人魔の心臓 03【完】

アイネーの話(下)

 彼女の亡骸がぐちゃぐちゃになってしまった頃、ようやくアイネーは洞穴の外に出た。生まれ変わったであろう彼女を探して、アイネーは来る日も来る日も人間の世界をさまよった。
「どこにいる。私の心臓、私が捧げた人魔の心臓、私の心臓とともに生まれてきた彼女はどこにいる」
 しかし、何年たっても見つからなかった。彼女を奪おうと必死で見張り続けているアイネーから逃れようとするかのように、はるか遠くの国で生まれたからだ。
 カナリアの国をくまなく見て回ったアイネーは、他の国へと探索の手を伸ばした。他の国には他の人魔たちがおり、彼らと出くわさないように、彼らと争わないように注意を払いながら、アイネーは必死で探し続けた。かつてカリダだった人間の女を。
 十年以上の年月が流れて、ようやくアイネーは彼女を見つけた。カナリアの国からふたつの国境をまたいだところに彼女は住んでいた。
「見つけた、見つけた、私の心臓」
 アイネーは虚空で喜びのままに舞い、注意深く近づいていった。以前に連れ去った時、彼女にはすでに恋人がいて、その男を殺してもうまくいかなかったからだ。そのため、アイネーは彼女を連れ去る前に、その身辺をよく調べておくことにした。
 彼女に恋人はいなかった。しかし、親のさだめた婚約者がおり、婚姻の儀式は数日後に迫っていた。これ幸いとアイネーは婚約者の家へ隠れた。そして、婚姻の儀式の当日、花婿を殺して彼に化けた。またたくまに、哀れな花婿の亡骸は千々に砕かれ、人魔の恐ろしい風によって花婿の家の庭にばらまかれた。婚姻の儀式のために集められた白い小鳥たちと白い猫たちが、喜んで小さな肉片を食べた。
 花嫁の横で幸せそうに微笑む花婿が、まさか人魔の化けた姿だとは誰ひとり気づかない。婚姻の儀式も、そのあとに続く宴もつつがなく進み、アイネーは人間のように笑い、歌い、酒を飲むふりをした。そして宴が終わり、初夜を迎える寝室へ花嫁が足を踏み入れた刹那、正体を現して突風とともに彼女を連れ去った。

 遠く離れたカナリアの国、さらにその人里離れた山奥の洞穴で、獣の毛皮の上に座らされた彼女は、驚き恐れて人魔を見上げた。アイネーはやさしく微笑んだ。
「怖がることはない。あなたは人魔に嫁いだ。それだけのことだよ」
「どうして、こんなことになったのでしょう」
 おびえる彼女の手をつかみ、その指にそっと歯を立てながら、アイネーはやわらかな声で答える。
「私が、あなたの前世からさだめられた正式な伴侶なのだ。だから私はあなたを探して、ここに迎えた」
 彼は何日も何日も、同じことを辛抱強く語りかけた。

 彼女は魔法使いの弟子のような知識も持たず、人間の男と愛をかわしたこともなかった。従順な娘として育った彼女は、親のさだめた婚姻の相手が人魔だったため、これも自分の宿命だったのだろうと思うようになったのだ。
 アイネーに名前を尋ねられた時、彼女は警戒する様子もなく名前を教えた。アイネーが与える食べ物も拒まずに食べた。アイネーが洞穴に飾った数々の花や砂金を素直に喜び、小鳥の歌を真似て無邪気に笑う。
 アイネーは相愛の日々が戻ったことに満足し、ふたりで平和に暮らし続けた。

 やがて長い時が流れ、彼女は老いた。死期が近いことを悟った彼女は、アイネーとの別れを惜しんで泣いた。
 しかし、彼女のそばにたたずむアイネーは別のことを恐れていた。次に彼女が生まれ変わった時、今回のように再びおだやかな日々をすごせるだろうか。かつてのように生まれ変わった彼女が他の人間のものになって、アイネーを拒んだりしないだろうか。やさしく仲睦まじい暮らしに慣れたアイネーにとって、それはとても恐ろしい考えだった。
「あなたは、私が前世からあなたの伴侶だったと言っていましたね」
 獣の毛皮の上に横たわり、彼女はかすれた声で彼に語りかける。
「だったら、きっと来世でも私を見つけて下さいね。私たちはずっと結ばれているのでしょう?」
「そうだ。私はあなたに心臓を捧げた。だから何度生まれ変わっても、あなたは私のところに帰ってくる。帰ってこなければならない」
 アイネーはこわばった顔で答えた。
「そんな恐ろしい顔をしないで。笑顔を見せて下さいな」
「恐れずにいられるだろうか。あなたは人間だというのに。人間は気まぐれなものなのに」
 長い長い灰色の髪が、静かにゆらめく。
「人間は鳥や獣と同じだ。すぐに心変わりする。繁殖のたびに別の相手を選ぶ鳥たちと変わらない。でも、移ろう心こそが人間なのだと知っていても、人魔はそれを許せない」
 彼の言葉が理解できず、彼女は眉をひそめた。まるでアイネーは彼女であって彼女ではない誰かに語りかけているようだ。
「人魔は変わらないのだ。選んだ相手に心臓を捧げて、ずっと変わらない。心を変えることができない。あなたが死んでも、あなたが他の男を選んでも、私の心は変わらない」
「アイネー、何を恐れているのです?」
「ねえ、カリダ」
 アイネーは、はるか昔、生まれ変わる前の彼女が使っていた名前を呼んだ。その声は少しふるえていた。
「あなたに捧げた心臓を、私に返しておくれ」

