人魔の心臓 02

アイネーの話(中)

 目が覚めた時、カリダは昨日のことをよく覚えていなかった。しかし、アイネーの名前は覚えていたし、以前のように彼を恐れる気持ちは薄れていた。そして、普段なら離れたところで寝ているはずのアイネーが、彼女のすぐとなりで眠っていた。
 ほどなくアイネーは目を覚まし、獣のようにカリダの首筋のにおいをかいで、深く息を吸った。

 洞穴の中で、カリダとアイネーは静かに寄り添って暮らした。あれから次第にカリダは心を許すようになり、微笑みすら浮かべるようになった。
 アイネーは彼女のために、さまざまなもので洞穴の暮らしを彩った。鮮やかな花々、澄んだ鳴き声を上げる小鳥、気持ちのいい香りを放つ野草、涼やかな音色を奏でる小石。壁面にはきらめく砂金をちりばめ、たまに手触りのいい衣服を人間の世界から持ってきて、彼女を着飾り、楽しんだ。
 彼女に心臓を捧げたアイネーは、彼女を壊れもののように大切に扱ったし、そうとは知らないカリダは、彼のやさしさにほだされて自分の運命を受け入れていった。時にはカリダの方から、アイネーに手をさしのべ、その灰色の髪に花を飾ることもあった。

 ある日、カリダに与える食べ物を探しに出かけたアイネーは、山のふもとに誰かいることに気づいた。風とともに近づいてみると、それはかつてカリダが師匠と呼んでいた魔法使いだった。彼はわずかな手がかりを頼りに、さらわれた自分の弟子を探し、一年近くかかってアイネーの住まう山までたどりついたのだ。
「これほど熱心に弟子を求めてやってくるとは、よほど彼女をかわいがっていたのだね」
 木々のてっぺんに立ち止まり、アイネーは魔法使いを見下ろした。
「でも、すでに彼女は私のもの。私は人魔の心臓を捧げたのだ。他の誰かに渡すわけにはいかない」
 アイネーは風と緑に身を隠し、背後から恐ろしい速さで駆け抜けて、魔法使いの体を突き破った。声を上げるよりも早く、魔法使いは殺されてしまった。
 亡骸の上に枝や葉をかぶせると、アイネーはそのまま出かけていった。カリダには何も話さなかった。師匠が彼女を追ってきたことも、アイネーが彼を殺したことも、彼女に知らせようとは思わなかったのだ。

 その後の年月は光のように早くすぎた。
 ふたりは仲睦まじい日々を送った。アイネーが人間の世界から猫を拾ってきたので、カリダは子どもを育てるように猫を育ててかわいがった。猫たちもカリダ同様、洞穴から出ることはできなかったので、アイネーは安心して彼女と猫を遊ばせておいた。
 一度、猫が驚いてカリダを引っかいた。アイネーはためらわずにその猫を殺そうとしたが、カリダは強く引き止めた。猫の命は助かったものの、その後しばらくカリダはアイネーを恐れて、こんなふうに考えた。
「この人はとてもやさしいけれど、人間ではなくて人魔なのだ。一緒に暮らしていて、いいのだろうか。そのうち私は殺されるのではないか」
 しかし、その後はおだやかな日々が続き、アイネーの態度もまるで変わらなかったため、じきに彼女は恐れる気持ちを忘れてしまった。

 カリダが年老いて、顔つきが変わっていっても、アイネーは彼女を大切に扱った。鏡がないので、カリダは自分の顔をはっきりと見ることはできない。それでも次第に体力が落ちて、肌にしわが増えていくことに気づいた。
「ここに来て、どれだけの年月が流れたのだろう」
 アイネーがいない時に、彼女はふとつぶやいた。
「とうとう師匠が連れ戻しにくることはなかった。人魔にさらわれて、人魔と夫婦のように暮らして、私はこのまま誰にも知られずに死ぬのだろう」
 ふいに強い淋しさが胸を襲い、カリダは倒れ伏してしまった。
 アイネーは彼女をひどく案じて、さまざまな薬草を持ってきたが、カリダは起き上がらないまま一日をすごすことが増えた。そして、寝たきりになったことで、たちまち身も心も弱ってしまい、ほどなく彼女は死んでしまった。

