちは誰ひとりとして続こうとしなかった。テオがふり返って目配せすると、彼らは目礼して去ってしまう。
 部屋のレイアウトは、さっき爽太が出てきた部屋に似ていた。色とりどりの模様の壁と高い天井、ガラス窓とレースのカーテン、それから大きなベッドと金糸の刺繍のシーツ。ただし、壁もシーツも、さっきの部屋のものよりずっと模様が細かくて、手間がかかっているように思える。部屋自体も大きい。

 ふたりきりになって、ようやくテオが爽太をベッドに下ろしながら口を開いた。
「座って」
 どう考えてもそのまま座れという意味なので、爽太は恐る恐る下ろされたベッドの端っこに座りこんだ。すると、すぐとなりにテオも腰を下ろす。この距離感、普段は慣れてるんだけどな。爽太は落ち着かなくて手を握りしめた。自分のことを知らない、笑わない夢の中のテオと至近距離で座っているのは、どうにも緊張する。
「俺の質問に答えてくれる?」
 笑わないテオが、彫像のように整った顔で尋ねる。爽太は小さく「はい」と返事をしながらうなずいた。
「名前は?」
「爽太です」
「そうた……」
 テオは反芻するようにつぶやいて、次の質問を口にする。
「自分が何者なのか、爽太はわかっているのかな?」
 多分これは学生ですと答えるべきところではないのだろう。だって変な夢の中だし。自分も子どもになってしまっているし。だいたい今の自分が何歳なのかもわからない。爽太は少し考えてから首をふった。
「やっぱりそうか……」
 テオが目を細める。我慢できなくなって、爽太も尋ねた。思わず丁寧な口調になってしまう。
「あのう、何が『やっぱり』なんですか?」
「俺の真名を知っているのは、自分が何者なのかを知らない、選ばれた子どもだけだよ」
「まな?」
「俺の本当の名前」
 そう言って、テオは爽太の肩に手を置いた。
「テオって呼んだだろ、俺のこと」
「……テオじゃないの?」
「いや、合ってるよ」
 肩に置かれたテオの手が熱い。
「でも、俺はその名前を誰にも教えていない。王族の名前は人に明かすものじゃないからね」
 爽太はぽかんとまばたいた。
「王族? ……テオ、王様なの?」
「王様ではないなぁ」
 そう言ってテオは初めて笑った。
「俺は王様の子どもだよ。そのうちのひとり」
「テオ王子? あ、そうか。だからさっき殿下って呼ばれてたんだ」
「周りには水の王子と呼ばれてるけどね」
 するりとテオの手が肩から離れて、爽太のほおをつまむ。
「もう一度言うけど、俺の真名を知っているのは、爽太みたいに選ばれた子どもだけだから……爽太が呼んだ俺の真名を聞き取ることができたのも俺だけ。俺の真名を知っているのは俺と爽太だけなんだよ」
 突然のことにびっくりして爽太が反抗できないのをいいことに、テオはどことなく楽しそうな表情を浮かべて、爽太のほおをひっぱり、ひとしきり遊んでから指先でやさしくなでた。
「うーん、俺のオサナゴは黒髪か」
「……選ばれた子どもとかオサナゴとか、なんのこと?」
「どっちも爽太のことだよ」
 テオは爽太のほおから手を放し、ぱたりとひざの上に置いた。
「王族には必ず、ひとりひとりに天から与えられたオサナゴが存在する。その子たちは皆、自分が何者なのかを知らず、ある日突然、王宮の中に現れて、自分が仕える王族の真名を呼ぶんだ」
 ここは王宮なのか。それにしては、からっぽの部屋ばかりだったし、部屋には扉がないし、いささか不用心すぎないだろうか。
 爽太がそう伝えると、テオはまた微笑んだ。
「そのうちわかるよ。王宮はとてもとても広くて複雑な構造になっている。今の爽太がいる場所は迷宮の中なんだ。だからね、もう俺と離れちゃ駄目だよ。行方不明になっちゃう」
 爽太は小さくうなずきながら、ずいぶんと大げさな話になってきたなと思った。それにしても、なめらかな日本語を話すテオって新鮮だ。声は本物のテオと同じなのに。テオが日本人だったら、こんなふうに会話ができたのだろうか。

