放浪の巫女と狼 08

第三章 辺境の狼

職人ヴェシックの記録

 私ヴェシックは、天と地を結ぶ聖なる水に誓い、この目が見たまま、この耳が聞いたままのことをお話しいたします。
 私は家具や食器を直す職人でございまして、辺境の土地を流しております。あちらこちらの村の長の家へお世話になりますと、村の人々がひっきりなしに、テーブルの脚を直してくれだの、欠けた食器を元に戻してくれだのと訪ねてきます。私は人々の家へ行ってそれを直しまして、夜は村の長の家へ戻ります。何日か滞在しまして、あらかた直し終わったなと思いましたら、また別の村へと旅に出る、そういう暮らしでございます。
 せんだっての夏は、北の山脈の近くまで足を運びました。異教徒の住む土地に近いところは、あまり行商人も職人も通りませんから、私のような者にとっては実入りがよろしゅうございます。とは言いましても、やはり不安はありますので、なじみの村を探して訪ねてまいりました。

 その村のはずれには、しばらく前から巫女が住んでいるということでございました。神殿の外に、それも辺境の村のはずれに巫女がいるなどと、にわかには信じがたい話でしたが、村の長はいたく敬服しておりました。
「あの巫女様は、神殿へ詣でることのかなわぬ我々のような者のために、神殿での暮らしを捨てたのだそうですよ。我々と同じものを食べ、すきま風の入る粗末な小屋に寝泊まりされて、日夜、祈りを捧げていらっしゃるのです」
 さらに驚くべきことは、巫女のそばには常に巨大な狼がいるという話でございました。巫女が狼を連れてこのあたりへ現れた頃、村の人々は大いに恐れたそうですが、巫女はこう告げました。「この狼は人の言葉を理解し、私に従う。私に危害を加えぬ限り、この狼は誰にも危害を加えない」と。
 村人たちによれば、この狼、しょっちゅう北の山脈のふもとへ行っては、誰も近づけない森の奥深くで狩りをして、巫女のために獲物の肉を捧げているのだというのです。時折、巫女が村を訪れて、獲物の角や皮を穀物や衣服と交換していくのだそうです。
 村人たちは口々に、あんな大きな狼は見たことも聞いたこともない、と語りました。それなのに、狼は誰を攻撃することもなく、うなり声ひとつ立てず、まるで忠実な猟犬の如く巫女に従っている。あまつさえ、巫女のために狩りをして生活を支え、すきま風で凍えそうな冬には、巫女の風よけとなっている。あの巫女様は聖なる力をお持ちなのだ、だから狼ですらも従うのだ、と誰もが熱心に語っておりました。

 私がその村におりました頃、うわさの巫女と狼の姿を目にすることはございませんでした。巫女が村へ姿を見せる日は決まっておらず、来ない時は何週間も来ないのだそうです。
 その後、いったん村を離れまして、秋の初め頃、南へ向かう前に再び村へ寄りましたところ、あの巫女と狼は別の村へ行ってしまったという話を聞きました。辺境には、他にも似たような境遇の人々が大勢住んでいる、だからあちらこちらの村へ住んでしばらく祈りを捧げては、また別の村へ向かうのだと言っていたそうです。
 まさか、その巫女がカノーイ様のことであったとは、私も非常に驚いております。旧都の方では、カノーイ様の話で持ちきりだそうですが、辺境にはまだ話が伝わっておりません。あの村でカノーイ様をお見かけできていたらと、つくづく残念に思われます。

村娘フェスの記録

 私フェスは、天と地を結ぶ聖なる水に誓い、この目が見たまま、この耳が聞いたままのことをお話しいたします。
 私の村のはずれに、ほんの数ヶ月だけ、巫女カノーイ様が住んでおいででした。他の村ではどうだったか知りませんが、私の村は小さかったこともあって、巫女様もちょっとだけ気を許して下さったのだと思います。巫女様はよく外を出歩いていらして、祖母の手伝いで薬草を探しにいくと、巫女様が狼とともにいらっしゃる姿をよく見かけました。それはまるで、大きな町の宿屋に飾られている絵のようでした。

 私が覚えているのは、巫女様の狼が、まるで狼ではないようなふるまいをしていたことです。
 もちろん他に本物の狼を見たことはありません。でも、巫女様の狼は、巫女様に対してとても親しげな態度をとりました。犬が飼い主に尾をふるように、大きな尾をふって、常に巫女様につきまとっていました。きっと普通の狼は、そんなことをしないでしょう。
 狼は、どこか巫女様に甘えているようでした。大きな体を起こして、首を伸ばし、巫女様の顔をなめているところも一度だけ見たことがあります。巫女様は恥じらうように笑って、狼の顔をやさしくなでていらっしゃいました。そんな巫女様は少女のようでした。本当に巫女の方々は年をとらないのだと思ったことを覚えています。時には、私よりも年下のようにすら見えました。

 こういう言い方が不謹慎であることは承知していますが、まるで将来を約束した恋人同士のようだと思いました。きっと、あの頃の私が恋人の存在にあこがれていたからだと思います。あんな風に信頼しあって、そばにいられる相手がほしいと、当時の私は心ひそかに感じていたのでした。もちろん巫女様と狼ですから、何も起こるはずがありません。ただ、巫女様と狼は常に一緒でした。
 あとで町から伝わってきた巫女様のお話を聞いた時は、巫女様をお守りする気高き狼という風に言われていたのですが、私が目にしたのは、巫女様を慕って寄り添い続ける狼と、そんな狼にやさしく話しかける巫女様の姿でした。

