ミツバチと呼ばれた娘

「あなたは誰?」
「俺のことを知らぬのか」
「知らなぁい」
「見かけない顔だな。どこから来た?」
「兄さんの馬車に隠れていたの。私、かくれんぼがじょうずなんだよ」
「待て、どこへ行く?」
「どこか面白いところ!」
「……お前、俺を怖がったりしないのだな。俺と一緒に来い」
「どこへ行くの?」
「面白いところだ。来い」
「あなたは誰? 私の名前はミツだよ」
「俺の名前は……」

 彼女はミツという名前だった。
 商家の娘として産まれた彼女が、どうして幼い頃から城で暮らすことになったのか。それはひとえに王太子の「気まぐれ」のせいだという。
 ミツの生家は絹糸や織物を商っていて、城にも商品を納めていた。古参の侍女が話してくれたところによれば、将来の跡取りとして修行中だった長兄が、いつものように商品を馬車に積んで城へ向かった時、末の妹である5歳のミツが、こっそり馬車のどこかにもぐりこんでいたそうだ。
 ミツはもう覚えていないのだが、城に着いてから馬車を下りて冒険に出かけた彼女は、当時7歳だった王太子に遭遇したらしい。警備の目を盗んで娘が侵入してしまったことについて、長兄と両親は懲罰を覚悟していたが、王太子は「かまわん。それより、その娘が気に入った。私の遊び相手によこせ」と言ったのだという。

「ミツバチ! ミツバチ、ここにおらぬのか」
 王太子の呼ぶ声がする。小姓と見まがう服装をした13歳のミツは、後ろで束ねた長い髪を尾のようにゆらしながら、急いで駆けていった。
「殿下、こちらに」
 王太子がふり返る。黒々とした髪を雄々しく結い上げて、守護石の首飾りをかけた15歳の少年は、気の強そうな顔をしていた。実際、彼は気の強い少年だったし、その態度は王太子の身分にふさわしいものだとして、周囲の人々は好意的に見ていた。それにふり回されるミツとしては、たまに困惑することもあったのだが。
「ミツバチ、何をしておったのだ」
 王太子はミツのことをミツバチと呼ぶ。虫のあだ名で彼女を呼び、「私の遊び相手は動きやすい格好でなくてはならぬ」と言って少女のミツにズボンの着用を命じた。しかし、他の誰かが彼女をミツバチと呼ぶと、なぜか嫌がるのだった。
 ミツには理解できない心境だったが、王太子がしょっちゅう自分を呼びつけて無茶な冒険や遊びのお供をさせることを、彼女もそれなりに楽しんでいた。庭師が撤去しようとしている虫の巣へ近づいたり、鳥を見るために木を登らされたり、庭園の小川の底をひっくり返して小魚を探すはめになったり。
 周囲の人々は、もう少し王太子が大人になって静かに遊んでくれることを望んでいるのだが、王位を継ぐ重圧へのささやかな抵抗として、王太子は小姓の格好をさせたミツとともに、太陽の下へ遊びに出てしまうのだった。
 少年のような遊びのお供をせねばならないミツのことを、同じ年頃の侍女たちは気の毒そうに見ていたが、当のミツは城の中で礼儀作法を守って働いているよりも、外に出ているほうが楽しかった。幼い頃は馬車にもぐりこんで城へ侵入したそうなのだから、自分にもやんちゃな部分があるのだろうとミツは思う。
「遅れまして申し訳ございません。蝶を追っておりまして」
 蝶を追う、というのは、厠に行くことを意味する隠語だった。少し汗ばみながら、今日は何の用事だろうかとミツは考える。早く終わってくれればいいのだが……。汗をかいているのは、走ったからだけではない。侍女たちから初潮の話を聞いてはいたものの、実際に味わう体の変化は初めてのものだった。下腹部が、まだ気持ち悪い。
 ミツの視界に、すっと影が差した。王太子がミツの顔をのぞきこむように見ている。
「殿下?」
「お前、具合が悪いのではないのか」
「いえ……」
 王太子は、さらに顔を寄せてくる。反射的にミツは体を引いた。
「おい、なぜ私から逃げる」
「殿下は尊いご身分なのですから、そのように軽々しく人の顔をのぞきこんではなりません」
「ふん」
 顔を離しながら、王太子は鼻で笑った。
「相手がお前でなければ、そのような小言を申す輩には罰を与えるのだがな」
 幼い頃から、まるで弟か子分のようにミツをふり回して遊んできた王太子は、本来なら王族と直接口をきくこともできない身分のミツに対して寛容な態度をとった。ミツは慣れた微笑みで答える。
「どうぞ、ご寛大な処置を」

