沈んだ月の中から 05:見えない光

 今日も川べりを走ろうと思って外を歩いていたら、若い女性の声がした。
「あのう、すみません、道を教えてほしいんですけど」
 まさか自分に話しかけられると思わなくて、俺は一瞬ぽかんとする。ベージュのカーディガンにグレーのスカートという格好の女の子が、スマホを手に笑いかけていた。
「え、あ、はい」
 そういえば、俺はオーナー以外と口をきくことがないし、そのオーナーにしたって毎日会って会話をするわけじゃない。他人と話す、それも異性と話すこと自体がものすごく久しぶりなのだと唐突に気づいた。
 女の子はスマホの画面を俺に見せ、「ここに行きたいんですけど、地図がわかりにくくて……」と言いながら俺のとなりに並ぶ。そして、さっきまでのよそいきの声が嘘のように、低くひそめた声でこう言った。
「あんた、能力者だよね?」
 胸にひやりとしたものが走る。俺が何か言う前に、彼女がささやいた。
「私もだよ。あんた、尾行されてるでしょ。バレないように話がしたいだけだから。道案内するふりしながら歩いて」

 こっちですかぁ、とよく響く声を上げて、彼女は俺と並んで歩き始めた。尾行に気づかれないよう、声をひそめて話しながら。
「私はヒカリ。あんたの名前は?」
「……ケイ」
「ずいぶんがっちり監視されてんじゃん。あんた、オーナーに何かしたの?」
「……別に……」
 他のオーナーはここまでしないのだろうか。それにしても彼女は何なんだ。どう考えても待ち伏せされてたよな。尾行がついていることも知ってるし。俺はちらりと彼女を見た。俺とそんなに背丈も変わらない。
「……どこまで俺のこと知ってんの」
「あんたがラプンツェル状態になってることくらいかな。家は割り出せたのに、あんたの名前はわかんなかったんだから笑えるよね」
「あの、ヒカリ……さんは、どんな能力を持って、るの?」
 人と話し慣れていない上に、尾行を警戒しているので出てくる言葉もたどたどしい。一方、彼女は俺よりも話すことに慣れている様子だった。俺を誘導して歩きながら、ささやく。
「人をね、殴るんだよ。内側から。殴って砕くの」
 思わず立ち止まりそうになる。彼女ににらまれ、かろうじて歩き続けた。
「だからオーナーは私に変なことできないんだ。誰だって殺されたくないでしょ」
 俺が日頃ずっと気にしている心の底を、えぐる言葉。俺は答えずに息を吐いた。彼女の足は繁華街に向かっている。人が多い場所に行けば、尾行に話を聞かれる可能性も低くなるってわけか。俺の内心の動揺を知ってか知らずか、彼女は声をひそめたまま、あっけらかんと続ける。
「おかげで破壊することしかできなくてさぁ。あんたと尾行なしで話がしたくても、あんたの家って高層マンションだし、へたに窓割ったら危ないじゃん。フロアごとに人が見張ってて、監視カメラまであって、全部壊したらあんたのオーナーにバレて逃げられちゃう。私は調べ物とか苦手だから、せっかく家を突き止めたのにそれは困ると思って、外で待ってたんだ」
「……本当にそんな能力、あるの?」
「やってみせようか? あんたのスマホ出して。一瞬で終わる」
「持ってないよ。……監視されるの嫌だから、ずっと家に置いてる」
「うっわ。そこまで?」
 彼女は小声で叫んだ。
「あんたの能力は? 物理で殴る系じゃないんでしょ」
「……情報、集めるやつ」
「諜報担当ってわけね」

 すでに俺たちは繁華街を歩いていた。ふと、どこかのビルから出てきた若い男が、俺を見て「おぉ」と声を上げる。
「おいおい、浮気か? 旦那の愛人のくせに女連れとは、いいご身分だな」
 彼女は無視して通りすぎてから、「知り合い?」と聞いた。
「ちがう。……多分、オーナーが行ってる店のスタッフか何か」
「愛人って言われてたね」
「俺は愛人じゃない」
 彼女は冷めた目つきで、居並ぶビルを見やった。
「オーナーがあんたを愛人だって言いふらしてるとか?」
「そう、かも」
「へえ。ガッチガチに監視つけて尾行つけて愛人呼ばわりとか、変態じゃん」
 ふと、俺は心が軽くなっているのに気づいた。ずっとひとりで、ひきこもって、漫画を読んで、川べりを走ってた。自分の境遇を誰にも話せなかったし、話せるわけがなかった。でも今、俺のことを知っていて、オーナーはおかしいんだとはっきり口にする人がいる。そういえば、俺はオーナーをおかしいと言ったことはあっても、変態だと呼んだことはなかった。そういう言葉すら口に出せなかった。何かを刺激してしまいそうで。
「……変、だと思うよ。オーナーの寝室に、俺の監視データがごっそりあった。写真とか。今も尾行に動画を撮られてる」
「き、も、ち、わ、る、い」
 彼女は小声で吐き捨てた。俺もそう思う。
「あんた、本当に何もされてない? 大丈夫?」
「大丈夫」
 オーナーの寝室で突き飛ばされた記憶がよみがえる。胸を押されて、ベッドの上に倒れた。のしかかったオーナーが俺の首をつかんで、「お前は俺のものだ」と言った。首が痛い。胸が痛い。俺は記憶をふり払う。
「……何もないよ」

