沈んだ月の中から 04:逃げない猫

 ウォークインクローゼットには、俺の名義のクレジットカードが未使用のまま置いてある。このマンションに連れてこられてすぐにオーナーが用意したものだ。利用限度額は忘れたけど、どうせ俺が必要とする金額より多いだろう。どこで何を買ったのか、すべて記録としてオーナーの手元に残る。それが嫌で一度もカードは使っていない。
 結局、あきれたオーナーが定期的に現金を置いていくようになった。ダイニングテーブルの上にむきだしで置かれた万札。ほとんど家に寄りつかない親が、子どもに生活費を置いていくみたいだと思う。俺はあいつのこと好きじゃないし、あいつが自分の親だったらと考えただけで寒気が走るけど。テーブルの上の現金は俺の生活費には多すぎて、いつも余っている。俺は財布を持っていないから、必要な分だけポケットに突っこんで出かける。帰ってきたらテーブルの上に戻す。おかげでダイニングテーブルには、いつもお札と小銭が散らばったままだ。

「……俺、否定形ばっかりだな」
 自分が紙に書き殴った文章を、浴室で燃やす前に読み返して、思わず感想を漏らした。逃げられない。自由がない。自分はこの先どうなるかわからない。そんなことばかり書いている。
 燃えカスを丁寧に指でつぶして、粉になったそれを排水口に流しながら、もう少し自分の生活に変化をつけようと俺は思った。ひきこもっているせいで、ますます気がふさぐのかもしれない。尾行がつくことはなるべく忘れて、散歩でもしよう。オーナーに監視されているからって萎縮したら駄目だ。こんな生活、何年もやってるんだから。

 あの有名な漫画『ガラスの仮面』に、「二人の王女」という演劇が出てくる。天使のように無邪気な王女アルディスと、監獄で暮らした過去を背負う王女オリゲルドが登場するお話だ。主人公とライバルは、それぞれアルディスとオリゲルドを演じることになる。その演技指導の際、オリゲルド役になったライバルは、確か好きな動物を聞かれて「鳥が好きです」と答えていたと思う。俺の記憶が正しければ、彼女は「監獄の格子窓から見える動物は、空を飛んでいる鳥だけだから」という理由でそう答えるのだ。
 散歩中に鳥を見かけただけでそんな場面を思い出すくらいには、俺は自分の現状を監獄みたいだと感じているらしい。
「……なんで俺、逃げないんだろうな」
 小声でつぶやいた。川べりの道には、散歩する人、ジョギングする人、犬の散歩をする人。まるでドラマのワンシーンだ。少し風が吹いて、川の水面が波立った。川面に浮かぶマガモのつがい、首をひょこひょこ動かしながら歩くハト、電線に並んだスズメ、ビルの屋上で羽を広げるカラス。鳥たちはどこにでもいる。どこにでも行ける。俺とちがって?
 痛めつけられるのが嫌だから、俺はおとなしく今のオーナーの支配下に入った。俺の学歴は高卒で、職歴は真っ白。社会性とか協調性とか多分ほとんど育ってない。ただのニート同然の俺が、自分をニートだと思わずにいられるのは、特殊な能力があったからだ。これがあるからオーナーの監視つきで暮らしていけるし、これがあるせいで俺は「金はあるけど監視されてて軟禁状態」の暮らしから出られないし、その状態に甘えて駄目になっていく。
 駄目になっていく?
「俺……駄目、なのか」
 自分で自分を駄目だと思っていたことに気づいて、しばらく呆然と川を眺めていた。
 漫画みたいに全力で何かをしたことなんてないし、情熱を燃やしたこともない。別にそれでいいと思ってる。でも、あの高層マンションに飼われたまま、勉強もせず仕事もせず、野望を抱くことも家族をつくることもせず、ただ年をとって、それで俺はいいんだろうか。もともと結婚とか育児とかできると思ってなかったけど、でも、本当に俺は、ただただオーナーの言うとおりに能力を使って、それ以外は適当に食事して漫画を読んで寝るだけの生活で、本当にいいのか?
 年をとったら、どうなるんだろう。能力も衰えるんだろうか。その時はどうしたらいい? どうやって生きのびる?