「ねぇ、大丈夫?」
 自分に与えられた部屋へ戻って、ひと息ついていると、同室の侍女がひょっこりと扉から顔をのぞかせた。ミツは歳相応の笑顔を浮かべる。
「うん、今日はそんなに無茶な遊びじゃなかったから……」
「ミツも大変だよね。男の子の遊びって荒っぽいもの。月のさわりがある時は、さすがにしんどいよ」
 ミツよりも先に初潮を迎えていた彼女は、同情するようにため息をつく。王太子の遊びにつきあって、ミツがあちこちケガをする姿を見ていたこともあり、彼女はよくミツのことを心配してくれていた。
「でも、殿下が普段より早く解放して下さったから、ちょっと休めそう」
「よかった! あたし、まだ仕事があるから、もう行くね」
「いってらっしゃい。仕事中なのにありがとう」
 同室の侍女は片目をつむりながら「いいってことよ」と笑って出ていった。ひとりになったミツは、ふう、と大きなため息をつく。もう少ししたら、下働きの者たちが使う食堂へ、夕飯を食べにいこう。そう考えていると、扉が硬いノックの音を立てた。
「はい」
 扉の向こうで、別の侍女の声が尋ねる。
「ミツはいますか?」
「えぇ、ここにいます」
「侍女長がお呼びです。すぐに来ていただけますか」
 侍女長とは、侍女たちを管理している年配の女性のことだ。わざわざ呼びだしを受けるなんて、いったい何があったのだろう。まさか、体調不良のまま王太子の前へ出たことがわかって、それを注意されるのだろうか。
 どちらにせよ、侍女長に呼ばれたら何かよくないことを言われるのだ。褒められることなんてめったにない。ミツはゆううつな気持ちになりながらも、初潮でだるさの残る体を動かし、なんとか真面目な態度をつくって、侍女長の待つ部屋へ向かった。

「あなたは初潮を迎えたそうですね」
 侍女長に言われて、ミツは小さくうなずいた。おおかた他の侍女が聞きつけて、侍女長に報告したのだろう。だが、なぜそんなことをわざわざ呼びだして聞かれるのか、ミツにはわからなかった。侍女長は言葉を続ける。
「近頃、王太子殿下があなたに示される情愛は、子どもの遊び相手としての範疇を越えております」
「私は……いえ、」
 彼女が何を言わんとしているのか、ミツはようやく気づいた。王太子が子どもから大人への階段を登ろうとしている時に、身分の低い女がそばにいては不都合なのだろう。富豪の息子が下働きの女に手を出し、産まれた子どもをめぐって問題が起こるというのは、年上の侍女や小姓たちの世間話で何度も聞いた。同じことが起こりはしないかと、侍女長は案じているというわけだ。
 あらぬ疑いをかけられて、余計な面倒に巻きこまれるのはミツにとっても願い下げだった。身分の高い人々、それも次期国王となる王太子の周囲にいる人々は、笑顔で毒を盛る人々だ。己の権力を守るために何枚もの舌を使い分けて、複雑な人間関係を渡り歩く。正直なところ、ミツはこの城で暮らすことに少し疲れ始めていた。王太子のそばにいることで、ミツは彼らの注目を集めてしまうからだ。
「長らくお世話になりましたが、城を辞して家に帰らせていただきます」
 ミツは侍女長に頭を下げた。自分が城を去ることは、王太子に直接告げるべきか。それとも、病気か何かの適当な理由をつけて侍女長から報告してもらうべきか。その判断をあおいでから荷造りをしよう。そう思って顔を上げたミツは、侍女長が浮かべている冷酷な笑みに、思わず目を見開く。
「その必要はありません」
 冷たく微笑みながら、ゆっくりと侍女長が声を発した。
「あなたの処遇は、殿下がお決めになることです。本日、あなたを王太子殿下の後宮に迎え入れるよう、殿下からのお言葉がありました」
 後宮?
 王太子の後宮には、まだ誰もいない。いつか王太子が妃を迎え、あるいは寵姫を選ぶ時に備えて、建物が用意されているだけだ。
 まさか。
「……私は、そのような……」
 自分が、その後宮に入る最初の人間となるのか。決して日の目を浴びることはない、王族の下半身をなぐさめる女たちのひとりとして。
 そう、身分の低い自分が王太子妃になることはありえない。寵姫という名目で城の中に閉じこめられてしまうだけだ。
「殿下がお望みになったのですよ。たとえ家に逃げ帰ろうとも、城の兵があなたを連れ戻しにまいることでしょう」
 ミツは全身が粟立つのを覚えた。侍女長はさらに恐ろしい言葉を告げる。
「もうひとつ大事なお話があります。掟によって、あなたは後宮へ入る前に、子宮を殺さねばなりません」
「……は?」
 今、この女はなんと言ったのだ。
「どういうことです?」
「あなたは貴族の生まれではありませんでしょう」
 侍女長は目を細めて、狼狽するミツの全身を値踏みするかのように眺める。
「殿下の寵愛を受けて、もしも殿下のお子が産まれてしまったら、大変なことになるのです。無用な後継者争いを避けるためにも、貴族の血を引いていない寵姫は、子宮を殺さねばなりません」
 生まれて初めて、ミツは目の前が真っ暗になる感覚を味わった。
 なぜ、そんなことをこの女に決められなければならないのか。なぜ、自分はこの体の中にあるものを奪われなければならないのか。
 王太子の遊び相手として遇しながらも、この女は自分を人間として見ていなかったのだとミツは悟った。
「それが、殿下のご意思なのですか」
 声がふるえそうになるのを必死におさえる。
「私を、私の体を傷つけてまで後宮に入れろと、殿下がお望みなのですか」
 侍女長の顔は、気に食わないネズミをいたぶる機会がようやくめぐってきたと言わんばかりに、満足そうな笑みをたたえていた。
「何があってもあなたを後宮に入れるようにとのご命令です。殿下はあなたにご執心なのですよ。名誉なことではありませんか」

