沈んだ月の中から 10:存在しない家族

 空を飛び、ベランダに軽い音を立てて着地する。
 窓を開けながら靴を脱いで部屋に入り、壁際の箱に放りこんだ。本当はベランダに出しっぱなしにしておきたいけど、雨に濡れたら面倒だ。かといってわざわざ玄関でもない場所に靴箱を置く気にもなれないので、スニーカーを買った時の箱を残しておいて、いつもそこに片づけている。
 頭の後ろに手をやり、髪を束ねていたヘアゴムをとった。ぐしゃぐしゃと片手でひっかきまわす。
 私の頭上で回り続けていた緑の輪が、すうっと消えていった。

 リビングに行くと、オーナーが優雅に夜のお茶を楽しんでいた。
「ただいま」
「ヒカリ、おかえりなさい」
 オーナーのおだやかな顔を見ていると、たまに母親みたいだと思う。私はひょいと彼女の手元をのぞきこんだ。
「何飲んでるの?」
「ココア。ヒカリも飲む?」
「飲みたい」
「じゃあ、いれてあげる。お仕事してきたんだものね」
 微笑んだオーナーが席を立つ。その整った手が次々に必要なものを取り出して並べていく。私が好きなマグカップに、温かみのある色で包まれたココアパウダーの缶と、銀色に輝くティースプーン。

 ふかふかのフェザークッションをひょいと持ち上げて、ソファに座った。向かい側で、マグカップにお湯をそそぎながら、オーナーが口を開く。
「今日は、どんなふうにしたの?」
 私はフェザークッションを抱きしめ、その上にあごを載せて答えた。
「……ラプンツェルの部屋の窓ガラス、割ってやった」
「強行突破したわけね」
 オーナーの口元は愉快そうに笑みを刻んでいる。
「そこから部屋に入ってさ、廊下に出たら、他の部屋から出てきたラプンツェルとばったり」
 私の前に、ココアの入ったマグカップを差し出しながら、オーナーがいたずらっぽく首をかしげた。
「おどかした?」
「脅迫した覚えはないけど」
 とぼけて答えを返し、静かに息を吹きかけて、まだ熱いココアに口をつける。
「……でも、ゆさぶりをかけることはできたと思う。今頃は沈月とわあわあやりあってるんじゃないの?」
「ふふ」
 腰を下ろし、再びココアの残りを飲み始めたオーナーは、目を細めて笑っている。
「ケイくんは本当に彼の支配下から出られるのかな。そもそも出たいと思ってるのかどうか」
「えー」
 私は眉間にしわを寄せた。
「だって気持ち悪くない? 沈月って。常に監視つけて家の外では部下に盗撮させて、ラプンツェルのことを愛人だーとか言ってさ。それでまぁ本当にそういう関係だったんなら、ぶっちゃけ私の趣味じゃないけど、そういう人たちもいるよねーとは思うよ。やばい仕事してる人の愛人ってそんなイメージあるし。でもさ、まったく肉体関係も恋愛感情もないのにそういうのって、気持ち悪くない?」
「健全とは言いがたいね」
 オーナーの落ち着き払った声が答える。
「でもヒカリ、オーナーと能力者の関係に正解なんてないんだよ」
 口の中に広がるココアの甘み。
 オーナーの言葉が、じんわりと耳に届く。
「私たちはカップルでも家族でもないのに、カップルや家族みたいな運命共同体になってしまうし、おおっぴらに言えないことも多いから」
 ふと足元をすくわれた気がして、かすかに胸が冷える。それでもココアは温かくて甘かった。

 そういえばAndroidのスマホ壊しちゃったから、また新しいの買いたい。
 オーナーにそう伝えると、困った子ね、という微笑みが返ってきた。どうして私が壊してしまったのかは聞かない。
 いつだってオーナーは優雅で落ち着いていて、スーツが似合う大人の女性で、(実際に舞台を見たことはないけど)宝塚の男役みたいで、眺めていても見飽きない。私と一緒に暮らして、私を養って、私に生きる意味を与えてくれる。スマホを買う時は、未成年の私のために保護者の同意書を用意してくれる。
 オーナーは私に衣食住と、人を殺す仕事をくれる。
 余計な詮索はしない。お互いに。
 家族みたいだけど家族じゃない。だけど運命共同体。少なくとも今のところは。

 壊さなかったiPhoneを手にとって、適当にスクロールしながら、きれいな画像をいくつも流していく。
 沈月のラプンツェル、三島ケイはここにはいない。彼はネットのどこにも、SNSのどこにも存在しない。オーナーの管理を嫌がってアナログの世界で完結している彼は、きっと能力者のことについてもほとんど知らないだろう。あの沈月がちゃんと教えているとは思えないし、どこまで事情を把握しているかも怪しいものだ。ラプンツェル個人にしか興味がないかもしれない。
「私だってわかんないことのほうが多いけどね」
 あまりにも能力者の人数が少なすぎるから。そして、人前では言えない暮らしをしているから。オーナーに庇護されて、見返りに能力を使って仕事をする。情報を集めたり、オーナーの敵を妨害したり、殺したり。

 それでも、知っている人は知っている。その中からオーナーを選んで生きていく。私はラプンツェルじゃないから、嫌なことをされたら歯向かうし、その気になればオーナーの体を破壊できるし、契約を解消して新しいオーナーに乗り換える。ラプンツェルとちがって、私にはその能力がある。次のオーナーだって探せる。夜の闇の中で頭上に輝く緑の輪、それだけでいい。わかる人にはわかる。
 少なくとも彼よりは自由だし、彼よりも快適に生きている。きれいな画像をたくさんスマホで眺めて、ふかふかのフェザークッションに埋もれて、オーナーがいれてくれたココアを飲んで、買い物を楽しんで。

 でも、私は身寄りを持たないただの十代の少女にすぎないし、ラプンツェルは身寄りを持たない二十代の青年にすぎないし、どっちのオーナーも自分の家族じゃないし、普通の保護者じゃないんだ。
 わかりきったことなのに、まだ心の底のどこかで納得しきれていないのは、私が若すぎるせいかもしれない。