 川べりを散歩した日の帰りに、ふと気が向いてジャージを買った。次の日からジャージを履いて、ちょっとずつ川べりを走るようになった。ぐちゃぐちゃ悩むくらいなら体を動かしたほうがいいと、昔読んだ本に書いてあったのだ。全然運動してなかったので、本当にちょっとずつ。少しでも足が痛くなったら、立ち止まってゆっくり歩く。オーナーの部下はいつも俺を尾行してるはずだけど、俺が走ってる時は一緒に走ってるのかな。そう思うと少し笑えた。でも、わざわざふり返って確かめたりはしない。
 走り始めてから半月もすると、能力を使う時にも変化が現れた。俺の頭上で交差する緑の光の輪も、俺の周りを飛びかう火の玉も、以前より動きが少し速くなったのだ。多分、俺が意識を飛ばして情報を集める時の速度も前より上がっている。体力や健康状態に左右されるものだと知ってはいたけど、ちょっと走っただけで変わるなんて思わなかったから、少し驚いた。
 これ、もしかすると、俺がもっと体力を身につけたら、俺の能力も上がるのかな。
 もっと強くなれるだろうか。
 自分のことを駄目だと思わないで済むように。

 それからは毎晩、風呂のあとでストレッチを始めた。いつも能力を使ったあとだし、すごく眠いんだけど、少しでもいいから続けようと思った。続けたいと思うようになったのだ。今まではそんなの面倒くさいと思っていたし、さっさと寝てしまいたかったのに。
「人間、思ったより簡単に変わるんだな」
 ちょっとうれしくなって、俺は上機嫌のまま布団に入った。

 朝10時に起きると、人の気配がした。朝からオーナーがいるらしい。珍しいことだ。オーナーは曜日に関係なく働いているようで、いつも日付が変わってから帰ってきて、朝は俺が起きるよりも早く出ていく。といっても、毎朝俺が起きるのは10時頃なので、普通の会社員にとっては昼に近い時間帯なんだろうけど。とにかく、俺が起きた時、家にオーナーがいることなんて、めったにない。
 洗面所で口をゆすいでからリビングに行くと、ソファに座ったオーナーがタブレットをにらんでいた。スピーカーから音楽が流れている。なぜかオーナーはあまりテレビを見ないので、リビングのテレビはいつも真っ黒な絵画のように無音で鎮座し続けている。
「おはよう、ケイ」
「……おはようございます」
 俺はそのままキッチンに向かった。マグカップに牛乳をそそぎ、電子レンジで温める。そういえば、プロテインを飲むと筋肉がつきやすくなるんだっけ。今度買ってみようかな。ドラッグストアで買えるはずだし。電子レンジの中で回転するマグカップをぼんやりと眺めながら考える。マグカップを持って座ると、オーナーが俺に顔を向けた。
「どういう心境の変化だ」
「へ?」
「いつも俺を避けるくせに、今日は普通に俺のとなりに座ったじゃないか」
 そういえばそうだ。今までなら、俺はオーナーがいると気づいた時点で部屋から出ようとしなかったし、のどが乾いてからしぶしぶリビングに向かったものだった。キッチンに立ったまま牛乳を一気に飲みほして、さっさと出ていこうとしていたはずだ。なんでかな。迷いながら、温めた牛乳を飲む。そうだ、プロテインを買おうなんて考えたりしていて、オーナーのことを気にしてなかったんだ。
「……ぼうっとしてて」
 俺の返事に、オーナーは納得しなかったらしい。
「最近、ジョギングをしているそうだな」
「そんな立派なもんじゃないけど」
「ジョギングはジョギングだろ。どういう心境の変化だ」
 あぁ、そっちも含めての質問だったのか。
「別に……じっとしてるのに飽きたから、軽く運動しようかと思って」
 悪いことじゃないはずなのに、なぜか俺は言い訳をしている気がした。オーナーのせいだ。俺の行動に変化があったことを、オーナーはよく思っていない様子だった。タブレットを置いて、本格的に俺を問いつめる姿勢に入った。

