となりの水星人

 そのアホが自分のそばに座っていたのは夕暮れ時だった。
 何の予定も入れていなかった土曜日、気ままにぶらりと家を出て、スーパーでのど飴を買い、散歩がわりに嵐電にでも乗ろうかと北野白梅町駅の改札をくぐった土曜日、ホームのベンチに腰かけていた時だ。
 気がつくと、となりにアホが座っていた。
 アホでなければ、誰があんなふざけたことを言うのだろう。

「ここは涼しいね」
「はぁ?」
 ホームのベンチに腰かけていたら、いきなり話しかけられた。何を言われたのかわからずにカギムラは聞き返す。
「ここは涼しいねって言ったの」
「……涼しいですか? 俺めっちゃ暑いんですけど」
 温暖化が叫ばれる昨今、八月の京都の気候は決して涼しくないと思う。まるでサウナだ。
 どっちにしろ、温暖化でなくても一年のうちで一番暑い頃じゃないのか。ここは北半球だし。
「涼しいよ。私のところは、もっともっと、とても暑いもの」
 あまり男らしからぬやわらかな声音でそう言ったとなりの男は、汗ひとつかいていない。
 とりわけ特徴的な外見の男ではなかった。ひょろりとしていて成人男性にしては少し小柄で、髪は黒くて短い。英字プリントのピンクのTシャツを着て、穴の開いた黒っぽいジーパンをはいていた。
「外国からいらしたんですか」
「うん、まぁね」
 外国人とは思えない日本語だったし、別に興味もなかったし関わりたくなかったけれど、聞いてやるのが礼儀のような気がしてカギムラは仕方なく尋ねた。
「どこなんですか」
「すいせい」
「……すいせい?」
「そう。知らない?」
「すいません、そんな国ありましたっけ」
「国じゃないよ、星。星星」
 カギムラの思考がゆっくりと停滞していく一方で、もうひとつの何か、第六感のようなものがものすごい勢いで目を覚ましていくのを感じる。
 ちょっと待て。こいつ、なんて言った。
 男は薄く微笑む。
「太陽系で、太陽から一番近い惑星の水星。知らない?」

「……あぁ、その水星なら知ってます」
 カギムラは営業用の笑顔を向けた。
「うん、だからすごく暑いんだよ。ここは涼しいね」
 男は特に頭がいかれている様子もない。至極落ち着いて、やわらかな声で話している。それだけに不気味だ。
 わざわざ駅へ来てしまったことをカギムラは後悔した。
 ホームに電車が入ってくると、男もカギムラと同じ車両に乗った。ローカル線だから本数も多くないし、車両だって二両しかない。変に避けるのもおかしく見えるかもしれないと思ってカギムラは逃げなかったが、男に近づこうとはしなかった。
 二駅目でカギムラは降りた。男が降りてこないのを確かめ、電車が行ってしまうのを見送ってから、反対方向のホームに移動する。今日はさっさと帰ってしまおう。そう思った。

「で、なんでここにいるの、あんた」
 カギムラの口調はすっかり丁寧さを失っている。
「昨日も駅のホームで会ったよね、カギムラさんって言うんだ」
 水星人を名乗る男は、カギムラが住むマンションの廊下でへらへらと笑った。
「先週引っ越してきたんだけどね、ばたばたしててあいさつが遅れちゃって。すみません」
 嘘だろう。なんだってそんな男が自分のとなりの部屋に住んでいるのだ。
 やばいやばいやばい、と警鐘が頭の底で鳴り響いたが、なぜかその音を薄れさせてしまう何かが目の前の男にはあった。めちゃくちゃ怪しいのに、不気味なのに、ていうか事情を考えたら怖くてしょうがないのに、なんだか力が抜けていく。警戒心を失わせる男だ。
 もしかして、それも相手の作戦のうちなのか。
 カギムラは、へらへら笑う顔を見つめ返した。
「……水星から来たのに、お名前は山本さんって言うんですか」
「それがさ、ここ借りてるのって友達の名義だから、私の名前じゃないんだよね。住むのは私なんだけど」
 やっぱりそれ怪しくないか。しかも山本ってめちゃくちゃありふれた名前じゃないか。
「ちなみに、そのお友達の山本さん、下のお名前は」
「太郎さん」
 怪しいの確定。太郎って。まさかテレビに出てくる山本太郎ではあるまい。絶対に。
 それなのに、迫力も威圧感も存在感もまるでない男を見ていると、カギムラはその場を離れる気力も毒気も抜かれて普通に質問を投げかけてしまうのだ。
「あなたのことは山本太郎さんって呼んだらいいんですか」
「うーん、それは山本さんに悪い気がするなぁ。あ、でもね、私の名前、日本人には難しくて呼びにくいだろうし……」
 自称水星人は腕を組んで、うぅんうぅんとゆれながら悩んでいる。
 なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。子どもの真剣なごっこ遊びにつきあっているようなものだ。なんだこれ。
 カギムラは投げやりな気分になってきて、投げやりな言葉を口にしていた。
「じゃあ水星さんって呼びますよ」
 男はぱっと顔を上げて、次の瞬間、まるで敵意のない様子でにっと笑った。
「あっ、それいいね。このへん、私以外に水星の人はいないから、まちがえないし」
 ……力が抜ける。
 自分は何がうれしくてこんな会話をしなければならないのかと思ったカギムラに追い討ちをかけるかの如く、男は左手にぶら下げていた引っ越しそばの袋を差し出して笑った。
「よろしくお願いします。そのうち慣れてきたら呼び捨てしてくれていいよ。おい、水星ってね。なんかその方が親しみがあっていいよね」
「……考えとく」