 しかし、爽太にはそれ以上ごちゃごちゃと考えている暇などなかった。おもむろにテオが手を伸ばして、どこから出したのか、金糸の刺繍がきらめく黒いチョーカーを爽太の首に巻いてしまったからだ。
「ちょっと、何これ」
 後ろへのけぞって逃げようとしたが、首に巻かれたチョーカーごと引き戻される。かちゃりと小さな音を立てて、それは爽太の首元に固定されてしまった。
「はーい、これで爽太は正式に俺のオサナゴだよ」
「待ってテオ、なんでこんなもの首につけたの?」
 チョーカーをつまんで文句を言えば、テオはどこかに書かれた文章を暗唱するような口調で、こう言った。
「自分が仕えるべき王族を見つけたオサナゴは、その王族の手によって首に契約の輪をつけることになっている。契約の輪によってオサナゴは自分の主(あるじ)につなぎとめられ、王宮の中で飼われる」
 途中から急に不穏な単語が混じり始めた。爽太は顔をしかめる。目の前のテオは、あまりにも自分がよく知っている現実のテオと同じ顔なので、だんだん警戒心が薄れてきた。吐き出すように問い返す。
「あるじ? 飼われる? ……はあ?」
「だって爽太に何かあったら大変だろ。厳重に保護しなきゃ。……オサナゴは不思議な能力があるんだ。主の心を癒やし、病を遠ざける。爽太にはこれからずっと俺のそばで、俺を支え続けるっていう大事な役目があるんだよ!」
 テオはそれまでの落ち着いた態度が嘘のように、ぱあっと破顔して爽太を抱きしめた。突然の変貌に爽太はついていけない。
「あーもう、ずっと待ってたんだよー! 俺のオサナゴ! これからよろしくね、爽太!」
「え、いや、あの、テオ……あの……えー……?」
 首にチョーカーをつけられ、丈の長いワンピース姿でベッドの上に座りこんで、テオに抱きしめられた爽太はただただ困惑していた。どうしよう。この夢、まだ終わりそうにない。それにしても本当にリアルな夢だな。体温まで感じ取れるし。
 ……これ、夢なんだよね?

 爽太は学生だった。そして、テオは爽太と同じ大学に通う留学生の知り合いだった。
 最初の出会いはよく覚えていない。おおかた誰かの家で鍋をした時に知り合ったのだと思う。テオは陽気で、ひどくスキンシップが好きな男だった。爽太はいつも、自分が女の子だったら完全にセクハラだろうなと思いながら、べたべたと親しげに抱きついたり肩に手を回したりするテオの相手をしていたものだ。やりすぎだと思ったら引きはがしたし、別にこの程度ならいいかなと思えば放置していた。

 他の人に聞いたところによれば、テオの母国では男女で別行動をとることが多く、友達と遊ぶ時も同性だけで集まるし、お見合いで義務的に結婚するから恋愛もあまり盛り上がらないということだった。その分、同性の友達とはいつも非常に親しくすごして、スキンシップも多くなるらしい。
「昔は他の国でも似たようなもんだったよ」と、爽太に教えてくれた文学部の知人は言ったものだ。
「たとえば『赤毛のアン』だって男女はあまり親しくなろうとしないし、一方で同性の仲がいい友達とは恋愛関係みたいになったりしてるだろ? 他の友達と仲良くしてるのを見て嫉妬したりさ。親友のダイアナが将来結婚したら悲しい、と言ってアンが号泣するシーンもあるんだよ」
 この場合、自分がダイアナで、テオはアンだろうかと爽太はどうでもいいことを思った。

 テオとの会話は基本的に英語だった。テオにとっても爽太にとっても英語は外国語だったので、そのほうが公平だったということもある。お互いに母国語ではない分、単純な文法で率直な言い回しをすることができて要求も伝えやすかった。ただ、ここは日本だったから、たまに日本語も混じっていたけれど。
 ふたりの仲の良さを「まるでゲイだな」と揶揄する心ない人もいたが、それをたしなめてくれる人のほうが多かったし、留学生たちはテオの母国の慣習を知っていたので何も言わなかった。

 しかし、テオが夢の中に出てきて、こんな世界観を語りだすなんて、なかなか壮大な設定だ。ひょっとすると自覚している以上に爽太はテオと仲良くしすぎたのかもしれない。テオが王族で、自分はその王族に……飼われる? なんだその設定は。どういう夢だ。