放浪の巫女と狼 05

第一章 放浪の巫女(5)

 ヤナンは私にがっしりと両腕を回したまま、ひょいと持ち上げて土手を上がっていく。驚きと恐れで私は棒きれのように固まっていた。朝の宿屋で見た時と変わらぬ少年の顔をしているのに、すでに彼は普通の人間ではなかった。赤子を運ぶように平然と私を土手の上へ運び、夜の闇に溶けかけていた景色の中から何事もなかったかのように火打ち石を探し当てて、火をつける。ヤナンが今までの夜と同じように、当たり前の顔をして焚き火のそばに座り、しばらくためらってから私もその前に腰を下ろした。まるで、奇妙な夢を見ているような心地だった。
 しばらくして、火を見つめたまま、ヤナンが尋ねる。
「私を置いて、どこへ行くおつもりだったのですか」
「……ミライノが、丘のかなたに行ってしまった」
 はっとした様子で私を見たヤナンの顔は、つかのま幼い子どものように見えた。少し胸の痛みを覚えた私は目をそらし、彼のように火を見つめながら答える。
「神殿の中に墓があるそうだ。……彼に会いに行くつもりだった」
 墓の前に立っても、彼の顔を見られるわけではない。巫女は死者をよみがえらせる力など持たない。それでも、やはり私はミライノの墓へ足を運んでおきたかった。
「お前に黙っているべきではなかったな。ミライノはお前の育ての親だったのに……」

 私が口をつぐむと、かすかな風の音と、火のはぜる音だけが聞こえた。少しして、ヤナンは口を開く。
「カノーイ様を苦しめていらっしゃるのは、どなたですか」
 ヤナンの黄色い目の中で、焚き火がちろり、ちろりと牙をむくようにゆらめく。
「私を遠ざけて、ひとりでミライノ様のお墓に行くおつもりだったのでしょう。……カノーイ様を苦しめるお方が、そこにいらっしゃるのに」
「……私が顔を見せれば、しばらくは機嫌を直されるのだ」
「どちらかが死ぬまで、それをくり返すのですか。私は嫌です」
 彼がはっきりと何かの好き嫌いを口にしたのは、これが初めてだった。ゆらめく陰影が、少年の顔を普段よりもずっと大人びたものに見せる。心なしか、声も普段より低く、大人の男のように聞こえた。
「カノーイ様は、私の狼を目覚めさせたのです。ですから、私はカノーイ様とともにまいります」
「その狼というのは、どういう意味だ」
 ヤナンは唇をかんで火を見つめたあと、こう答えた。
「私は、カノーイ様と離れたくありませんでした。……ミライノ様は、何度もカノーイ様のお話をして下さった。親しき友を、誰よりも清らかな巫女を、この手で守ると誓いを立てたのだと。どうしても守りきれずに、カノーイ様が旅へ出てしまわれたのだと言って、悔やんでいらっしゃった」
 彼がもういないことを思って、私は目を伏せる。
「いつか、私がミライノ様に代わって、カノーイ様をお守りするのだと思っていました。ミライノ様も、そのつもりで私にいろいろ教えて下さったのだと思います」
 ヤナンがこんなに話すのは初めてだったが、私はミライノの話に気をとられていて気づかなかった。
「そう……だったのか。ミライノは、そんなことまで……」
「カノーイ様」
 ふり向いたヤナンが、かすかに光る黄色い目で、私をまっすぐに見すえた。
「お会いする前から、ずっとカノーイ様をお慕いしていました」
 大人の男のように低い声で、少年が言う。
「カノーイ様をお守りして、どこまでもついていく覚悟でした。なのに、カノーイ様は神殿のお方を恐れて、私を遠ざけようとなさった。私はカノーイ様と離れたくなかったのです。あの宿屋で、もうすぐ夕暮れが来る、夜が来ると思った時、カノーイ様のそばに行かねばと……」
 静かに火がはぜる。私とヤナンのあいだにある何かが、少しずつ熱を帯びてじわじわと緊張をはらんでいた。
「早くカノーイ様のそばに行こうと、そう思ったら、私は狼になっていました」
「……カシナ族の者は、最初から狼になれるわけではないのか」
 ヤナンはかすかに微笑む。なぜ微笑むのか理解できず、私の胸がざわつく。言葉を発しながら、ヤナンはゆっくりと私ににじり寄った。
「朝になれば、私は成人しているでしょう。カノーイ様のために、狼の血が目覚めたのですから」
 ヤナンは手を伸ばし、ゆっくりとしたしぐさで、私の髪を束ねる髪留めの紐をはずした。
「何をしている」
 紐をはずしたヤナンは、腰まで流れる黒髪に手を入れて、再びかすかな微笑みを浮かべる。
「私の一族では、伴侶と定めた男の前で、女は髪をほどくのです」
 身を寄せるようにしてかがみこみ、黒髪にくちづける少年の体からは、やはり獣のにおいがした。

 目を覚ますと、温かいものに背中をすっぽりとおおわれていた。首の後ろに規則正しい吐息がかかる。横になって眠る私を背後から抱きかかえるようにして、ヤナンが眠っていた。私の体にがっしりと回したむきだしの腕を見ながら、この少年の腕はこんなに長かっただろうかと思う。
「お目覚めですか」
 首すじに湿っぽい吐息を吹きかけるようにして、ヤナンが低い声でささやいた。ふり向かずに私は答える。
「奇妙な感じだな」
「何がです?」
「……巫女は常にひとりで眠るものだからだ」
「宿屋でも同じ部屋に寝泊まりしていたではありませんか」
「こうして添い寝などしたことはない」
 背後でヤナンが忍び笑いをしたように思えた。

 起き上がったヤナンは、完全に大人の男の体格をしていた。ミライノとあまり変わらない背格好で、焚き火に鍋をかけて湯を沸かす。いつのまにか、かたわらには衣服と弓矢も揃っていた。
「この服は、もう小さすぎますね。どこかで服を手に入れましょう」
 狼の毛に胴体をおおわれたままの姿で、ごく当たり前のようにそう言いながら、ヤナンはいつものように木製の椀を手にとって湯をそそぎ、私に差し出す。
「服を着るのか。ずっとその格好のままでいるのかと思っていたが」
「このままだと、人が大勢いる場所には出られないでしょう」
 その通りだった。胴体だけを狼の毛におおわれた格好で歩いていたら、遠目にも異国の人間として見られるだろう。人々にも警戒されてしまう。服を着ることも知らない野蛮な異国の人間が、どうして巫女のそばを歩いているのかと。
「ここからまっすぐに旧都へ向かえば、一ヶ月ほどで着きますか」
「もう少しかかるだろう」
 ヤナンは当然のように、私とともに神殿へ向かうつもりらしかった。こうして得体のしれない大人の男と私がともに旧都へ向かっていると知れば、あの男はどれだけ怒り狂うことか。ヤナンが少年だというだけで激しい嫉妬を見せたのに。それを思うと、恐怖でじんわり胸が痛む。
「カノーイ様」
 呼ばれて顔を上げると、ヤナンの黄色いまなざしが、私の恐怖を射抜くように見つめていた。
「私がおります」
 ヤナンは微笑んだが、その目は笑っておらず、何か恐ろしい決意が宿っているように思えた。
「どこまでも、カノーイ様とともにまいります」

[第一章 完]