 こうしてカギムラのとなりに、自称水星人の水星さんがやって来た。

 ベランダに出て、晩夏のぬるい風を浴びながら缶ビールを飲んでいると、となりでがちゃん、がらがらと窓を開ける音が聞こえた。ふああ、と男のまぬけな声がする。
「水星さん、帰ってたんすか」
「わぁ」
 近づいてくる足音がして、ベランダの仕切りの端から、ひょいと男が顔をのぞかせる。
「カギムラさん、いたの」
「ビール飲んでたんすよ。ちょっとは涼しいかと思って」
「いいなぁ、僕もなんか飲もう」
 自称水星人の水星さんは、ぱたぱたと軽い足取りで台所に向かい、すぐ戻ってきた。くきゅっと小さな音を立てて、ミネラルウォーターのペットボトルのフタを開け、ベランダの塀にもたれかかって飲み始める。
「ビールとか飲まないんすか?」
「僕はお酒飲めないの。コーヒーも無理」
 水星さんはペットボトルから口を離し、ふっと息を吐いた。最初は「私」という丁寧な一人称を遣っていた水星さんだったが、最近は少しくだけた言葉遣いを覚えたらしく、「僕」と言い始めている。半年もすれば「俺」になるのかもしれない。
「この国は、僕くらいの年齢と外見をしていたら、お酒もコーヒーも飲めると思われるみたいだね」
「外見?」
 ビールをのどに流しこんでカギムラが尋ねると、水星さんは、えーっと、と少しうなった。
「あぁ、そうだね、男性の外見ってこと」
「水星さん、男じゃないんですか?」
「うーん、そのねぇ、水星ではまたちょっと事情がちがうの。環境設定が」
「環境設定って、ははっ、マシンみたいな言い方」
 小さく笑いながら、カギムラは軽くなった缶を左右にふって残りの量を確かめた。そろそろ二本目をとってきた方がいいかもしれない。
「どう言えば適切なのかな?」
「いや、いいですよ、それで。……地球とは性別がちがうって意味?」
 この際だから水星さんの水星人トークに乗ろうと決めて、カギムラもベランダの塀にもたれかかり、仕切りの向こうにいる彼の顔を眺めた。ビル越しに沈みかけている夕日の光と影が、水星さんの横顔をオレンジとネイビーに染める。
「そうだね。若い頃は、地球での男性と同じ役割になるね。妊娠しない。もっともっと成長して体が大きくなると、妊娠する方になる」
 予想外の答えに、カギムラは目を見張った。
 夕日の破片が、水星さんの手の中でペットボトルをきらめかせる。
「……えっ、てことは、一生のうちに性別が変わるわけ?」
「そうだよ。地球でも、そういう生き物はいるでしょ。一部の魚とか」
「知らんかったわ」
「いるんだよ。生き物って、妊娠して出産するためには、パワーが必要なんだよね。若すぎると体も小さいし、弱くて出産に適さないから」
「……そう、なん、や」
 あっけにとられて、二本目のビールを飲もうと思っていたことも忘れたまま、ぽかんと虚空を見つめる。ふいに思いついて、となりの自称水星人の顔を見上げた。
「水星さんって、いくつなん」
「んー?」
 日が沈み、だんだんオレンジよりもネイビーが濃くなっていく世界の中で、水星さんはあいまいに微笑んだ。
「地球では、二十五歳ってことになってるよ」

