放浪の巫女と狼 03

第一章 放浪の巫女(3)

 その鳥を見つけた時、ちょうど私たちは川の土手を歩いていた。私に向かって飛んでくる小型の鷹をヤナンに見られないよう、さりげなく角度を変えて立ち止まる。
「すまない、少し用を足してきてもいいか」
 用を足す時と、体を洗う時には、相手から離れるのが暗黙の了解になっていた。性別を持たない者として神殿で暮らしてきた私は、体を洗う時は別に見られても平気だったのだが、ヤナンはかたくなに拒んだ。「とにかく巫女の裸を見るわけにはいきません」というのが彼の主張だった。とはいえ、さすがに用を足す時は私もひとりで済ませたい。
「わかりました」
 ヤナンは立ち止まり、川に背を向けた。

 土手を降りていった私は、小さなしげみの陰に隠れて、用を足すふりをしながら空を見上げた。どこへ行ったのだろうと思うよりも早く、ばさばさと羽音を立てて鷹が舞い降りる。
 これは、神殿の誰かが私に宛てた便りを運んできたのだ。ろくなものではないだろう。私は皮肉な笑みを浮かべて、足元の鷹を見下ろした。
「さて、今さら私にわざわざ声をかけるとは、どこの誰だ」
 鷹はくちばしを開いた。瓶の栓を抜くような音がして、のどの奥から、聞き覚えのあるなめらかな声が聞こえてきた。
『久しぶりだねえ、カノーイ。まさか私のことを忘れたわけではあるまい。それとも私を忘れたくて出ていってしまったのかな』
 しげみの向こうを、そっとふり返った。ヤナンはまだ気づいていないようだ。どんな便りだか知らないが、彼には聞かれたくない。
『この前、君にずっとへばりついていたミライノが死んだよ。すでに葬儀も済んだ。いくら薄情な君でも、奴の墓には来るんだろうね。もちろん神殿の中に埋葬されたんだ。きっと君は帰ってくるよね』
 思わず、ぎゅっとこぶしを握りしめる。鷹は時が止まったようにくちばしを開いたまま動かず、なめらかな声だけが、じわじわと少しずつ私の首を絞めるように、楽しげに言葉をつむいだ。
『いつも冷たい顔をしていた君も、ミライノの墓の前では泣くのかな。ふふ、本当に君は冷たいからねえ。私だって、もっとやさしくしてあげたいんだが』
 その声も、気持ちの悪い言葉も、二十年前と変わらない。鷹の首をつかみそうになった時、急にその便りは声音を変えた。
『ところでカノーイ、最近の君は男の子と一緒に旅をしているそうだね。自分は巫女だからと言って私をしりぞけたくせに、男の子とふたりきりで過ごしていると聞いたよ。あんまりじゃないか?』
 やわらかな声の端々に、ちろちろと嫉妬が見え隠れする。背中にぞわりとした寒気を覚えるのと同時に、やはり気づかれていたのだという一種のあきらめのような気持ちが芽生えた。
『どんな男の子なんだろうね。私が小さな男の子だったら、君は私を許してくれたの? それともミライノの養い子だから一緒に連れているの? 子どもの成長は早いだろうね。きっとすぐ男になって、君のことを好きになるよ。許しがたい……!』
 鷹は急にばたりと倒れた。翼を動かすこともできずに、ひくひくとけいれんする鷹のくちばしから、なおも声は呪詛を吐く。
『そうなる前に、神殿へ戻ってきておくれ。君が連れている男の子も一緒に。私はいつだって歓迎する。ミライノがいない今、君を守れるのは、私しかいないのだよ』
 声が途絶えた刹那、鷹は身の内から湧き起こった炎に包まれて、抵抗もできずに激しく燃え、灰ひとつ残さずに消え失せた。目を閉じて動揺を沈めようとする。便りを伝えるだけなら、自分の吹きこんだ声を鳥に運ばせるだけでいいはずだ。わざわざ鳥の体を生きたまま燃やすような恐ろしい術まで一緒にかける必要などない。これは私への脅しだ。
 ヤナンを巻きこむわけにはいかない。やはりあの子は、私とともにいるべきではないのだ。こうしてあの男が脅しを送ってきた以上、いつ危険な目に遭うかわからなかった。だが、私の他に頼る相手を持たず、異教徒の血を引く少年を、誰に託せばいいというのか。
「カノーイ様」
 遠慮がちに呼ぶ声が聞こえて、我に返った。あわてて土手を上っていくと、ヤナンが心配そうな顔で待っていた。
「お顔の色が悪いですが、どこか具合が……」
「ああ、なんでもないんだ。ちょっと考えごとをしてしまってね。待たせてすまなかった。さあ、行こう」
 一瞬、ヤナンは黄色い目に何か言いたげな表情を浮かべたが、すぐに目を伏せて歩き始めた。