 ミツはすぐに小さな部屋へ幽閉された。侍女長は扉を閉ざす前に、こう告げた。
「もし万が一、後宮入りを拒めば、あなたの家族は殿下に対する反逆罪で罰せられるのです。賢明なあなたのことですから、よくおわかりでしょうがね。子宮を殺す準備が整うまで、しばらくお待ちなさい」
 ミツの心臓は恐ろしい音を立てて鳴り響いていたが、どうすればいいのか彼女にはわからなかった。まさか王太子がそんなことを望むとは。
 王太子の遊び相手として暮らすうちに、かすかな優越感が芽生えていたことを彼女は自覚していた。ただの庶民である彼女が王太子のそばにいることを苦々しい目で見る人々は大勢いる。だが、それでも王太子は彼女を子分として連れ回した。王太子に気に入られているのだというささやかな優越感が、この城での日々を支えていたのだ。
 しかし今や、王太子は彼女にとって理解の及ばない相手になってしまった。まさかあの王太子が、今までやんちゃなりに彼女を気にかけてくれた少年が、彼女を城に閉じこめて、永遠に子どもが産めない体にしてしまおうという恐ろしい考えをいだいていたとは。
 裏切られたのだと感じて、彼女の手足は冷たくなる。いいや、本当は最初からそうだったのかもしれない。身分の高い人々が笑顔で毒を盛るように、王太子も彼らと同じ世界で生きているのだ。どんなにミツのことを気にかけていても、利害のために平気で家畜のように扱う。それに思い至らない自分が甘かったのかもしれない、とミツは思った。目の前が暗くなる。怖い。嫌だ。逃げたい。でも彼女が逃げれば家族は報復を受けるだろう。それに、逃げようにも方法が思いつかない。どうすれば、どうすれば。

