放浪の巫女と狼 06

第二章 神殿の猫(1)

 その猫は神殿の奥深くに棲んでいた。
 人々は、この地に住み始めた頃から、穀物倉庫に忍び寄るねずみを憎んでおり、ねずみ退治のために猫を飼っていた。神殿が築かれた際にも、巫女とともに神殿の奥深くに住まう数少ない生き物として、猫は選ばれた。人々が額に汗して得た食べ物を、ねずみやその他の災厄によって奪われてしまうことのないよう、祈りの象徴として。そしてもうひとつ、聖なる力の器となって、神殿の儀式に役立つように。
 巫女ほど長くは生きられないが、神殿の中に閉じこめられた猫は普通の人間と同じくらい生きた。常に何匹かの猫が神殿の中にいて、死ねば神殿の中に葬られ、新たな猫が神殿の外から迎えられる。神殿の猫の数は、聖なる秘密につらなるものとして、神殿の中の者しか知らなかった。

 その猫は三十年近く生きていた。今から二十年ほど前、ひとりの王子が王位継承権を失うことと引き換えに、俗世との橋渡しをする「神官」として神殿に住み始めた頃のことも知っている。王子が親族の縁を断ち切って、神殿の住人となるための儀式を、猫はあくび混じりに眺めていた。
 新たな神官は、第三王妃の末の息子だった。王家の人間、それも王位継承権を持つ人間が、神殿の住人となることは非常に珍しく、野心のある者にとっては終身刑に等しい処遇であることを、当然ながら猫は知らない。だが、当の神官は実に晴れやかな様子で、待ち望んでいた地位を手に入れて期待に胸をふくらませている風情だった。灰色の目が、聖なる水のきらめきを映して輝く。
 神殿の中庭で小鳥が鳴く。末の息子を神殿に奪われると知って、第三王妃は卒倒したのだと。だが、王子は自らその地位を望み、神殿に住まう者のさだめとして、自らの子種を殺す毒薬をあおり、巫女に似た「性別のない者」となったのだった。なぜ王子が世捨て人となることを望んだのか、その理由を猫は目にすることとなる。

 ひとりの巫女が、神殿の中庭を通りかかった。すると、向かい側から神官が現れて、カノーイ、と巫女の名を呼んだ。かすかに眉をひそめながら巫女は立ち止まる。ちょうどその時、猫は中庭を囲っている壁の日陰にうずくまってうたたねをしていた。
 ふたりは声をひそめて言葉をやりとりしていたが、ふいに巫女が、何か払いのけるしぐさをした。細く開いた猫の目に、こわばった巫女の顔が映る。
「殿下、お控え下さい。私は巫女でございます」
「私はもう王子ではない。神官となって、かつての身分も、血統を残す能力も、王家の宝を相続する権利も捨てたのだ」
 神官の声音には、神殿の住人からは聞いたことのない、やわらかく真綿で首を絞め上げるような響きが満ちていた。猫はもう少し目を開ける。巫女は硬い表情のまま少し黙ったのち、低い声でゆっくりと答えた。
「あなた様はわかっていらっしゃらない。生まれながらに巫女として選ばれた者が、どう生きるのか。ご存じないから、そのようにおっしゃるのです」
 何か答えようとした神官に、巫女はかすかに手を挙げて制止しながら、なおも続けた。
「巫女は神殿に捧げられて生きるもの。普通の人々のように誰かを愛し、愛されて生きるものではないのです。神殿の中でも、あなた様はまだ俗世の考えを持っていらっしゃる。神官になってもまだ王族のようなことを考えていらっしゃる。でも私は巫女です。あなた様が求める俗世の理を受け入れることはできません」
「カノーイ」
「失礼いたします」
 巫女は風のように去り、神官が中庭に残された。しばらく立ち尽くしたのち、彼はのどの奥で妙な笑い声を上げた。猫には気づかない様子で、神官はそのまま満足そうに歩み去った。

 ほどなくして、カノーイと呼ばれていた巫女の姿は見かけなくなった。どうやら神殿からいなくなってしまったらしい。
 猫にとってはどうでもいいことだった。巫女たちが交代で与えるえさを食べ、他の猫とあいさつをかわし、たまに「神の兵」がいる場所へまぎれこんでたわむれ、日だまりや日陰で眠り、儀式の場に座らされ、神殿の力で引き延ばされた長い寿命を生きる。
 そうして長い日々を暮らした。

 数年後、猫は神官が上機嫌で歩いているのを見かけた。神官のかたわらには、砂のにおいのする衣服をまとったカノーイが、硬い表情でうつむきがちに歩いていた。
「辺境をさすらって、わざわざ汚れるような真似をするなんて」
 神殿の回廊に、神官の足音が響く。カノーイの足音はごく静かで、神官の足音にまぎれて消えていった。
「それでも君は美しいままだね。汚れた服を着ていても変わらない。初めて会った時から、ずっと」
 カノーイは答えない。神官から視線をそらしていたカノーイは、ちらりと猫に目をとめた。そして歩み去った。