農婦カルナリエの記録

 私カルナリエは、天と地を結ぶ聖なる水に誓い、この目が見たまま、この耳が聞いたままのことをお話しいたします。
 狼を従えた巫女カノーイ様が、私の住む村を去ってしまわれたのは、私がまだ子どもの頃のことでした。幼かったので、もう忘れてしまったことも多いのですが、ひとつだけ、ずっと覚えていることがあるのです。

 ある夜のこと、私は母に叱られて、戸口に立たされていました。何を思ったのでしょう、その時の私は夜の恐怖に打ち勝って、我が家を離れ、村のはずれへと走っていったのです。カノーイ様になぐさめてほしかったのかもしれませんし、私がいないことに気づいて母が心配すればいいと思ったのかもしれません。
 ですが、カノーイ様の住む小屋の明かりが見える頃には、興奮も冷めてきて、どうしたものかと途方に暮れました。小屋を訪ねる勇気がなかったのです。でも、すぐに家へ戻る気にもなれず、私は小屋の近くにあった木の陰に座りこみました。
 そうしていると、なんとカノーイ様が小屋の外に出てこられたではありませんか。カノーイ様は戸口の前に腰を下ろし、星空を見上げていらっしゃいました。その横には、まるで影のように狼が寄り添っていました。
 そして不思議なことに、小屋の方から、知らない男の声がしてきたのです。
「この次は、どこへまいりましょうか」
 私は気配を立てないように、そっと周囲を見渡しましたが、私とカノーイ様の他には誰もいません。気のせいだろうかと思ったその時、カノーイ様のすぐそばから、再び男の声が聞こえてきました。
「お望みとあらば、すぐにでも北へお連れいたします」
「お前の故郷にか」
 そう答えたのは、カノーイ様でした。男の声が低くささやきます。
「この国にいる限り、あなたは追われ続ける」
「だが、今しばらくは、ここにいたいのだ。それに……この国を離れて、巫女に何ができる? 女としても男としても生きられぬのに」
「私がおります」
「……お前は変わらないのだな」
「私を目覚めさせたのは、あなたではありませんか」
 カノーイ様と男の声との会話が、つかのま途切れました。私は自分の見聞きしているものが信じられず、ただ必死に気配を殺して、まるで夢を見ているような気持ちで、その会話を聞いていたのです。
 再び男の声が聞こえてきました。ゆったりとくつろいで家族と会話をしているような声音でした。
「カノーイ様が私を受け入れて下さったのは、私が狼だからなのでしょう」
「不思議なことを言う」
「もしも私が普通の男であったなら、カノーイ様は私を遠ざけたはずです。清らかな、汚れなき巫女なのですから。でも、今の私は狼だ。もう人間の姿になることも、ほとんどなくなってしまった……あなたがそれを望まれたからです」
 カノーイ様の声は聞こえません。かわりに、男の声がこう言いました。
「それがあなたの望みなら、私は死ぬまでそうするでしょう。誰よりも忠実な狼として。あなたが私だけの巫女でいて下さるのなら……」
 カノーイ様の声が、ささやくように答えました。
「……私とともに生きるのは、お前のような狼の他に、誰もいない」
 ふいに狼は身を起こし、犬がじゃれつくように、カノーイ様の体へと頭をこすりつけました。カノーイ様は狼の頭をなで、すっと立ち上がって小屋の中へと戻っていきます。狼も中に入っていき、私は目を覚ましたようにはっとして、あわてて自分の家へと駆け戻ったのでした。
 あれがなんだったのか、今も私はよくわからないのです。本当に夢を見ていたのかもしれません。ただ、自分の中で何度も思い返すうちに、もしかするとあの狼は人の言葉を話せたのではないか、カノーイ様は狼と話をしていたのではないか、と思うようになりました。

 それから半年ほどたった頃でしょうか、カノーイ様は私の村を離れてまた旅に出るとおっしゃいました。どちらへ行かれるのですかと村の長が尋ねると、今度は北の山脈へ行くのだ、異教徒の土地であっても狼がいるから大丈夫だとおっしゃったのです。
 村の人々は皆、心配していましたが、辺境を定期的に「神の兵」の集団が巡回していて、カノーイ様が見つかってしまうのではないかと案じたことも何度かありました。カノーイ様が「邪悪な者」の手で汚されそうになり、その人間に天罰が下ったという話は、その頃には辺境の村にも広まっていました。神殿はカノーイ様を連れ戻そうとしていましたが、私たちはカノーイ様がお望みでないことはするまいと考えて、口裏を合わせ、カノーイ様の存在を隠し通してきたのです。きっと、カノーイ様は隠れ続けることにお疲れになったのだろう、と私の母は言いました。だから北の山脈へいらっしゃるのだろうと。
 私は、あの夜に聞いたカノーイ様と男との会話を思い出しましたが、子ども心に、これは聞いてはいけない話なのだと思いました。ですから胸の奥底にしまって、誰にも話さずに今日まで生きてまいりました。あれから長い時が流れましたが、今も北の山脈のどこかにカノーイ様がいらっしゃると私は信じておりますし、カノーイ様に聖なる力の加護がありますことを願ってやみません。

[第三章 完]