「……ミツ、ミツ」
 小さなささやきが聞こえて、ミツは我に返る。
 誰だ? 扉の向こうに別の侍女がいるのだろうか。
 しかし、声の正体は人間ではなかった。床からほのかな光が差したかと思うと、まるで水面のように床の一部がゆらめき、波立ち、小人の女性が姿を現したのだ。小人はミツのひざまでの高さで、さまざまな色の光を衣に散りばめて、ガラスのようなものでできた無数のとげを背負っていた。まるでヤマアラシのように。
 ミツは驚き恐れて声も出なかった。小人はささやき声で呼びかけた。
「ミツ、ミツ、お前を助けにきたよ」
「……あなたは誰ですか」
 やっとのことでミツは押し殺した声を発した。
「私は大地の小人。お前と王太子がよく遊んでいる庭園に住まう者だ。王家の者たちがここに城を建てる前からずっとあそこに住んでおる」
 神話や伝説の中にしかいないと思っていた存在が、急に姿を現したので、ミツはなんと言っていいものかわからず、「……そうなんですか」と気の抜けた答えを返した。小人は気にせず、ささやき声で話を切りだす。
「ミツ、ミツ、お前、王太子の後宮に入れられてしまうのだね」
「そ、そうなんです。だから閉じこめられてしまって」
 もしかして、この小人は自分を助けてくれるのだろうか。わずかな希望を胸にミツが身をかがめると、小人は背伸びしてミツをまっすぐ見上げた。
「お前は後宮に行きたいのかい」
「いいえ、行きたくないんです。でも、私が逃げたら家族は殺されるかもしれません」
「ふむ」
 小人は首をかしげた。衣に散りばめた光が角度を変えてキラキラと光る。
「庭園でね、お前のことをずっと見ていたから、お前のことを助けてやろうかと思ってね。ふうむ……」
 小人が悩んでいたのは、ほんのわずかな時間だった。すぐに彼女は再びミツを見上げた。
「ミツ、ミツ、お前、猫になってみるかね」
「ね、猫ですか?」
「そうとも」
 小人が小さな指を立ててみせる。
「猫といっても、普通の猫よりは長生きできるし、人間だった頃の記憶も心もそのまんまだ」
「おとぎ話みたいですね」
「ただし、おとぎ話とちがって、再び人間に戻ることはできない。私の魔法は一方通行なんでね」
 人間に戻れないと聞いて、さすがにミツは動揺した。この場を逃れるために猫へと生まれ変わるか。それとも子宮を殺され、王太子の後宮で日陰者の愛人として囲われ、若さを失った頃にひっそり捨てられるのか。
 きっと猫になってしまったら、家族に会っても以前のように会話することはできないだろう。家族の仕事を手伝うこともできないし、結婚することもできない。でも、それは王太子の後宮へ入れられても同じことだと思われた。子どもを産めない体にさせられ、王太子の訪れを待つだけの存在になったとしても、その先などあるのだろうか。貴族の後ろ盾を持たない自分は、たやすく暗殺されるのではないか。身分の高い人々は笑顔で毒を盛るのだから。
 そして王太子が飽きて後宮をお役御免となった時も、無事に城を出してもらえるとは限らない。後継者争いを防ぐために子宮を殺せと平気で命ずるような人々が、王族の夜の生活を知ってしまった平民の女を、ただで解放するわけがない。さっきまでは後宮に入れられるという衝撃で頭がいっぱいだったが、どう考えても危険なことが多すぎるように思えた。
 猫になってしまえば、少なくともそういう危険からは逃れられる。それに、ミツが逃げたという理由で家族を処罰することも難しいだろう。魔法をかけられた時にどうすべきかなんて、誰も知らないのだから。
 心を決めたミツは、小人に言った。
「お願いです、私を猫にして下さい」
 小人がにっこり笑う。
「よかろう。そうと決まれば話は早い」
 小人の背中にある無数のとげが、赤く光った。ガラスのようなとげの中で光が反射しあい、暗い部屋の壁に美しい模様を投げかける。