 単身者用のマンションの住人たちは、互いに交流もなく、たまにエントランスやエレベーターで遭遇して軽く会釈する程度だ。毎朝の出勤時間も異なるらしく、カギムラはあまり水星さんと顔を合わせることがなかった。そもそも、水星さんは何をしているのか定かでない。水星人を自称する男が、会社で仕事などするだろうか。
 しかし、なぜかベランダで仕切り越しに何度か会話することがあって、カギムラは水星さんの仕事を聞きだす機会に恵まれた。
「短期のバイトだよ」
 ペットボトルの水を飲みながら、水星さんは軽い調子で答える。
「いろんな工場に派遣されて、荷物運んだり、箱詰めしたりするの」
「ふうん。なんで短期?」
「僕、ずっとここにいるわけじゃないから」
 缶ビールを持つ指に、一瞬だけ力が入ったけれども、めきりと音を立てることはなかった。カギムラのわずかな動揺に気づかない様子で、水星さんはいつものように、緊張感のない顔つきのまま話し続ける。
「わざわざ地球まで来てるのは、移民のためじゃないんだよ。用事があって来てるの。いずれ、僕は水星に帰らないといけないから」
「えー、淋しいやん」
「ふふっ」
 夕暮れのオレンジとネイビーに色分けされた、くったくのない笑顔。
「うれしいなぁ、そんな風に言ってもらえて。カギムラさん、僕にもタメ口で話してくれるようになったのにね」
「ホンマやで。えっ、いつ帰るの」
「まだ決まってないんだよ。用事が終わるまでは帰れないから」
「用事?」
 水星さんは、まるで十代のアイドルの女の子みたいに、口の前で人差し指を立てて、あざといしぐさでふざけてみせた。
「ひみつ」

 秋が訪れ、日暮れの時間も次第に早くなってきた。肌寒いのでベランダに出ることもなくなり、カギムラが水星さんと顔を合わせる回数も減っていった。
 だから、久しぶりに水星さんと出くわしたカギムラは、彼の変化にすぐ気づくこととなった。
「あれ、水星さん」
「わぁあ、久しぶり」
 自分の部屋番号の郵便受けを閉めたちょうどその時、マンションのエントランスに水星さんが入ってきた。笑顔を浮かべる彼に、カギムラはいぶかしげな視線を返す。
「……あれ? 水星さん、ちょい太ってへん?」
「んー、太ったっていうか、むくんだっていうか」
「ちょっと、顔とか大きくなってる気がするけど」
 そうかぁ、と水星さんは緊張感のない顔で笑った。太ったと言われても特に嫌な気持ちにはならないらしい。カギムラはつい、相手が喜ばないであろう事実をそのまま口にしてしまいがちなのだが、水星さんが不愉快そうなそぶりをすることは一度もなかった。いつも人なつっこい笑顔で、カギムラの言葉を受け流す。そういう性格なのか、処世術なのか、それとも水星さんの故郷ではこれが当たり前なのか。
 いや、水星さんが本当に水星人だと信じているわけではないのだが。
 エレベーターに乗りこんだふたりは、わずかな時間のあいだに、たわいもない話をした。郵便受けに入っていたピザ屋のチラシの話だったかもしれない。エレベーターが目的の階に到着する頃、水星さんはこう言った。
「僕ね、思ったより早く帰ることになるかもしれないんだ」
「え、どこに」
 エレベーターのドアが開く。ほんのかすかに、水星さんが淋しげな目をする。
「水星」

