放浪の巫女と狼 07

第二章 神殿の猫(2)

 その夜、獣のような男に警戒心を抱いていた猫は、男のにおいから離れた場所を求めて、「神の兵」たちのもとを訪れた。当番の者が夜の警備に出ていったあと、非番の者たちは少し広い部屋に集まり、神殿の中でつくられた特殊な酒をちびちび飲みながら、次の儀式に備えて武器の飾りの手入れをしていた。
「おや、猫だな」
「へえ、珍しい。猫や、眠れないのかい」
「俺のところにもおいでよ」
 猫が体をすり寄せると、「神の兵」たちは相好を崩して、猫のふさふさした毛並みをなでてやった。そのうちのひとりが、猫をなでながら、ふと顔を上げる。
「そういえば、ミライノの墓に今日、あの巫女が来ていたぞ」
「あの巫女?」
「ミライノと親しかった巫女だ。ほら、ずっと辺境を旅している……」
「あぁ……確か、カノーイだったか」
「そう、その巫女だよ」
 慣れた手つきでなでられて、猫は気持ちよさそうに目を閉じる。その頭上で男たちは、例の巫女にまつわる会話をかわした。
「まだ旅をしているのか」
「今の神官様がいらっしゃる限り、戻ってはこないだろうよ」
「どういうことだ?」
「……お前は知らなかったんだな。いいか、この話は大声で言うなよ」
 年長の男が声をひそめる。
「神官様は、まだ若い頃にカノーイを見初めて、王位継承権を捨てたという話だ」
 毛並みをなでる手が止まってしまい、猫は何事かと目を開く。おだやかならぬ話題に、男たちは顔を寄せあった。
「巫女に懸想して神官になったと? 馬鹿な」
「だが、神官様はやたらとカノーイのことを気にかけていらっしゃったとか。人目を避けてふたりが言い争っていたという話もある。……カノーイが旅に出たのもその頃だ」
 しん、と部屋の中が静まり返る。
「……神官様から逃げるためだったんじゃないのか」
「まさか、巫女に……なんと恐ろしいことを」
「しっ、めったなことを言うもんじゃない」
 他の男が口を挟む。
「そういえば、神官様はミライノに少し冷たいご様子だったな。回廊で出会っても無視なさったり、ミライノを儀式からはずしたり……」
「俺も似たような場面を見たぞ。彼がカノーイと親しかったからか?」
「ミライノが……」
 息を引き取ってから半年もたっていない仲間のことを思い浮かべ、男たちは口を閉ざした。猫は動きの止まった手からするりと抜けだして、年長の男の足元に身を寄せる。彼は猫を抱き上げると、ひとりごとのようにつぶやいた。
「……やんごとなき王家のお方が、地位も財産も男の機能もすべて捨てて神官になろうだなんて。よほど人生に絶望していらっしゃるか、もしくは天罰をも恐れぬ不埒な狙いをお持ちなのか、どちらかだろうよ」

 その夜明けのことを、猫はあまり覚えていない。
 神殿の奥深く、どすんばたんと大きな音がして、ひとつの寝室の扉が砕けるように吹き飛んだ。神殿の屋根から小鳥たちが一斉に飛び立つ。驚いて起きた巫女たちが幽鬼のように寝室からさまよい出る。それを蹴散らさんばかりの勢いで、「神の兵」たちは武器を構えて音のした方へ駆けていった。巫女の寝室が並ぶ回廊の一角に、破片が飛び散っている。
 そこには黒髪を乱した巫女カノーイと、黄色い目を光らせた巨大な灰色の狼が立っていた。自分たちよりも大きな狼の姿に「神の兵」は驚きを隠せなかったが、カノーイは胸元を抑えながら狼に近づき、その首に腕を回して、なだめるようになでた。
 吹き飛んだ扉の残骸とともに、あたりには血が飛び散り、ひとりの男が回廊の床に転がっていた。衣は裂け、血まみれになって、かすかにうごめいている。
「神官様!」
 そこにいた巫女の誰かが叫び、ようやく人々は転がっている男の正体に気づいた。だが、何人かの巫女が助けに走ろうとした刹那、狼が怒りのうなり声を上げ、彼らは恐怖に固まってしまった。

「邪悪な者よ」
 ふと、カノーイが口を開いた。ふるえながらも、よく響く声で聖典の一節を唱える。
「清浄な巫女を汚す者よ、
 聖なる力を信じぬ者よ。
 そなたはまつろわぬ民、
 最初の巫女を敬わぬ者。
 邪悪な者に、
 天の怒りを」

 人々は驚愕した顔で、転がっている男に目をやった。カノーイが唱えたのは、最初の巫女が純潔を汚されそうになった時に放った言葉であり、血まみれの神官が何をしようとしたのかは明らかだったからだ。
 狼は体をゆすり、黒いもやのようなものに姿を変え、みるみるうちに回廊の天井まで広がっていった。人々は自分の見ているものが信じられず、ただ口の中で祈りの言葉を唱えるばかりだった。
「ヤナン!」
 カノーイが短く叫ぶ。黒いもやのようなものは、さっと舞い降りてカノーイを包みこむと、突如巻き起こった突風に乗って、暁の空高く飛び去っていった。

 その夜明けのことを、猫はあまり覚えていない。
 神殿の一角に雷が落ちて、火災を起こしたからだ。人々はあわてふためき駆け回り、猫も安全な場所を求めて右往左往した。
 火が鎮まり、焼けた区域の再建に向けて人々が動き始めた頃、神殿の中でひとつの葬儀が営まれた。火災の直前に亡くなった神官を悼む儀式は、故人の身分にしてはずいぶんと質素であわただしいものだった。
 猫にとってはどうでもいいことだ。神官が巫女を汚そうとした「邪悪な者」として葬られたことも、王家が必死で神官の醜聞をもみ消そうとしたことも、それでもうわさが神殿の外へ漏れていくのを止められなかったことも、恐ろしい狼に守られていた巫女カノーイを神聖視する声が上がり、神殿が探索のために「神の兵」を辺境へ遣わしたことも。
 猫はただ、獣のような男が神殿からいなくなったことを喜び、暖かな日の光を浴びて、思う存分にうたたねをしただけだった。

[第二章 完]