放浪の巫女と狼 04

第一章 放浪の巫女(4)

 数週間たって、私とヤナンは町のはずれにたどりついた。国の辺境であることに変わりはないが、何軒もの宿屋が立ち並ぶ、少し大きな町だ。ふたりで旅を始めてから、すでに半年がたっていた。
「こんなに人の多い場所へ来るのは、久しぶりだな」
 ひそかな決心を胸にしまいこんだ私は、気持ちをまぎらわすために些細なことをつぶやいた。何も知らないヤナンは、久しぶりの喧騒に少しほおを上気させていた。
「カノーイ様と町に来るのは初めてですね。何か必要なものがあるのですか?」
「そうだ」
 人々の様子を眺め、どの宿屋にすべきか考えをめぐらせながら、私は答えた。
「お前に新しい服が必要だろう」
 ヤナンは一瞬じっと私を見つめ、ほおを上気させたまま「ありがとうございます」とかすかに微笑んだ。

 人のよさそうな下男が働いている宿屋を選び、ヤナンに適当な用事を言いつける。ひとりになった私は、宿屋の入口にいた主人に声をかけ、廊下の奥で話を切りだした。
「実は、私の従者をしばらくあずかっていただきたいのです。私が戻るまでのあいだ、下男として働かせてやってはいただけないでしょうか」
 主人は目を見開き、ううん、とうなるような声を出した。
「この宿屋は、巫女のお客様は初めてでしてな。従者を置いていかれるのは、どういった事情でしょうかな」
「詳しく言うことは禁じられておりますが、神殿のために旅をしております。そのため、しばらく身を清めてひとりで行わねばならない儀式があるのです」
 ゆっくりと嘘をつく。主人は両手を握りしめて難しい顔をしたまま、ちらりと私の顔を見た。
「さっき見たのですが、あの少年の目は黄色いようですな」
「異国で生まれた少年ですが、神殿で『神の兵』に育てられ、私に仕えてきた者です。異教徒ではありません。口も固く、体力もあります」
 ううん、とさらに主人はうなった。

 別れの朝が来た。白い朝の光が差しこむ部屋の中で、ヤナンの名を呼ぶ。ひどく気が重かったが、自分の口から告げないわけにはいかない。
「ヤナン、今日からお前は、しばらくこの宿屋で暮らすのだ」
 少年は顔をこわばらせた。
「なぜですか」
「どうしても行かねばならない用事ができた。ほんの数ヶ月だけ、すまないが、この宿屋で下男として働いてほしい。お前を連れていくことができないのだ」
 ヤナンは青ざめた顔で、さっと立ち上がった。
「私もお連れ下さい」
「お前を永遠に置いていくわけではない。必ず戻ってくるから、どうかここに残ってほしい」
「嫌です! 私はカノーイ様とともにまいります!」
 必死に食い下がる少年の姿に、胸が痛む。やはり連れていこうかと思ったが、生きたまま燃える鷹が脳裏をよぎった。駄目だ。私と一緒にいれば、ヤナンは無事ではすまないだろう。
「私のそばにいると、お前に危険がふりかかる。私がどうして辺境の地をさすらっているのか、不思議に思ったことはないのか?」
 ヤナンは一瞬ひるみ、少し小さな声で答えた。
「ミライノ様からは、カノーイ様が清らかな人であったからだと聞いております」
「神殿が清らかな場ではないと?」
 ヤナンは黄色い目をふっとそらす。
「異国の血を引く人間が、神殿の中で暮らしていれば、いろいろなことがありましたから」
「そうか……」
 ミライノの見ていないところで、ヤナンに冷たくあたる巫女や「神の兵」もいたのだろう。宿屋の主人の難しい顔を思い出し、決意がゆらぐ。だが。
「私が放浪しているのは、そのせいではない。ただ、神殿には、私が孤独であることを望むお方がいらっしゃるのだ」
 少年は眉をひそめた。
「どういうことですか」
「私がひとりでいる限り、そのお方は何もなさらない。だが、私が誰かと親しくなると、機嫌をそこねてしまわれる。すでにお前のことにも気づいておいでだ。手加減を知らないお方なので、私と旅をしているというだけで、お前をひどい目に遭わせようとなさるだろう」
「そんな!」
 青ざめていた少年は、みるみるうちに顔を紅潮させた。
「そんな身勝手なことが許されるのですか」
「……お前の言う通り、神殿は必ずしも清らかな場ではないな」
「カノーイ様を苦しめていらっしゃるのは、どなたです」
 私は唇をかんだ。これ以上は知らない方がいい。
「お前がお会いしたことのないお方だ。だが、気まぐれなお方なので、数ヶ月も離れていれば、すぐお忘れになるだろう。それまでのあいだ、ここで待っていておくれ」
 ヤナンも唇をかんだ。うつむいて少し考えたのち、彼は尋ねた。
「でも、きっとまた同じことが起きます。そのたびに、カノーイ様は私を遠ざけるのですか?」
 否定できず、言葉につまった。顔を上げた少年は、黄色い目でまっすぐに私を射抜き、ささやくように言う。
「私が、カノーイ様を守ります。私をともにお連れ下さい」
 ふっと、めまいがした。ヤナンのまなざしに、かつて私を助けてくれた時のミライノを思い出す。この子も、彼と同じことを言うのか。もう何十年も前に、ミライノが私にかけた言葉を。
 だが、この子を傷めつけられたら、私はどうすればいいのだろう。ヤナンは「神の兵」ではない。ようやく十四歳になろうという子どもだ。小さな獲物を狩ることはできても、神殿の見えない力と闘うことなど知らないのだ。あの男に狙われたら、なすすべもない。
 絞りだすように、言葉をつむぐ。
「……お前を危険な目に遭わせたくないのだ」