 どういうことだ、と王太子がどなる目の前で、ハチミツ色の猫になったミツはことさら猫らしくふるまい、大きな口を開いてあくびしてやった。部屋を見張っていた兵士、侍女長、ミツの脱走の手引きを疑われた侍女たち、多くの人々がミツを閉じこめていた小さな部屋へ入れ替わり立ち替わり現れて、最後に来たのが王太子だったのだ。
「この部屋には窓もありません。壁や床を調べましたが、何ひとつ怪しいものは見つかりませんでした。戸口はずっと複数の兵士が見張っています。あの娘が逃げることなど不可能です」
「それに、あんな猫はさっきまでおりませんでした。あの娘が消えるかわりに忽然と姿を現したのです」
 人々の報告を聞きながら、王太子はいらだちを募らせ、床を踏み鳴らした。
「ミツバチめ、どこへ逃げた!」
 ざまぁ見ろ、という気持ちで背中をなめていたミツのところへ、ふいに王太子は大股で近寄ってくる。ミツが見上げるよりも早く、その体を抱き上げた彼は、猫となったミツの顔を憎々しげににらみつけた。
「この猫はミツバチと入れ替わりで現れたそうだな。怪しい猫だ。お前は何を知っている? 私の目はごまかせぬぞ!」
 フギャア、とミツは不機嫌な鳴き声を上げた。さすがに人間の言葉は話せない。
 王太子はしばし無言でミツの顔を眺め、後ろにいる兵士や侍女長や侍従たちに向かって言い放った。
「こいつは私の部屋へ連れていく。この猫が入れる大きさの檻を用意しておけ。ミツバチの実家はもう調べたか? 彼女が隠れたり立ち寄ったりしていないか調べろ。証拠が見つからなければ家族は捕まえずに泳がせておけ」
 そうして猫になったミツをがっしりと抱きかかえたまま、まっすぐに自分の部屋へと歩いていった。

 王太子は自分の部屋へ檻を運びこませたものの、ミツをそこへ入れようとはしなかった。かわりに自分の腕から離さず、ふかふかとした布団の上へ横たわり、猫の顔をじっと見つめる。
「お前、本当は何を知っている? ミツバチはどこへ行った?」
「うにゃあ」
「……あいつ、逃げるなんて、そんなに私のことが嫌だったのか」
 それはちがう、とミツは思った。ミツが猫になって運命から逃れようとしたのは、王太子がミツのことを道具のように扱ったからだ。女として抱こうと思ったから後宮へ入れることにした、でも身分が低いから子どもを産めないよう子宮を殺すことにした。権力者が下々の人間の気持ちなど考えないのは今に始まったことではない。でも、これは好き嫌いの問題ではないのだ。
「ハチミツみたいな色の猫だな。お前の名前は、ハチミツにしよう。私の部屋で暮らせ」
 侍従と侍女が扉を叩く。部屋へ入ってきた彼らに着替えを手伝わせながら、王太子は猫の名前を告げ、この猫が王太子のものだとわかるよう、立派な首輪を用意するように命じた。
 せっかく猫になったのに、王太子のそばで飼われてしまうのか。うんざりしたミツはこっそり逃げることも考えたが、自分の家族がどうなるのか心配だった。王太子のそばにいれば、何かしら情報が入ってくるだろう。もう少しここで様子を見ることにした。
 王太子は夜もミツを檻へ入れず、自分の巨大な寝台へ載せて、好きな場所で眠ることを許した。ミツはなるべく王太子から離れたところで丸くなった。

 その後、王太子の命令でミツには宝石をはめこんだ首輪がつけられ、ミルクと肉をたっぷり与えられた。毛糸の玉やネズミのおもちゃや専用のクッションなどが用意され、ミツをブラッシングするための侍女までいた。王太子の飼い猫だというので、侍女も侍従も兵士も、ミツをそのへんの人間よりも丁重に扱うのだ。そういうものだろうな、とミツは冷めた目で自分を取り巻く新たな環境を眺めた。
 夜、ひとりになると、王太子は寝台の上でミツをなでながら、他の誰にも聞かせないだろうことを語るようになった。
「まだミツバチが見つからん。あいつはどこへ行ったんだろう。ハチミツ、お前、知っているか?」
 ミツはふん、と横を向く。王太子の前で不遜な態度をとっても、猫が叱られることはない。
「あいつに出会った時、あいつは私よりずっと小さかったのに、私のことを少しも怖がらなかった。だからそばに置こうと思ったんだ」
 背中の毛並みをなでる手は、大きくて温かい。
「私には弟ができなかった。妹ばかりだった。私は弟がほしかったので、ミツバチに男の格好をさせて、毎日遊んでいたよ。侍従たちとは遊べないし、貴族の子弟なんて私に媚びることしか考えていないだろう。ミツバチと一緒にいるのは居心地がよかったんだ」
 そのままで終わればよかったのに、とミツは思う。子ども時代の楽しい思い出として、やがて記憶の底に沈んで忘れられてしまうほうがよかった。家族の元へ帰って、普通に暮らしたかった。この男が後宮に入れるなどと言いださなければ、そうしてミツは宮廷の恐ろしい世界から離れ、普通の暮らしに戻れたのだ。
「でも、ミツバチが大人の女になりかけているので、今のままではいられないと報告を受けた」
 背中をなでていた手が止まる。
「最初はミツバチを実家に帰そうと思った。でも、そうしたらどうなる? ミツバチは他の男と結婚してしまうだろう。あれだけずっと私のそばにいたのに、他の男のものになってしまうんだ。私は嫌だった。あいつは私のものだ」
 それ以上聞くのが嫌になって、ミツは立ち上がり、彼の手が届かないところへ歩いていった。会話を無視しても、勝手に動いても、猫になったミツを王太子が怒ることはない。布団をしっぽで叩き続けるミツに、王太子が哀れっぽい声をかけた。
「ミツバチはどこへ行ったんだ?」
 もう2度とお前の前へミツバチが現れることはないよ、という気持ちをこめて、ミツは短く鳴くと寝台を飛び降り、少し離れたクッションの上で丸くなった。