 アイネーはカリダに自分の心臓を捧げていたので、彼女が死んだあとも心変わりすることはなかった。彼女の亡骸を洞穴の入口近くに埋めたのち、人間の世界をさまよって、カリダが再びこの世に生まれ変わっていないか探し続けた。
 やがて、とうとうアイネーはカリダの生まれ変わりを見つけた。彼女は庭で洗濯物を干しているところだった。洗濯物から手を離した瞬間、目の前に見慣れない男が立っていたので、彼女は心臓が止まりそうなほど驚いて動けなくなってしまった。
「見つけた。私の心臓」
 アイネーは微笑んで両腕を広げる。風にあおられて洗濯物がはためき、彼女が我に返って悲鳴を上げた時には、アイネーは彼女をしっかりと抱いて空を飛んでいた。
 彼女を連れ去ったアイネーは、かつてと同じように少しずつ彼女の心を開こうとした。しかし、彼女は恐ろしいことを言い放った。
「帰して下さい。私にはもう恋人がいるのです」
 アイネーは怒って、こう言った。
「あなたは生まれ変わる前に、ここで暮らしていた。私はあなたに人魔の心臓を捧げた。だから私はあなたのものだし、あなたは私のものなのだ」
 彼女はかつてのカリダと同じように、強いまなざしでアイネーを射抜いた。
「そんなこと、とても信じられません。それに、あなたは人魔で、私は人間。住む世界が異なるではありませんか。私は人間の恋人がいるのです。ゆくゆくは彼に嫁ぐはずだったのです。早く人間の世界へ帰して下さい」

 彼女は何度も洞穴から逃げようとした。そのたびに、入口近くで見えない力に跳ね返されて、地面に倒れ、怒りと悲しみで顔を赤く染めた。
 夜になると、すすり泣く声が洞穴を満たした。アイネーはいらだち、何度となく彼女に同じことを言った。
「あなたはもう、ここから出られない。あなたは私とふたりで暮らすのだ。あなたは私のものだ」
 そのたびに彼女は涙で濡れた顔を上げ、言葉を返す。
「いいえ、人魔に命を握られるいわれはありません。私はここにいたくない。彼のところへ帰して下さい」

 ある日、アイネーは嫉妬が命じるままにまかせて、すさまじい勢いで人間の世界に飛んでいき、彼女の恋人だという男を探した。そして、彼の前に自分の姿を示すことなく、かつてカリダの師匠の魔法使いを殺したように、その体を突き抜けて、ひと息で殺してしまった。
 残酷な姿に変わり果てた亡骸と、驚き、恐れ、嘆き悲しむ人々をあとにして、アイネーは一目散に洞穴へ戻り、彼女にこう告げた。
「あなたにはもう、帰るところなどない。あなたが恋人だと言っている男は死んでしまった」
 彼女は目をらんらんと輝かせて言い返す。
「いいえ、そんなはずはない。あの人が死んでしまうはずはない。私は彼と幸せになるはずだったのに」
「死んでしまったのだよ。私は確かにこの目で見たのだ」
 そう言って、アイネーは血染めの服の切れはしを彼女の目の前に落としてみせた。

 彼女はしばらく動かずに血染めの服を見つめていたかと思うと、今度は壁面を一心ににらみつけ、そのあとは泣き始めた。彼女の嘆きは何日も続き、アイネーは黙ってそれを見守っていた。
 時の流れがすべてをあるべき姿に戻すだろうとアイネーは考えた。今は嘆いている彼女も、やがて悲しみが薄れ、人魔の心臓を捧げた自分に心を向けてくれるだろうと。そうすればまた、カリダの頃のようにふたり仲睦まじく暮らせるのだ。
 しかし、泣くのをやめた彼女は、まるで壊れてしまったようだった。彼女はこの世ならぬものに向かって話しかけ、この世ならぬものを求めて生きていた。彼女の栗色の瞳はアイネーではない別の何かに向けられていた。
「ねえ、あなたの名前を教えて」
 ぼんやり座っている彼女に、アイネーは何度も呼びかけた。
「今のあなたの名前を教えて」
 何度尋ねられても、かつてカリダだった彼女は答えない。アイネーの言葉には耳を貸さず、時折ぽつりぽつりと死んだ恋人の男に向かって話しかけた。

 アイネーはいらだち、怒り、悲しみ、長い長い灰色の髪を地面に打ちつけた。そして考えた。
「生まれ変わったカリダは、他の男に心を奪われてしまった。もう一度やり直そう。彼女がこの世界に戻ってくるところから、やり直すのだ」
 心を決めた人魔は、鋭い風の刃で彼女を斬り殺した。自分が殺してしまったことを忘れないように、アイネーは彼女を葬らず、洞穴の入口からほど近い地面に横たえ、亡骸が腐って崩れて朽ち果てていくさまを、何日も何ヶ月も眺め続けていた。