人魔の心臓 01

人魔について

 私たちの世界には、かつて人魔という魔物が数多く存在しました。
 人魔は私たち人間に、とてもよく似ています。外見だけでは見分けがつきません。ですが、人魔は風を食べ、風のように空を飛び、何百年も若い姿のままで生きることができます。人間の食べ物、特に肉や魚をあまり口にしたがらないので、昔の人々は旅人が人魔でないことを確かめるために、血なまぐさい肉料理や、香辛料をきかせた魚料理をふるまってもてなしたそうです。
 昔話の中では、しばしば人魔が登場します。旅人のふりをして人々の家を訪れたり、獣に化けて人間にちょっかいを出したり、魔法使いと知恵比べをしたり、人間の女に惚れて近づこうとしたところを返り討ちにあったり。どうやら人魔は、たまに人間の世界へ足を伸ばしたくなるようです。
 特に、人魔が魔法使いと知恵比べをする話は、あらゆる国でさまざまなバリエーションが伝わっています。魔法使いは魔法のために人魔を利用することがあり、人魔と接触する機会も多かったといいます。
 人魔の多くは男です。女の人魔が登場する昔話は非常に少なく、女の人魔が存在しないと伝えられている国もありました。人魔にもともと男が多いためか、女の人魔が人間の世界に顔を出さないためか、その理由は明らかにされていません。
 しかし、科学の発達と魔法使いの減少にともない、人魔の数も激減しました。私たちは開拓と土地の管理のために、あまねく秘境や境界の山々へと足を運び、多くの聖地に観光客を招き入れました。人里離れたところで、ひっそり暮らすことを望む人魔は、私たちの騒がしい進出に耐えかねて、次々にどこかへ消え去ってしまいました。
 現代では、一年を通して、人魔の目撃情報が得られない国も少なくありません。不幸なことに、絶滅危惧種の鳥や動物たちと異なり、魔物である人魔は人間の手で保護されることを嫌います。やがて、私たちが滅ぼした魔物や動物の長い長いリストに、人魔を加える時が来るであろうと、ある研究者は語っています。

アイネーの話(上)

 昔、カナリアの国に、アイネーという人魔がいた。
 ある時、あてもなく人間の世界をさまよっていたアイネーは、ひとりの女に出会った。彼女の名前はカリダといって、魔法使いの弟子だった。彼女の師匠は人魔の夢を食べて魔法を紡いでおり、師匠のために人魔の夢をたぐり寄せることがカリダの仕事だった。
 カリダに出会った時、彼女はまさにアイネーの夢を腕の中にたぐり寄せようとしていた。栗色の髪と白い肌が、風の中でちらついていた。

「ねえ、そこにいる魔法使いの弟子。あなたは何をしているの?」
 人魔はやわらかな声で呼びかけた。用心深い声が答える。
「お許し下さい。あなたの夢は今すぐに、この腕からお返しします」
「その夢はあなたにさしあげよう」
 歌うように答えながら、アイネーは人間の目に止まらぬほどの速さで近づき、彼女のすぐ目の前に降りて、その腕をつかんだ。
「かわりに、あなたの名前を教えて」
 彼女は驚きと恐怖で目を丸くしたが、それでもまだ用心して答えた。
「師匠が私の名前を隠してしまいました。ですから、あなたにお伝えすることはできません」
「ふん、しつけの行き届いた弟子だ」
 アイネーは鼻を鳴らした。人魔であれ、魔法使いであれ、信用のおける相手にしか自分の名前を教えないものだ。まぬけな弟子であれば、うっかり名乗ってしまうところだが。
「私の腕を離して下さい」
 じりじりと後ろへ下がりながら、彼女はアイネーの目をまっすぐ見つめて、少し強い口調でそう言った。ふと気まぐれを起こしたアイネーは、彼女の腕をつかんだ右手に力をこめた。
「いいや、あなたは私のところへ連れて帰ろう」
「嫌です!」
 彼女は師匠から教わった簡単な呪文を唱えて逃れようとしたが、その程度の弱い魔法で人魔を追い払うことはできなかった。アイネーは両腕でしっかり彼女を抱き上げて、彼女の叫びが師匠の耳に入るよりも早く空に舞い、自分のすみかへと連れ去った。

