沈んだ月の中から 08:守れない城

 いつものとおり、19時に自分の部屋へ戻って仕事にとりかかろうとするよりも早く、それは訪れた。

 夜の高層マンションの中で、がしゃあんと大きな音が響く。
 リビングのソファに座り、コンビニで買った適当なパスタを食べていた俺は、びっくりして体を跳ねさせた。なんだ。いったいなんだ。動きを止め、じっと耳をすませてみるが、再び大きな音が聞こえることはなかった。
 咀嚼していたパスタを飲みこみ、急いで廊下に出て玄関のほうを見やった。オーナーはまだ帰っていない。玄関も廊下もいつもどおりだ。音が聞こえたのは、家の奥のほうだろうか。
 ふり返り、おそるおそる廊下を歩き始めたその時、奥の部屋の扉が開いた。
 俺の部屋だ。

 細い腕が扉を押し開ける。
 その腕の持ち主の全身が悠然と廊下に現れる。
 ポニーテールにタートルネックのシャツを着て、スキニーパンツを履いた彼女は、いつだったか街の中で出会った頃とはまるで印象がちがっていた。身動きのとりやすい服装、鋭い目つき、そして頭上に輝く緑色の光の輪が、くうるりくうるりと回る。
 能力を発動しているヒカリが、スニーカーを履いたままでそこに立っていて、俺をまっすぐに見すえた。

「ごめんね、あんたの部屋、窓壊しちゃった」
 少しも悪いと思っていない口ぶりで、彼女が言う。
「前も言ったけど、このマンション、高級すぎて警備が厳重なんだもん。普通に玄関から入るより、空を飛んで窓から侵入するほうが早いんだよね」
 ごう、と風が鳴って、彼女の束ねた長髪をゆらした。
 高層マンションは通常、窓を開けることができない。風が強くて危険だからだ。
 この家に連れてこられてから初めて、俺は外の風を感じた。荒々しく吹きこむ冷たい外気。かすかに家がゆれたような気さえする。
 なぜ彼女がここへ来たのか。窓を破壊して、まちがいなくマンション全体を巻きこんだ騒ぎになって、オーナーが顔色を変えて帰ってくるだろう派手な真似を、わざわざしてのけるなんて、そんなの、ひとつしかないじゃないか。
「……ヒカリ、俺を殺せって言われたの?」
 口の中は妙に乾いていて、俺は短い台詞をしゃべるだけで、つっかえそうになった。

 ヒカリの表情からは、何の感情も読み取れない。無表情だから怒っているように見えたが、単に能力を発動していてアドレナリンが出ている様子にも思えた。そんなふうに考えたのは、きっと俺が必死で冷静になろうとしていたからだ。
「殺せとは言われてない」
 よく響く声で、ヒカリが答える。
「でも、ラプンツェルを助けろとも言われてない」
 俺のことをあてこすりながら、まばたく瞳は、俺に何かを言おうとしている。
「じゃあ、なんでこんなことを?」
「私のオーナーが現状維持を望んでないの。だから、あんたと沈月にゆさぶりをかけてこいって」
 ヒカリは片足を軽く持ち上げて、つま先でとんとんと廊下を叩いた。ヒカリが履いている靴の裏から、パラパラと何かが落ちる。破壊されたガラスの粉塵や、ここへ来るまでに、空を飛んでくる前に歩いたり走ったりした時についたであろう地面の汚れが、生活感のない高層マンションの廊下に落ちて散らばる。

 なぜか俺は、聞いても仕方のないことを聞いていた。動揺して少しでも時間を稼ぎたかったのかもしれない。
「……ヒカリのオーナーに殺せって言われてたら、俺のこと、殺した?」
 たん、とヒカリが靴の裏を廊下に叩きつける。
 つまらない台詞を聞いたと言わんばかりの顔つきで、彼女がこっちをにらんでいる。
「能力者ってそういうもんでしょ。あんたも私もオーナーの庇護下に入って、オーナーのために能力を使う」
 それ以外の生き方ができればよかったのに。何度も考えたことを、俺を殺しに来たのかもしれない能力者の前でまた俺は考える。
 ヒカリはつまらなさそうに、恐らく何度となく考えて何度となく自分に言い聞かせて納得したのであろう言葉を口にする。
「会社で働くのに比べたら拘束時間が長いかもしんないけどさ、似たようなもんだよね。生きるために仕事してんの。そういう意味ではそのへんの面白くなさそうな顔して働いてるサラリーマンと一緒じゃん」
「そう、だね」
 俺もそう考える以外に、どうしようもなかった。行きすぎた管理に息苦しさを感じていても。愛人呼ばわりされる気持ち悪さでいらだっていても。
 自分には学歴も職歴もない。このままオーナーのあいだを渡り歩いて生きるしかない、でもどうやって次のオーナーへ渡っていけばいいのかわからない。川べりを走ることで、形にならないもやもやした気持ちをどうにか晴らしているだけ。
「何人も殺してきたよ。それが私の仕事だから」
 彼女の声は、ふいに低くなる。
「今さら戻れるわけない」
 彼女の靴の下で、踏みしめられたガラスの破片が、ぐしゃりと音を立てて床を傷つけた。