 ヤナンを宿屋に残して、神殿への道のりをたどる。私はミライノの墓に行くつもりだった。彼の死を悼み、墓の前で祈りたかった。それに、たとえ私の目的がミライノの墓であっても、あの男は満足するだろう。久しぶりに神殿へ足を踏み入れた私の姿に狂喜して、しばらくはヤナンのことを忘れるだろう。ほんの数日の辛抱だ。
 この二十年のあいだ、ミライノへの嫉妬をつのらせたあの男は、二回ほど私に便りを送りつけた。親友に被害が及ぶことを恐れて、私はつかのま神殿に戻り、ミライノに会えないまま立ち去った。今回も同じことだ。ミライノの墓で祈り、あの男の視線にさらされながら食事をして、あの男の気配に気づかぬふりをしながら眠る。それさえ終われば、また私は放浪の日々に戻れるのだから。
 ふと、いつまでこんなことを続ければいいのだろうという思いが脳裏をよぎる。ヤナンの言う通りだ。私が辺境に戻っても、ヤナンと旅を続ける限り、あの男は何度でも鷹を飛ばせて、私の目の前で燃やすだろう。
「ミライノ」
 丘のかなたに行ってしまった親友の名を呼ぶ。彼はもういない。私もヤナンも、他に頼れる相手などいないのだ。重々しい痛みが、のどの奥で静かに叫んでいた。早くことを終わらせて、ヤナンを迎えに帰らなければ。ミライノが託した少年。あの子にはもう私しかいないのだ。

 早足で歩き続けて疲れ始めた頃には、夕闇が迫りつつあった。辺境の夕暮れは短い。夜もきらびやかな明かりが道を照らしだす王都や旧都と異なり、日が暮れれば闇に包まれる。夜の気配を感じた私は、小川のそばで焚き火のしたくを始めた。
 かすかに風の音が変わって、顔を上げる。夕暮れの色に染まりつつある空の一点、ヤナンを残してきた町の方角に、鳥のようなものが飛んでいた。ちがう、鳥にしては大きすぎる。何か黒くて大きなものが、まばらに生えた木々のこずえをなめるほどの低さで飛びながら、こちらに近づきつつあった。
 あれは何だ。