 そろそろジャケットを厚手のものに変えようか、それともコートを出そうかと迷いながらクローゼットの前にたたずんでいると、インターホンが鳴った。
 よほどのことがない限り、カギムラはインターホンが鳴っても居留守を決めこむ人間だった。運送会社が荷物を運んできたり、友達が遊びにきたりするなら、事前に連絡があるはずだ。突然の訪問はたいてい、ろくでもない用事だった。新聞の勧誘だったり、よくわからない営業だったり。
 ただ、その夜はなぜか気が向いて、足音を立てないように玄関へ行き、ドアののぞき穴を隠すために貼りつけていたポストカードを少し持ち上げて、訪問者の顔を確かめた。そして、ドアを開けた。
「どうしたん、水星さん」
 以前よりもさらにふくよかになった水星さんが、そこに立っていた。へらへら笑っているけれども、どこかいつもとちがう。
「えっと、夏場はベランダから話しかけたりできたんだけど、最近、寒いから。夜遅くにインターホン鳴らしてごめん」
「いや、気にせんでえぇけど。上がる? 廊下に声が響くやろ」
 水星さんは遠慮がちに部屋の中へ入ってきたが、靴を脱ごうとはしなかった。閉めたドアの内側で、玄関に立ったままだ。
「急な話で悪いんだけど、今から帰るんだ」
「え?」
 突然の言葉の意味がわからず、カギムラはただ水星さんの顔を見返した。さざなみひとつ立てない、凪いだ水面のような微笑み。
「今夜、地球を出るように通達があった。だからお別れを言おうと思って」
「……帰る?」
「うん」
「……すい、せい、に?」
「うん」
 水星さんは手ぶらだった。そうか、部屋にいったん戻ってから出発するんだな、と思ったカギムラの考えを読んだみたいに、水星さんが口を開く。
「荷物は全部置いていくよ。そのうち、部屋の持ち主が処分すると思う。山本太郎って名前の人間がね。本当は友達じゃなくて僕の担当者だったんだけど。……もともと、僕が持ってきたものなんてないんだ。全部、こっちの備品だから」
「なんか持ってったらえぇやん」
「……地球のものは持ちこめないよ」
 そうか、じゃあお土産も持っていけないんだな。カギムラは漠然とそんなことを思った。
「あの、水星さんの用事、終わったん?」
「この通り」
 水星さんは両腕を広げてみせた。
「僕、太ったよね。実は背もちょっと伸びた。それが目的だったの」
「目的? なんで?」
「体が大きくなれないと、僕はいつまでたっても男性のままだから」
「……え?」
「もうすぐ、僕は地球で言うところの女性になるの。だから帰るよ」
 ゆっくりとカギムラの頭の中で、記憶が回転を始める。そういえば、いつだったか、ベランダでそんな話をしたことがなかったか。若い頃は妊娠しない。成長して大きくなると妊娠する。一部の魚みたいに。
「……そのために?」
 水星さんは微笑みを浮かべたまま、そうそう、とうなずく。
「どんなに男性がたくさんいても、それだけだと滅んでしまうでしょ。僕みたいに成長が遅くて、なかなか女性になれない人間は、地球に送りこまれるの。重力が大きくて、涼しくて、栄養たっぷりの環境で成長を早めてから、水星に戻るんだ」
「そんな、アホな……」
 なんだってそんな大がかりなことをしなきゃならないんだ。あきれて言葉を失ったカギムラの前で、すでに水星さんは別れのあいさつを締めくくろうとしている。
「カギムラさんと、いろいろおしゃべりできて楽しかったよ。普通は黙ってこっそり帰っちゃうんだけど、ちゃんとさよならを言いたいなって思って。今までありがとう」
「いや、そんな、俺もお世話になりました……って、ちょっと待って、待って」
 今にもドアを開けて出ていきそうな雰囲気をあわてて打ち消すように、カギムラは両手をばたつかせた。
「……もう、会えへんねんな」
 水星さんは少し淋しそうに目をそらした。
「多分ね。帰ったら、あとは出産と育児のラッシュだし、地球に来るのは原則的に妊娠できない状態の人間って決まってるから。でも……」
 いつものように、見る者の警戒心を失わせる、へらりとした笑顔で水星さんはこう言った。
「もしかしたら、また遊びにこれるかもしれないね。できたらいいなぁ。そしたら僕、またカギムラさんに会いにくるよ」
「……スルーすんなよ。ちゃんと顔出せや」
「うん」
 水星さんは、胸の前で手を交互にグーとパーの形に変えながら、別れを告げた。
「じゃあね」

 そのアホが自分のとなりに住んでいたのは、たった半年のことだった。
 アホでなければ、誰があんなふざけたことを言うのだろう。
 水星人の水星さん。しかも、部屋を借りていた「友達」の名前は山本太郎。ふざけているにもほどがある。
 彼の本当の名前がなんだったのか、それすらも今となっては知るすべがない。

 でも、カギムラは、そんなアホみたいな男にもう一度会って、とりとめもないことをだらだら話したいと思っているのだ。
 ベランダで立ち話をしていた、あの時のように。
 そして一度だけ、親しみをこめて、「なぁ、水星」と名前を呼び捨ててみたいと思う。

[完]

作品情報

2015年、Amazon Kindleストアで販売していた短編集『メリーメリーライモンダ』収録の作品。
(現在は販売終了しました)

2015年の作品なのですが、タイトルと前半のネタを思いついたのは2008年頃です。