「運動をするのはいいことだ」
 わざとらしくゆっくりとした声で、オーナーは言う。
「お前にはなるべく健康でいてほしいからな。ただ、人生つまらんみたいな顔をして適当にメシ食ってひきこもっていた人間が、急に活動的になるっていうのは気に入らない」
「お前の気に入るかどうかなんて知るかよ」
 そう言い捨てて牛乳を飲む。いつものようにさっさと部屋へ戻ろうかと思ったけど、踏みとどまって言い返してやりたい気持ちが芽生えた。売られたケンカを買いたくなったのかもしれない。
 オーナーはさらに言葉を重ねた。
「何を考えている? 俺から逃げる算段でもしているのか?」
 また面倒くさい方向に話が長引きそうだ。俺はちょっと考えて、マグカップを置いた。
「……それを俺に直接聞くのって逆効果なんじゃないの。俺が逃げようとしてるなんて気づかないふりして泳がせといて、直前に捕まえたほうがよっぽど楽だろ」
「泳がさずに早い段階で叩きつぶしておくのも好きなんでね」
 真綿を首の周りに巻いて、じんわりと締めつけてくるような声。俺は気づかないふりで言い返した。
「子どもっぽいね」
「子どもなのはどっちだ?」
 オーナーの手が俺のあごをつかむ。
「俺から逃げたところで、お前がひとりで生きていけるとは思えない。もう次のオーナーを見つけたのか?」
「ねえよ、そんなの。いつも俺のこと監視してるんだから知ってるだろ」
 あごをつかまれているせいで話しにくい。俺はいつもオーナーの顔を見ないようにしていた。今だって目をそらし続けている。オーナーはあごをつかんだ手に力を入れた。顔を持ち上げられて目が合う。最後にこいつの目をまっすぐに見たのがいつだったか思い出せない。オーナーが顔を寄せた。
「そうだな。お前が思ってる以上に、俺はお前を監視してるんだよ。大事な愛人だからな」
「愛人じゃねえっつってんだろ!」
 あごをつかんでいたオーナーの手をなぎ払う。前からおかしいと思っていたけど、今日のオーナーは輪をかけておかしい。俺のことをガチガチに監視して、俺が逃げるすきもないのだと認めた上で、俺は逃げようとしているんだとか、次のオーナーを見つけたんじゃないのかと問いつめる。意味がわからない。
「言ってることおかしいだろ。俺が運動してるってだけでそこまで言うか?」
 オーナーは俺の爪痕がついた手を見やって、目を細めた。
「……お前が能力を使って集める情報には、いつも感謝してるよ。監視カメラを置けない場所にも、お前の視線は入りこむからな。それを他の人間に横取りされるなんて許せないね」
「お前だって最初は横取りだっただろ」
 売られたケンカを買った勢いで、俺はつい余計なことを言ってしまった。こいつが俺の最初のオーナーに変な対抗心を燃やしていることを知らないわけじゃないのに。
「……ケイ」
 オーナーが俺の名前を呼んで、俺の手首をつかみ、無理やり立ち上がらせる。
「いいものを見せてやる。来い」

