放浪の巫女と狼 01

序章 伝承

 大昔、この地には人食い狼が棲んでいて、人々を恐怖で支配していた。
 そこへ最初の巫女が現れて、聖なる力で人食い狼を追い払い、人々に平和な国土をもたらした。巫女は王家に聖なる力の守護を与え、一昼夜で都に神殿を築き、その奥深くで祈り続けた。やがて国は栄え、王家は新たな都市に王宮を築き、そこを王都とした。かつての都があった場所は旧都と呼ばれ、神殿を中心とする祭礼の都市となった。
 最初の巫女は処女だったが、領土の拡大とともに人々の身分が安定していくにつれ、巫女は貴族の男子たちの中から選ばれるようになっていった。彼らは去勢され、肌の露出が少ない女性向けの衣をまとい、神殿の中で長い一生を終えた。

 それから何百年もの時がたち、ひとりの巫女が旧都から旅に出た。

第一章 放浪の巫女(1)

 緊張で顔をこわばらせた灰色の髪の少年が、黄色い目を私に向けて、無言でたたずんでいる。
 声をかけようとしたちょうどその時、少年の背後の扉を開けて、ミライノが現れた。
「やあ、カノーイ。久しぶりだね」
「久しぶり」
 笑顔の彼と抱擁をかわす。ミライノは力強い腕で、がっしりと私の肩を抱いて何度か叩いた。
「二十年も音沙汰なしだなんて冷たいじゃないか。てっきり丘のかなたへ行ってしまったのかと思ったぞ」
 それは君のことだよ、と言おうとして口をつぐむ。「丘のかなたへ行く」という言い回しは、神殿の住人の中では「あの世へ行く」ことを意味していた。
 私の考えを読んだのか、「まぁ、結局は俺が先に行くことになったがな」とミライノは笑った。
「……本当に、そうなのか? まったくもって元気そうじゃないか」
 ミライノの茶色い目に、ほんの一瞬、悲しみがよぎった。彼の肌のつやも、焦げ茶色の髪も、肩を抱く腕の強さも、二十年前と何も変わらない。そう、ほんのどこにも、死の影は見当たらない。神殿を守る「神の兵」となるために育てられた彼は、子どもの頃からずっと私よりも強く、たくましかったのだ。
 だが、彼は首をふった。
「カノーイ、俺たちは突然死ぬんだ。何十年ものあいだ、若々しい姿のまま生き続けて、ある日突然ぱったりと死ぬ。でも自分にはわかるんだよ。そろそろ危ないな、ってね」
「……そうか」
「すまない。そのことで、お前に頼みがあるんだ」
 後ろをふり返ったミライノは、さっきの少年の背中を押して、私の前に立たせた。
「この子を、お前と一緒に連れていってくれないか」

 黄色い目の少年の名前は、ヤナンといった。
 ミライノと再会した宿屋を出て、街の外へと向かう道を歩き始める。私の後ろを、ヤナンは黙ってついてきた。王都のすぐとなりにあって、国内最大の神殿を抱く旧都は、いつもにぎわっている。一時間かそこら歩き続けて街の外へ出ると、ようやく静かになった。

「ミライノから、私のことを聞いているか」
 まばらに草の生えた街道をふたりきりで歩きながら、ヤナンに話しかける。わずかな荷物を背負った少年は、少しほおを上気させながら、しっかりとした足取りで私のあとをついてきていた。
「カノーイ様は、二十年前まで神殿の巫女を務めていた方だとお聞きしました」
「そうだ。他には?」
「その……珍しい出自の巫女でいらっしゃると」
 少し目をそらして答えた少年に、私は薄く笑う。今まで散々言われ続けてきたことだ。
「女から巫女になった者は珍しいという話だろう」
 巫女は性別のない者でなければならない。そのため、巫女に選ばれるのは年端もいかぬ少年たちだった。たいていは貴族の家の末子か、妾腹の幼い息子たちだ。彼らは泣き叫びながら去勢され、そこから生き残った者たちが、神殿に迎えられる。血と痛みを乗り越えてきたことを彼らは誇りに思っているし、俗世を断つにはそれだけの代償が必要なのだと考えている。
 だが、私はちがった。男性器を持たずに生まれ、女として育てられた。その私に、実は女性器も一切ついていないことを発見した医師が、神殿に報告したのだ。八歳の頃だった。
 神殿は、性別のない者を天に選ばれた者だと定めており、私は半ば強制されるようにして、巫女となった。去勢の苦痛を味わってようやく神殿の住人となれた他の巫女たちが、私のことをどう思ったか。祭司長の見ていないところで私に何をしようとしたか。
 たまたま現場に居合わせたミライノが私を助け、それから私は彼と親友になった。
 苦い記憶に再び薄く笑って、私はヤナンを見下ろした。
「そういうお前は、どういう出自だ? その黄色い目は、この国のものではないだろうに」
「僕にもわかりません。まだ幼い頃、行商人に拾われたんです。神殿に捧げられた僕を、ミライノ様が引き取って下さいました」
 黄色い目を伏せて彼が答える。

 実は少年のいないところで、ミライノから彼の出自を聞いていた。
「はっきりとしたわけじゃないが、北の山脈の向こうにいるカシナ族の少年かもしれない」
 初めて聞く名前だった。いずれにせよ、北の山脈の向こう側は王の威光が届かない、はるか遠くの地だ。そこには神殿の聖なる力も届かない。異教の神をまつる人々の地だ。
「いろいろ調べたが、カシナ族は……一夜で成長するとか、異常に走るのが速いとか、狼が人間に孕ませた子の子孫だとか、奇妙なうわさばかりでね。この地に現れた最初の巫女が、人食い狼を聖なる力で追い払ったという伝説があるだろう。その追い払われた狼が、カシナ族の祖先だという話もあるんだが、それ以上のことは何もわからない」
 古めかしいテーブルをコツコツと叩きながら、ミライノは眉間にしわを寄せる。
「出自の明らかでない子どもを、他でもない君に託すなんて、危険すぎるとも思ったんだが……」
「かまわないさ」
 私はなるべくおだやかな声で答えた。
「神殿を離れた巫女は、ただの役立たずだからね。何のために生きているかも、よくわからない。得体のしれない子どもと一緒に旅をするのは、むしろ気がまぎれてありがたいよ」
「カノーイ、やめてくれ。そんな風に自分を傷つけるなんて」
 死期を間近にしても快活にふるまうミライノが、私の言葉に悲痛な表情を浮かべ、いっそう眉間のしわを深める。それを見ると、私はなんだか安堵するのだった。自分のことを案じてくれている人間が、まだこの世にいるのだと。
 でも、彼はもうすぐ丘のかなたへ行ってしまう。私よりも先に。
 帰る故郷も家族もなく、神殿にも戻れず、ただあてどなく旅を続けている私こそが、先に行くべきだったのに。
 私はミライノに近づき、手を差し伸べた。
「ミライノ、私は淋しい。君がいなくなるなんて、本当に淋しい」
 一瞬、不意をつかれた顔をした彼は、じわじわと顔をほころばせ、私の手をとった。
「君がそう言ってくれて、ありがたいな。最期まで仏頂面しか拝めないのかと思っていたよ」
 そう言って、ミライノは私のほおをなでた。