 アイネーのすみかは人里離れた山奥だった。すみかとなる洞穴の壁面にはさまざまな飾りを彫りつけ、ほんのりと光を放つ花をそこかしこに植えて、地面は虫が入ってこないように風で掃き清めてあった。
 アイネーは魔法使いの弟子を洞穴の奥まで案内すると、獣の毛皮の上に座らせた。そして彼女の両手を握りながら再び尋ねた。
「あなたの名前を教えて。ここには、あなたの師匠の魔法も届かない」
「教えたくありません」
 彼女はおびえながらも強いまなざしで答える。アイネーは笑った。
「あなたは今からここで私と暮らすのだ。名前がなければ困るだろう」
「いいえ、師匠がすぐに私を追って、連れ戻しにくるでしょう」
「どんな魔法使いでも、人魔の許しがなければ、そのすみかには入れないよ」
 そう言って、アイネーは彼女の指に舌を這わせた。
「もちろん、あなたも私の許しがなければ、ここからは出られない」

 アイネーは日に何度か空を飛び、人間の世界から食べ物を奪ってきて、彼のすみかの奥深くに隠した魔法使いの弟子に与えた。最初の数日間、彼女はなかなか食べ物を口に運ぼうとしなかったが、とうとう空腹に負けて食べるようになった。アイネーはひどく喜び、そんな彼の姿を彼女はいぶかしむように眺めた。
「どうしてそんなに喜ぶのですか」
「あなたが食事をしたからだ。あなたが生きようとしたからだ」
 彼女は何も答えず、ただ困ったように目をそむけた。
 すみかの中にいるあいだ、アイネーはずっと彼女のそばにいた。暇をもてあました彼女が花びらをつまみあげ、地面に模様を描いていく様子を、うつぶせになって眺める。あるいは彼女が壁面の飾りをそっとなでながら歩いている時も、その後ろをついて歩く。次第に彼女はアイネーの存在に慣れた。
 やがて、他に何もすることがないので、彼女はアイネーに話しかけるようになった。
「あなたは何年生きているのですか」
「忘れてしまった。だが数百年は生きただろう」
「ずっとここに住んでいるのですか」
「そうだ。以前は他の場所に住んでいたかもしれない」
「どうして私をここへ?」
「あなたが気に入ったのだ。そう言わなければわからないのか?」
 彼女は黙った。アイネーは彼女の栗色の瞳をのぞきこむ。
「私の名前を尋ねてはくれないのか?」
「もしもあなたの名前を尋ねたら、あなたも私の名前を知りたいと言うのでしょう」
「そうだ」
「ですから、お聞きしません」
 アイネーは長い長い灰色の髪を不機嫌そうにばさりとひるがえして、彼女から離れていった。

 魔法使いの弟子は何度試しても洞穴から出ることができなかった。アイネーの住まう山奥には他に誰もおらず、彼女の歌や叫び声に応えるものも何ひとつなかった。自然と彼女はアイネーの帰りを心待ちにし、彼の動きを目で追い、彼に話しかけるようになった。あまりにも退屈だったのだ。
 アイネーは彼女からの質問にひととおり答えると、いつも最後は同じことを尋ねる。
「ところで、私の名前を尋ねてはくれないのか?」
 そのたびに彼女は口をつぐみ、会話はそこで終わった。

 ある日、洞穴に蛇が出た。彼女は驚き、洞穴の入口まで逃げた。やがて蛇は彼女を追ってきた。洞穴から出られない彼女は、武器になる石を探して必死であたりを見回したが、洞穴の中はどこもかしこもきれいに掃き清められて石ひとつ落ちていなかった。
 もう駄目かもしれないと思ったその時、蛇はじゅっと焼けるような音とともに縦に裂けた。アイネーが帰ってきたのだ。
「あなたに怖い思いをさせたね」
 そう言ってアイネーは彼女を抱き寄せた。彼女は棒のように突っ立ったまま、されるがままになっていた。

 次の日、アイネーはいつものようにこう言った。
「あなたは、いつになったら私の名前を尋ねてくれる?」
 彼女はひるむことなくアイネーを見返し、答えた。
「ではお聞きしましょう。あなたの名前は、なんというのですか」
 アイネーは喜んで、彼女の手をとった。
「私を恐れているのに、恐れていないふりをしてまっすぐに見つめ返す、その瞳が気に入ったのだよ。あなたに教えよう。私の名前はアイネー。カナリアの国に数百年前から住まう人魔だ。さあ、あなたの名前を教えて。私のすみかでともに寝起きしているあなたは、なんという名前だ?」
 彼女は小さな声で答える。
「……カリダ、といいます」
 彼女の白く細い指や手首をやさしくなでながら、アイネーは微笑み、ささやいた。
「あなたに私の心臓を捧げよう。あなたが私から離れないように。私があなたを裏切らないように。あなたが死んだあとも離れないように。カリダ、私が死ぬまで、あなたはもう……私のものだ」
 カリダは気を失って、ゆっくりと倒れこんだ。アイネーはカリダを横たえると、その口を開けさせて、自分の心臓を口移しで彼女に食べさせた。