沈んだ月の中から 09:落ちない意識

 俺の部屋はガラスの破片だらけで入れないし、廊下もぐちゃぐちゃだったので、その日はホテルへ泊まることになった。オーナーは管理会社とやりとりをしたのち、部下に指示を出して「ケイ」と俺の名前を呼ぶ。
「最低限必要なものだけ持ってこい。車で行く」
「……別にそういうのないから、今すぐ行けるけど」
 リビングのソファからのろのろと立ち上がって答えた。オーナーは意外そうに眉を上げる。
「お前に持たせたスマホやカードは?」
「全然使ってないし、スマホなんてずっと充電切れてるよ」
 俺のそっけない返事に、オーナーはなぜか愉快そうな笑みを浮かべた。
「じゃあカードだけ持ってこい。どうしても使いたくなかったら俺が払う」
「どっちにしろカードの請求もお前持ちだろ」
「いつもみたいに現金がほしかったら俺に言えってことだよ。……あぁ、そういえばスマホもカードもお前の部屋にあるのか」
 俺が思い出すよりも先に、オーナーはそのことに気づいたらしい。一瞬だけ考えるそぶりを見せて、すぐに決断を下した。
「いいや。ここは片づけさせて必要なものを新しい家に運ばせるから、お前は何も持たなくていい」
 差し出された靴を履いて、俺は破片と粉塵で汚れた廊下に足を踏み出した。

 オーナーの後ろをついてホテルの廊下を歩きながら嫌な予感はしていたのだが、部屋に入ってベッドを見た瞬間、俺は露骨に嫌な顔をした。
「ツインかよ」
「そうだね」
「別々の部屋がいい」
「残念だけど無理だ。お前に何かあると困るから同じ部屋にしたんだよ。あきらめろ」
 オーナーはパチリと音を立ててカードキーをテーブルの上に置いた。近づく気になれず、なんとなくドアの近くにあるクローゼットを開くと、バスローブのかかったハンガーや、室内用の真新しいスリッパが目にとまる。自分の分だけスリッパを出して、ソファとテーブルを並べた小さなスペースを通りすぎた俺は、ベッドに腰かけ、靴を脱いでスリッパに履き替えた。
 俺がオーナーの分のスリッパを出すことなど、最初から期待していなかったのだろう。入れ替わるようにクローゼットへ向かったオーナーは、ハンガーを取り出してジャケットをかけたりスリッパを出したりしながら「ケイ、先にシャワー浴びろ」と言った。
「俺はまだもうちょっとやることがある」
「わかった」
 そっけなく答えて浴室に向かおうとした俺は、ふと立ち止まる。
「……なぁ、新しい下着とかどうすればいいわけ」
 完全に手ぶらだから着替えなんて持っていない。ホテルにはバスタオルも歯ブラシもバスローブも置いてあるが、さすがに下着までは置いていなかった。
 ベッドに腰を下ろし、靴を脱いでいたオーナーは、ひょいと顔を上げて「なんだ」とあきれたように小さく笑った。
「別に下着なんてなくても寝れるだろ」
「は?」
「明日の朝には部下が届けてくれる。今夜くらい下着なしで寝とけ」
「まじかよ」
「開放感があって気持ちいいぞ」
 愉快そうなおももちでオーナーが笑う。俺はとても愉快な気持ちにはなれなかった。まったく笑えない。
 ひとりで泊まる部屋ならまだしも、オーナーとツインの部屋に泊まっていて下着がないのは不安だった。本音を言えば、バリケードがほしいくらいなのに。
 こいつは俺がシャワーを浴びているところへ入ってきて俺の首をつかんだり、俺をベッドに突き倒して怒りをぶつけたりするような男だ。
 黙りこくった俺を見て、オーナーがあざけるように目を細めた。
「何を気にしてる? 自意識過剰だろ、ケイ」

 お前がそれを言うのか。家の外で俺を愛人呼ばわりして、俺を尾行させて、俺の動画や録音や写真を大量に溜めこんでいるお前がそれを言うのか。

 自意識過剰だと馬鹿にされても、浴室の鍵を内側から閉めるのは忘れなかった。

 何も持ってこなかったので、暇をつぶすものもない。シャワーを浴びた俺はとっととベッドで横になった。オーナーが使うベッドに背を向けて、バスローブのすきまから下着を履いていない下腹部が露出しないようにすそを合わせて。
 オーナーがシャワーを浴びる音をかすかに聞きながら目を閉じる。普段は能力を発動したあと、疲れきって寝てしまうから、何の苦労もなく意識を手放せるのに。ヒカリの急襲を受けて、おまけにオーナーとふたり部屋で泊まることになって、緊張してしまった俺の意識はなかなか眠りに落ちてくれない。

 壁を破壊しながらヒカリが叫んだ言葉を、ぐるぐると頭の中でこねくりまわす。
 水の音が止まる。タオルで体を拭いている気配。ドライヤーの音。
 やがて扉が開き、閉じる。となりのベッドに座ったオーナーが、横たわった俺の背中を無言でじっと見下ろしている。