 目を離さないようにしながら数歩、後ろへしりぞく。まちがいなくそれは私のいる方向へと近づいてくる。牛ほどの大きさをした、黒いもやのようなものだった。まさか、誰かに呪いをかけられたのか。いや、こんな風に襲ってくる呪いなど見たことも聞いたこともない。それに神殿ならまだしも、辺境の町の方角から飛んでくるなんて。だが、そんなことを考えている暇はない。
 刀を手に、暗くなりつつある小川へと、足早に土手を降りる。邪悪な何かと立ち向かうなら、なるべく流水のそばにいるべきだ。神殿の聖水ほどの力はないが、川の水は多少なりとも味方をしてくれる。くるぶしまでの水位しかない小川に迷わず足を踏み入れ、空を見上げて待ち構える私の心臓は、闘いの舞いのリズムを打ち鳴らしていた。
 何かが飛んでくる風の音はますます大きくなり、ふっと音が小さくなった次の瞬間、それが姿を現す。小川の土手の上に現れたそれが、体をゆらすような動きをすると、風で吹き飛ばされるように黒いもやが消え去り、その下には巨大な灰色の狼が立っていた。まるで人間のような大きさの狼だった。黄色い目が、夕闇の中で鋭く光り、私を射抜く。
 死ぬかもしれない。

 狼は小川の中へと跳んできた。刀を顔の前で構えたまま、私は飛び散る水しぶきに視界を奪われる。はっとして目を見開くと、水に濡れた狼は小川の中に四肢で立ち、私と対峙していた。ふいに狼は後ろ足で立ち上がり、次の瞬間、かぶりものを脱いだかのように、見慣れた顔が現れた。
「カノーイ様」
 走ってきた直後のように、少し息切れのした声で、ヤナンが名前を呼ぶ。自分の見ているものが信じられず、私は呆然とその顔を見返した。狼の顔も手足も、人間の、ヤナンのものに変わっており、胴体だけが灰色の狼の毛におおわれていた。肩を超えるほど伸びた灰色の髪は夕闇の風にあおられ、髪を束ねていたはずのミライノの革紐は、むきだしの手首にかろうじて巻きついている。
 たった今まで巨大な狼の姿をしていた少年は、まだ幼さの残る顔のところどころを水しぶきで濡らして、黄色い目でまっすぐ私を見つめたまま、前に進みでた。その水音で我に返った私が逃げようとする前に、ヤナンは私を捕まえた。両腕でがっしりと抱きついてくるその力は、とても子どもの力とは思えなかった。犬に似た獣のにおいが鼻をつく。
「カノーイ様、なぜお逃げになるのです」
 私よりも頭ひとつ低い背丈で、一度も丸みを帯びたことがない私の胸に顔を押しつけ、身動きできないほどの強さで私を捕まえながら、胴体を狼の毛におおわれた少年がくぐもった声を発する。その時、ふと雷の閃光が空を走るように、私の脳裏で何かがひらめいた。ヤナンの出自について、ミライノはなんと言っていたか。
「カシナ族……」
「ご存じだったのですね」
 私をがっちり捕まえたまま、ヤナンが黄色い目で私を見上げた。少しずつ暗さを増してきた夕闇の中で、その目はかすかに光を放っている。
「本当は、自分の出自を知っていたのだな」
「自分の生まれを忘れることなどありません。一族の言葉を忘れても、この血を忘れたことなどないのです」
「では、狼の……」
 つぶやきながら、私は神殿の壁に描かれた伝説を思い返す。最初の巫女がこの地に現れた時、人間と同じ大きさの人食い狼が棲んでいた。巫女は聖なる力で狼と闘い、この地に平和をもたらした……。
 獣のにおいを放ちながら、なおもヤナンは私を離さない。
「私の一族は、添い遂げる相手を定めた時から、狼が目を覚ますのです」
 その言い回しが奇妙だったために、私は彼の言葉が意味するものを理解できなかった。ただ、その声にただならない響きを感じて、思わずその腕から逃れようとしたが、やはり身じろぎひとつできなかった。ヤナンは静かに告げた。
「何度でもお逃げ下さい。同じことです。私は必ずカノーイ様を見つけます。カノーイ様がどこにいらっしゃるか、私にはわかるのですから」