「なんてきれいな巫女」
 王宮の広間の奥深く、王族の席の中から、まだ声変わりしていない少年が声を上げた。
「父上、けがれのない神殿に住まう者たちは、皆あのように美しいのですか?」
「巫女は俗世のけがれの一切を断って、長い時を生きるのだ。あの巫女は、私が子どもの頃からずっとあのままなのだよ」
 中央に座した王が答える。では、声を上げたのは王の息子なのだ。恐らく第三王妃が産んだ末の息子だろう。私は目を伏せたまま思いをめぐらす。王宮の人々と異なり、性別を持たない巫女は化粧を施さない。目を驚かせる繊細な模様の織物も、輝かしい宝石や細工物も身につけない。恋をせず、結婚もせず、子どもも持たず、神殿の儀式と祈りのことを考えて百年の時を生きる。そんな私たちは、王宮に生まれ育った王子にとってさぞ珍しく映ったのだろう。
 王子は再び、高い声を上げた。
「あの巫女に、私のすこやかな未来を祈っていただきとうございます」
 国王に命じられ、私が目を上げると、あの王子が大人の姿で立っている。灰色の目いっぱいに、私にはわからない感情を浮かべて、かすかにふるえながら微笑んでいる。部屋の中は薄暗い。
「あの時の巫女に、やっと会えた」
 私は寝台の上で跳ね起きた。
「なぜ、ここにいらっしゃるのです」
 そうだ、私は眠りについていたはずだ。そして物音に目を覚ますと、王子が目の前にいたのだ。驚きと恐怖で心臓の音が耳の中を駆け回っている。こんな風に、眠っているところへ誰かが侵入してくることは、もう何十年もなかったというのに。神殿に来たばかりの頃のことを思い出し、さらに心臓が跳ねた。かつて、他の巫女たちが私をいたぶるため、寝台に上がってきたことを。
 私は動揺を押し殺そうと、なるべく低い声で王子に告げた。
「たとえ王族であっても、巫女の寝室へ入ることは禁じられております。他の者が気づく前に、早くお戻りを」
 しかし、彼の耳に私の言葉は届かないようだった。
「カノーイ」
 王子がふるえながら手を伸ばす。その手を押しとどめようとして、つい叩いてしまった。

「あっ」
 焚き火のほのかな明かりが、驚いたようなヤナンの顔を照らしていた。ふるえる王子の姿も、薄暗い部屋もかき消えて、今はヤナンしかいない。
「カノーイ様が、うなされておいでだったので……」
 私が叩いてしまったであろう手を、そろそろと下ろしながら、少年はそう言った。
「あ、あぁ……すまない。嫌な夢を見ていた」
 ヤナンの黄色い目の中で、焚き火の明かりと夜の暗闇が踊る。その中央に青ざめた私が映っている。ヤナンが小さな声でささやいた。
「明け方まであと少しです。私はここにおりますから、もうしばらくおやすみになって下さい」
 この子はいつから、こんな大人びた目をするようになったのだろう。そういえば初めて会った時から、ほとんど無駄口をきかず、静かで我慢強い子だった。今もずっと私のそばを離れず、本物の従者以上に従者らしく、私の身を案じている。
 ヤナンのことを考えながら、私は再び眠りに落ちた。