 生まれ変わった彼女が、再び他の男に奪われるのではないかと恐れたアイネーは、その手で白い肌を突き破った。自分が何度も愛でたその肌を切り裂き、噛みつき、彼女を生きながらむさぼり食らった。栗色の瞳も、栗色の髪も、彼ののどの奥に飲まれていった。
「ああ、ああ、なんと血なまぐさい肉」
 肉も魚も食べない人魔にとって、それは恐ろしい食事だった。唇やのどを時折かきむしりながら、それでもアイネーは彼女を食べ続ける。
「私の心臓、私の心臓」
 その手が放つ無数の風で、彼女の肉も骨も細かく砕き、彼女の奥に眠っていた自分の心臓もまるごとすべてアイネーは食い尽くした。
「返ってきた、私の心臓、ああ、ああ、血みどろだ、人間の血で汚れて血みどろだ」
 風のように軽かった人魔の体は、今や肉塊のように重く、その歩みはひどくよろめいた。アイネーは洞穴の入口までたどりつくと、生まれ変わる前の彼女を斬り殺した場所に倒れこみ、力なく笑った。
「人間の肉は、なんと汚いのだろう。私の心臓は戻ったのに、私はもう空を飛べない」
 アイネーの体からは肉の腐るにおいが漂っていた。長い長い灰色の髪は、いつしか血のような色に変わっていた。
「どうして私は人間に心臓を捧げたのだ。移ろう心しか持たない人間の女に、どうして……」
 そしてアイネーは死んでしまった。彼の体は霧のようになったかと思うと風に溶けて消え去り、あとには腐りかけた血まみれの肉塊だけが残った。

[完]

補遺:語り部アナーク

 カナリアの国には「アイネーの話」と呼ばれる人魔の話が伝わっています。
 これは二百年ほど前に、アナークという語り部が村から村へと渡りながら語って聞かせた話だといわれています。彼は「アイネーの話」を物語る時、必ず最初にこう言っていたそうです。

「俺の枕元に人魔がやってきた。人魔が毎晩、俺に同じ話を聞かせて、俺はすっかり覚えてしまった。だから今度はその話を俺が聞かせてみせやしょう。人魔が教えたアイネーの話、アイネーという人魔のお話」

 人魔が人間の女に惚れるという昔話は他にもありますが、実際に添い遂げただけでなく、何度も相手を探して最後は両方が死んでしまうという展開は、「アイネーの話」だけに見られるものです。この話は人魔と人間の悲恋物語として好評を博し、アナークは首都でも何度となくこの話を物語って、多くの稼ぎを得たといいます。
 今でも「アイネーの話」は演劇や文学のモチーフとして広く愛されており、残酷な表現を除いた子ども向けの絵本も多く存在していますが、語り部のアナークがいつ、どこで生まれて、どこで没したのか、詳しいことはわかっていません。現在、歴史に残っているアナークの記録は「アイネーの話」の始祖であること、「アイネーの話」で大変な評判を得たものの、カナリアの国から去ってしまったということだけです。

作品情報

2015年、Amazon Kindleストアで販売していた短編集『人魔の心臓』収録の作品。
(現在は販売終了しました)

書き始めた当初は、現代のスタバでスマホを使って昔話を読んでいた主人公(女性)のとなりに、アナークと名乗る見知らぬ男性が座って「アイネーの話」を始める、というストーリーでした。
話し終えたあとに、アナークが「実は自分はアイネーの弟で、兄が死ぬ原因となったカリダの生まれ変わりの顔を拝もうと思ってきたのだ」「お前がそのカリダの生まれ変わりだ」と告げ、そこからまた因縁の話が始まる…という設定だったのです。
書き始めたら収拾がつかなくなったので、やめました。