 引きずりこまれたのはオーナーの寝室だった。普段はカギがかかっていて、俺は中に入ったことはおろか、ちらりとのぞいたことすらない。寝室だというのに、大きなモニタのデスクトップPCがあった。ここでも仕事をしているのだろうか。
 俺をベッドの上に座らせると、オーナーはデスクの引き出しから大きな封筒を取り出した。さらにその中からA4サイズのファイルを引き出して、俺のひざにぽんと投げつける。
「見てみろ」
 抵抗するのも腹が立つので、俺は素直にファイルの表紙をめくった。フォトブックだ。最初のページに並んだ数枚の写真を見て一瞬固まる。前のオーナーの写真だった。こんなシーンを何かの漫画で読んだ気がする。探偵が調査結果として披露する、たくさんの隠し撮り写真。それとそっくりだ。こんなものを見せてどうするのだろうかと思いながら次のページをめくった俺は、再び固まった。
 どこかの店で、前のオーナーと食事をしている昔の俺。前のオーナーと談笑している昔の俺。ひとりで街をふらついている昔の俺。どの写真にも俺が写っている。今より少し幼くて、たまに笑ったりしている俺の顔が。何枚も何枚も、次のページも、そのまた次のページも。写っている服装や背景の景色からして、半年以上も撮られ続けていたらしい。
 俺の存在を突き止めてから、前のオーナーを出し抜いて俺を脅して連れてくるまでのあいだに、1年くらいかけたのか。そのあいだずっと俺は監視されて隠し撮りされていたのか。狙われていることにも気づかないで。
「ずいぶん撮られてたんだな」
 やっとそれだけを口にした。オーナーはPCをちらりと見る。
「写真だけじゃないぞ。録音もここに入ってる。流してやろうか?」
「やめろ」
「なぁ、ケイ」
 オーナーは手を伸ばし、俺のひざの上でページをめくった。
「お前、こいつとは本当に仲が良かったんだなぁ。ずいぶんなついてるじゃないか」
 写真のひとつを、爪で突き刺すように指し示す。前のオーナーの横で笑っている俺の写真。
「こんな笑顔まで見せて」
「……別に、なついてたわけじゃない」
「俺とは目も合わせないし、名前だって呼ぼうとしないし、ましてや笑顔なんて見せたこともないのになぁ?」
 静かな声に反して、ねっとりと絡みつくような言い方。気持ちが悪い。
「俺はお前に会える日を楽しみにしてたんだぞ? 猫みたいに自分勝手なところも許して、ずっと大事にしてきたじゃないか。なのに、なんでいまだにお前は意地を張る? いつまで前の飼い主と俺を比べるんだ?」
「比べてねえよ。つーか意地張ってるわけでもねえよ。人をペット扱いすんな」
 ファイルを投げ捨てて立ち上がった瞬間、オーナーが俺の両肩をつかんで押し戻した。俺の頭上から、淡々とした声で耳ざわりな言葉を発する。
「前の飼い主を俺があのままにしておくと思ったか? あいつはもうお前を取り戻すことはできない。お前の家族ももういない。今のお前には俺しかいないんだよ。俺から逃げたって、お前の行く場所なんてどこにもないんだ」
「……だからなんだってんだよ」
 俺の能力が、もっと強いものだったら。もし漫画のように不思議な光線や炎や刃を出して戦える能力があれば、俺はこんなふうにならなかっただろうか。いや、今の俺の能力のままでも、もっと俺が賢く立ち回っていれば、こんな思いをしなくて済んだのだろうか。
「お前は俺のものだ」
 それは呪いの言葉だ。オーナーが俺の心を折ろうとして吐き出す呪いだ。
「ちがう」
「お前がどんなに否定しても、お前は俺のものだ」
「俺はお前のペットじゃない。お前の愛人でもない」
 ふん、とオーナーは鼻で笑った。
「どれだけ俺になつかないままだろうが、お前を手放すつもりはないよ。それになぁ、お前だって俺の中にいるしかないんだ。お前はいくらでも情報を集めて敵の弱みを握れる。危険な能力だ。そんなやつが正体さらしてのこのこ出てきてみろ、簡単に消されるぞ」
 俺が敵の弱みを握れるというなら、その能力を殺さずに利用したいやつは他にもいるはずだ。きっとオーナーは俺を脅しているだけだ。でも、もしかすると本当かもしれない。オーナーがどんな仕事をしているのか、どれだけ危ない橋を渡っているのか、俺は知らない。自分が能力で得た情報だって、俺は覚えてない。自分がどんな世界に足を突っこんでるのか知らない。いや、だまされるな。これは脅迫だ。すべてを信じるな。
「信じてないって顔だな」
 オーナーの手が、俺の胸を押して、ベッドの上に突き飛ばした。

 俺は私生活のログを残さない。与えられたクレジットカードもiPhoneも使わないし、吐き出したいことがあったら紙に書いて燃やして流す。SNSのアカウントは持ってない。誰にも話さないし、どこにも残さない。買い物のレシートは受け取らない。読み終わった漫画もオーナーの部下に処分してもらう。
 昔のこともだんだん忘れていることに最近気づいた。もう思い出せない。でもそれでいい。思い出したところで戻れないし、思い出して苦しむくらいなら忘れたほうがいいんだ。手に入らないもの、失ったものをずっと覚えていても、俺はただ苦しいだけ。苦しい? 淋しい?
 俺がログを残さないかわりに、オーナーの寝室のPCには膨大なログが残っている。俺の写真、俺の肉声、俺の映像、たくさんのデータが入っていて、今も着々と増え続けている。ずっと監視されている。まるで実験動物のように。俺が今こうして外を走っている様子も、オーナーの部下が尾行しながら映像を撮っていて、それが寝室のPCに送られる。深夜、カギをかけたドアの向こうで、俺のデータを確認しながらオーナーが何を考えているのか、俺は知らないし、知りたくもない。忘れたい。
 走っているあいだは、余計なことを考えなくて済む。俺が駄目だってことも、俺が監視されてるってことも。
 もっと長い距離を走ろうか。靴も買い替えたほうがいいかもしれない。もっと遠くへ。遠くへ。何もかも忘れて、ただ走りたい。ただ、何も、何も残さずに。