 繁華街のけばけばしい看板が並んだ道の向こうに、駅が見えてきた。あっ、あそこですかぁ、とよく聞こえる声を上げてから、彼女はささやく。
「あの駅の手前で別れよう」
「……結局、何が目的?」
「あんたと話したかった」
「だから、なんで?」
 ふいに彼女は無表情になって、スマホをカバンの中に突っこんだ。
「ジンゲツって言うんでしょ、あんたのオーナーの名前」
 俺は一度も呼んだことがない。
「沈んだ月って書いてジンゲツ。沈月。変わった名前だよね。ペンネーム? それとも中国系とか?」
「知らない」
「あんたのオーナーのこと、私のオーナーが調べてた。そしたら能力者を囲ってるじゃん。オーナー同士で敵対するのは避けたいから、私が偵察に来たの」
「敵対? なんで」
「知らない。それこそ商売敵とかじゃないの」
 いやちがうな、別のことを調べててあんたのオーナーにたどりついたんだっけ、と彼女はひとりごとのように言った。
「ごめん。あんたに恨みはないけど、悪いことしたかも。尾行がついてるのに連れ回しちゃって」
「いいよ」
 俺はあわてて首をふった。話ができてよかった、そう言おうとして口をつぐむ。敵対を避けたいということは、何もしなければいずれ敵対するという意味じゃないのか。オーナーに何かあれば、俺は今の生活を続けていられない。ひとりで生きていくすべを見つけるのか、新しいオーナーを探すのか。そもそも今、俺の周りで何が起きようとしているのか全然わからない。考えないといけないことが、たくさんあるみたいだ。
「……沈んだ月って、暗い名前」
 彼女が歌うようにつぶやく。そのまっすぐ伸びた髪が風になびいた。もうすぐ駅だ。

 俺の能力は、俺が操れるというのとは少しちがう。むしろ俺を器にして、勝手に湧き出て暴れる生き物に近い。俺がオーナーだと認めた人間のために、いろんな情報を集めてくる。それを俺は無意識のうちに紙へ書きつける。夢遊病者みたいだと思う。だからどんな情報が集まっているのか、オーナーが何を調べたがっていて、実際に俺が何を調べたのか、俺自身はわかっていない。ただ、情報が俺の体を通り抜けていくだけなのだ。
 昼間会ったヒカリという女の子のことも、彼女のオーナーのことも、もしかしたら俺は情報を集めることができたのかもしれないし、すでに集めていたのかもしれない。俺が知らないというだけで。
 そう思いながら、俺はいつものように能力を使い、文字やイラストでいっぱいになった紙を箱に投げこみ、シャワーを浴びて眠りに落ちた。

 眠くて頭が重い。かすかな声が聞こえる。何を言っているかはわからない。少し明るいようだ。もう朝なのだろうか。まぶたを上げると、見慣れない景色がそこにあった。俺の部屋じゃない。ベッドの近くに誰かの背中があった。背中越しに何かが光を放っていて、部屋がわずかに明るい。そこまで見てとって気づいた。これはオーナーの寝室だ。あの光はデスクトップPCのモニタだ。
 背中がふり向いた。ジャケットを脱いでネクタイをはずした姿のオーナーが、逆光の中で俺を見下ろす。
「目が覚めたのか」
「……なんで俺、ここにいんの」
 前も似たようなことを聞いた気がする。
「起こすのはかわいそうだと思ったんだけどね。聞きたいことがあったから」
 オーナーの顔は笑っていない。
「昼間、話をしていた相手は誰だ?」
 やっぱり聞かれるんだな。オーナーの肩越しにモニタが見えた。俺が彼女と並んで歩く後ろ姿が映っている。
「……知らない子だよ。道を教えてくれって言われて、途中までついて行った」
「それだけじゃないだろう。……何を話した?」
「ただの、世間話」
 ふっとオーナーが鼻で笑う。
「お前が世間話?」
 起き上がろうとした俺を、オーナーが左手でおさえつけた。五本の指が杭のように俺の胸の中央をベッドに縫いつける。
「まだ話は終わってないぞ。お前、何を隠してる?」
「何もねえよ」
 かつんと音を立てて、オーナーは右手でモニタをノックした。
「ケイ。普段のお前なら、この子の情報を集めたはずだ。口ではどんなに反抗してても、お前はちゃーんと俺が気になる相手を調べてくれるからな。俺が何も言わなくても。それなのに今日はどうした? まったく情報が出てないじゃないか」
 デスクの上には、オーナーが箱から回収した紙の束が散らばっている。
「それは……俺にもわからない、けど」
 彼女が能力者だからだろうか。もしかして防壁のようなものがあるのか。しかし、彼女が能力者だと告げる気にはなれなかった。こいつには教えたくない。それに、俺は自分の意志で能力を操れるわけじゃないんだと再三説明しても、こいつは理解しようとしないのだ。眠りを邪魔されたこともあって腹が立ってくる。
「わざとやってるわけじゃないって何度も言ってるだろ。お前がその子に興味がなかったか、もしくはその子に何かがあって俺の視線が届かなかったか、どっちかだよ」
 オーナーは低い声で尋ねた。
「何かって?」
「知るか」
 オーナーの左手をはねのけて立ち上がる。俺が荒々しくドアを開け閉めして自室に戻るあいだ、オーナーは何も言わなかった。