 最初は家族のことが心配で、情報を得るために王太子の部屋へ残ったミツだったが、やがて安穏とした飼い猫の暮らしに慣れてしまった。おいしいごはんを好きなだけ食べて、好きなだけ眠っていられる毎日。猫になってから、ミツは人間の時よりも長く眠るようになった。なにしろ王太子の飼い猫を無理に起こそうとする人間などひとりもいないのだ。
 王太子はミツを檻に入れず、毎晩ミツの背中をなでてから眠った。誰にも聞かせられない愚痴をこぼすこともあった。猫は口答えもせず、誰かに言いふらすこともないので、言いたいことを吐きだすのにちょうどいい存在だったのだ。そのためか、王太子は以前よりも落ち着き、国王夫妻は飼い猫がもたらした効果を喜んだ。

 数年後、王太子は他国の姫君をめとった。ふたりが初夜を迎える寝室には、なぜか王太子の飼い猫もいた。姫君は不思議に思ったが、王太子はこの猫をいたく寵愛していて、夜は必ず自分と同じ部屋で眠らせるというのだった。しかし、猫はふたりに少しも興味がないらしく、寝台からきれぎれの吐息が聞こえてきても、ぴくりとも動かず、窓辺で丸くなって眠っていた。
 王太子の飼い猫は美しいハチミツ色をしており、その色のとおりハチミツと呼ばれていた。ハチミツは基本的におとなしく、飼い猫としての暮らしを堪能しているように見えた。王太子妃となった姫君に対しても、特に攻撃的な態度をとることもなく、気ままに眠ったり歩いたりする。この猫をどこで手に入れたのかと姫君が問うと、王太子は笑って「ハチミツは、ある日突然、私の前に現れたのだよ」と答えた。

 しかし数日後、王太子はハチミツを殺してしまった。
「私から逃げようとしたのだ」
 その手で飼い猫を刺し殺し、床にしたたる血を指ですくいながら、王太子は言った。
「ミツバチが逃げて、お前も逃げるというのか? 私がそれを許すとでも?」

 ハチミツの亡骸は城の庭園に葬られた。
 その日の夜、大地の小人が現れて、背中のとげを青くきらめかせながら、墓の上でささやいた。
「ミツ、ミツ、どうしてもっと早く逃げなかったんだい。お前は運命から逃げると決めて、猫になったんだろう」
 土の中から、人間には聞こえないほど小さな声が答える。
「あぁ、どうしてもっと早く逃げなかったんだろう。私は猫になりきれなかった。猫の暮らしに甘えて逃げなかったくせに、人間の気持ちを忘れられなくて、今さら逃げようとして殺された」
 小人が墓に手をふれる。
「ともにすごす時間が長くなるほど、あの男は自分のものにしようとするんだよ」
「あぁ、あぁ、女でも猫でも変わらない。私は人間扱いされなかったんだ」
 小人の背中のとげから、きらめく光の粒がいくつも散って、墓の上に降りそそいだ。
「お眠り、今はもう、安らかにお眠り」

 翌朝、ハチミツの墓の上に、小さなたんぽぽが咲いていた。
 それを見つけた王太子が花を摘もうとすると、みるみるうちに散ってしまい、あとには枯れた茎だけが残った。

[完]

作品情報

2016年、Amazon Kindleストアで販売していた短編集『月狩り』収録の作品。
(現在は販売終了しました)