 さらに十年後、再び猫は神官とカノーイを見かけた。やはりカノーイは古びた服を着ていて、その歩みとともに、はるか遠くの土地から運ばれてきたとおぼしき砂のにおいが、かすかに漂ってくるように思えた。
 神官はごちそうの皿を前にした子どものように、どこかうずうずしている様子だ。実際、彼らは食事の席へと向かっている途中だった。
「巫女は俗世を断って、神殿の奥深くに住まうからこそ、いつまでも若々しく長く生きる。なのに君ときたら、ずっと神殿の外をさすらっているのに、まるで老ける気配がないのだね。神殿の中にいる他の巫女と遜色ない」
 神官はうれしそうにそう言いながら、何度もカノーイの顔をちらちらとのぞき見る。カノーイはたった一言、こう答えた。
「私は巫女ですから」
「そう、その通りだとも。だから私はこうして神官になったのだ」
 やわらかな声で神官がささやく。カノーイの言葉には、神官が望んでいる答えとは別の意味がこめられているようだった。

 そして今、猫はまたカノーイの姿を目にした。
 今度は何かが変わっていた。カノーイからは砂のにおいだけでなく、獣のにおいがした。本能的に危機を察した猫は、いつでも逃げられるように立ち上がりながら、じっとカノーイの背後に視線をそそいだ。そこには見慣れない男が立っている。
 神官も上機嫌とは言いがたい表情だった。かすかに笑みは浮かべているが、どうやら腹を立てているらしい。やわらかな声音にいらだちをにじませて、こう言った。
「君が従者を連れているなんて、珍しいね。すぐに彼の分の寝台を用意させるよ。……早く言ってくれたらよかったのに」
 カノーイは少し青ざめたまま、突き放すように答える。
「私がひとりでないことは、とっくにご存じだったはずです」
 神官は答えず、カノーイの背後に立つ男へ顔を向けた。猫は毛を逆立ててその男を見つめる。武器をふりかざして訓練に励む「神の兵」よりも、儀式の場で炎を操る祭司長よりも、ただそこに立っているだけの男の方が、はるかに恐ろしかった。あれは危険なものだ、と猫の中で声がする。
 男は足首まで隠れる衣に身を包んでいた。猫が今までに見たことのない、黄色い目をしている。灰色の長い髪を後ろで束ね、けわしい顔で神官を見返していた。彼のまなざしを微笑んで受け止めながら、神官が言葉を発する。
「……確か、ミライノの養子を従者に連れていると聞いていたが。まだ少年だという話だったのに、どこで大人と入れ替わったのかね」
「彼がミライノの養子です」
「はっ!」
 神官は一喝するように短く笑う。
「なんと、それでは数ヶ月で大人になったというのかい? 今回の旅では、ずいぶん冗談を覚えたようだね、カノーイ」
 カノーイの背後の男が、初めて口を開いた。
「いいえ。数ヶ月ではなく、一晩で成人したのです」
 大きな獣が牙の生えた口を開いて威嚇したように思えて、猫はますます警戒しながら、男にぴたりと視線を合わせた。男の威嚇は、神官にも通じたらしい。神官は少し目を見開き、そして蔑みの混じった冷たい笑みを顔に刻んだ。
「ずいぶん大胆な口をきくのだね、この男は。カノーイ、君はこの男に何を教えたのだ。それとも、この傲慢な態度にすっかりやられてしまったのか?」
「何をおっしゃっているのか、わかりかねます」
「ならば教えてやろう」
 神官は男を見すえた。
「カノーイ、私は君がひとりになることを望んでいるのだよ。旧都に詣でることがかなわぬ辺境の人々のために、君が旅を続けて各地で祈りを捧げているのはよく知っている。だが、できればこの神殿に戻って務めを果たしてほしいと思っているし、清らかな巫女である君が、他の人間と交わりを持つことは、君のためにならないと思うがね」
 刹那、男が黄色い目を光らせて、猫はたじろいだ。目が光る人間など見たことも聞いたこともない。
 男は静かに口を開いた。
「カノーイ様は、悪意を持つ者に狙われておいでです。その身を守るために、私を従者として下さったのです」
「ほう」
 神官がうなるように声を上げ、カノーイは少し身じろぎした。
「私の知らぬところで、そんな恐ろしい目に遭っていたのか」
「生きながら燃える鷹を、カノーイ様のもとへ送りつける者がおります」
「それはそれは……」
 神官はゆったりとカノーイの方へふり返り、「さぞや恐ろしかったろうね、カノーイ」と声をかける。再び男の目が黄色く光ったように思えて、猫はとうとう逃げだした。音も立てずに走り去ったので、彼らは猫がいたことにすら気づかなかった。