「そう、実際には私もあんたも面白くない人生だよね。特にあんたはそう。自分の能力が直接相手に危害を加えるものじゃないから、戦うのに向いてないと思って、おとなしく沈月に監禁されてる」
 ヒカリは淡々とまくしたてながら、一歩踏み出す。
「沈月に反発してるくせに、沈月に養われて監禁されて、そこから逃げ出すこともできずに、あんたはただくすぶり続けてんの。こんな能力を持って生まれたって面白くないなんて顔してさ。だったら……」
 彼女は首をかしげて、手の甲で軽く壁をノックした。それだけで壁が爆破されたように音を立てて砕ける。粉塵と破片が廊下に飛び散った。
 緑色の光の輪を輝かせ、ドスのきいた声でヒカリが叫ぶ。
「てめえが自分で面白くしろっつってんだよ!」

 オーナーが息を切らせて帰ってきた時、ヒカリはとっくに窓の外から飛び去っていて、ドアの前には管理会社のスタッフが、そして玄関にはオーナーの部下が立っていた。俺はマンションの情報にも正式に登録されている住人ではあったが、管理会社とやりとりをしたことは一度もない。そういうことはすべてオーナーの部下へ連絡が行くようになっていたからだ。
 めちゃくちゃになった廊下をやむなく土足のままで進み、リビングへやってきたオーナーは、ソファの上で小さくなっている俺を見ると、大げさなほど息を吐いた。廊下を歩くと怪我をするからと部下に言われて、俺はずっとリビングに閉じこもっていた。もちろんヒカリが窓を破壊した自分の部屋にも戻れない。きっとあの部屋もガラスの破片だらけなのだろう。
 能力を発動している時の体を守るため、俺は自分の部屋に守りをかけていた。だから、あの部屋でないと俺は能力を使えない。時間はとっくに俺が能力を使うはずの19時をすぎていたが、部屋の状況からしても、また精神的な混乱具合からしても、それどころではなかった。
「ケイ」
 オーナーが俺の名前を呼ぶ。もう一度、安堵の吐息をついて、ソファに近寄り、ラグの上にひざをついて姿勢をかがめ、俺の顔をのぞきこむ。
「どこにも怪我はないか?」
「……ないよ」
 さっきオーナーの部下にも聞かれたが、怪我自体はどこにもなかった。たまたまなのか、それとも彼女が注意深く避けたのか、彼女が廊下の壁を破壊した時も、こっちには何ひとつ飛んでこなかった。
「念のために病院でみてもらおう」
「いいよ」
「ケイ、何かあったら困るだろ」
「……じゃあ明日にして。今日は行きたくない」
「わかった。じゃあ明日の朝に連れていくから」
 まるで本物の父親みたいなことを言うんだな、と頭のどこかでぼんやり思った。
 お父さん。
 恐らく前のオーナーのせいで、俺の家族はいなくなった。孤児になったばかりの俺を前のオーナーが養子にして、俺は今よりずっと子どもで淋しくて、前のオーナーにどこか父親のかわりのようなものを求めていて、しょっちゅう前のオーナーと雑談したりしていた。
 そのことをいまだに今のオーナーは根に持っていて、前の飼い主を忘れられないのかと怒る。
 前のオーナーから俺を引きはがしたのはお前のくせに。

「明日、病院が終わったら、そのまま新しい家に行こう。ここはもう使えない……いったい何があった?」
 オーナーが俺のほおをなでて、無理やり目線を合わせる。
 普段の自分だったら絶対にさわられるのを嫌がって、その手を無理にでも払いのけているはずだった。
 どこまで本当のことを言うべきか。どこまでこいつのことを信じるべきか。
 迷いが生じて、どうでもいいことを口にする。
「ごめん、今日は仕事できなかった……多分、明日もできない」
「こんなことになったら当然だ。でも新しい家でお前の部屋の準備ができたら、なるべく早めに情報を集めてくれると助かるね。お前の身を守るためにも」
 まるで幼い我が子をなでるみたいに、オーナーの指が俺のほおをなぞる。今までだったら、その感触にぞっとして逃げていたはずだった。
 今だって、俺の一部が逃げようとしている。わかりやすく反発して離れろと叫んでいる。
 でも、俺の他の一部は自分が殺されるかもしれないと感じた恐怖でおびえていて、別の一部はオーナーを利用しろとささやいていて、また別の一部はオーナーに助けを求めろとうなずき、オーナーに情報を渡すなと首をふり、どうでもいいから助けてほしいと訴えていた。複雑なひだが、くっきりと形をとって浮かび上がる。
「沈月……俺、怖いよ」
 目を伏せたまま、俺は生まれて初めてオーナーの名前を呼んだ。