沈んだ月の中から 02:聞こえない歌

 蛇革の腕輪をなでて、彼はへへっと笑った。
「これ、アートフェスティバルで手に入れたんだよぉ。先週の土日に広場でやってただろ? あそこでさ、好きな色の蛇革を選んで、その場で客の腕に合わせた長さで腕輪にしてくれる人がいたの。いいよなぁ、蛇」
「色は複数選べるのか」
「そう。ふたつまで。だから黄色と水色にして、組み合わせてもらった」
「お前、ほんと蛇が好きだな」
 腕輪をはめた左手首を青空にかざし、「だって俺、オロチだから」と彼は言う。
「イナバはなんでウサギグッズとか集めないの」
「別に俺、ウサギ好きなわけじゃねえし」

 イナバとオロチのオーナーは、ふたりを選んだ時に過去の名前を奪った。だからイナバもオロチも、お互いの本当の名前を知らない。いや、もしかしたら戸籍上の名前はまた別にあるのかもしれなかった。どちらにせよ、教えてもらったことはない。オーナーが与えたのは、ただコードネームのような三文字の名前だけだった。
「古事記かよ」
 名前を聞いたイナバがつぶやいた時、オーナーは眉を上げて「知っているのか」と意外そうに言った。
「因幡の白兎と、ヤマタノオロチ……です」
 答えるイナバの横で、何それ、とオロチが無邪気に尋ねる。イナバは本を読むのが好きだったが、オロチは全然本を読まない子どもだった。
「そうだ。ふたりとも、あまり似ていないな。ちょうどいいよ。お前たちはいいペアになる」
 オーナーは若々しい顔をした男だ。ふたりを引き取った頃から、今と同じ顔をしていた。いつ聞いてもはぐらかされるので、年齢はわからない。男にしてはやたらと髪が長いので、スーツを着たバンドマンのようにも見える。
「イナバ、オロチ、いいか。お前たちはこれからずっと、ふたりで戦うんだ」
「ふたりで?」
「戦うって、何と?」
 きょとんとしたふたりに、オーナーはにやりと口元だけで笑いかけた。
「お前たちの能力は武器になる」

「なぁ」
 緑色の細く光る輪が、ふたりの頭上に浮かんでいる。天使の輪っかのように見えるけれども、天使の輪よりもずっと細く、どこかレーザー光線を思わせる。輪はそれぞれふたつあって、くるくると交差しながらそれぞれの頭上で回転している。
 声をかけられたオロチは、うっすらと目を開けた。能力が発動している時のオロチは、普段の彼とは別人のように静謐な表情で、声をかけづらい空気すらあった。そういうイナバも、緑色の光の輪を浮かべて目を閉じていると、どこかの彫像のように見える。
「何」
「俺たちの同類って、どれくらいいるのかな」
「んんー」
 暗い部屋の中で、緑の輪の光にぼんやり照らされながら、オロチは首をかしげる。
「そんなにいないんじゃないの? いたとしても多分、同じ能力じゃないよ」
「……どんな能力があるんだろうな」
「さあ」
 それっきり、オロチは目を閉じてしまった。イナバも目を閉じて、オロチと自分のひたいをくっつけた。
「何かあったら、俺とお前だけが知っている歌を歌え」
 ふたりにしか聞こえない、他の誰も聞いたことのない歌を。

 音が広がる。
 音の波紋に乗って、ふたりの意識は自在に空を飛ぶ。ふたりにしか聞こえない音が鳴り響く時、そこにふたりも存在している。誰も気づかないまま、ふたりはオーナーの命じた目的地に飛んだ。オーナーが倒せと命じた相手を、それと気づかれることなく静かに倒すのがふたりの役目だ。相手の心身を音でゆさぶって病ませることもあれば、相手にじわじわと語りかけてオーナーが望む方向に背中を押すこともあった。
 ごおん、とイナバの口から音が響く。
 とおん、とオロチの口から声が響く。
 オロチの左手首に巻いた蛇革の腕輪が、じりじりと小刻みにゆれた。それを視界のすみにとらえたイナバは、実体があるわけじゃないのにゆれるんだな、と妙なところで感心する。
 ふたりの下に立っていた男は、いぶかしげに頭へ手をやった。ふたりは男を見下ろし、口々に音を叩きつける。ごおん、とおん、ごおん、とおん。
 男は気分が悪くなったらしく、ゆるゆると崩れて駅のホームにへたりこんだ。大丈夫ですか、とそばにいた仕事帰りの男女が声をかける。少しずつホームがざわつき、やがて崩れた男の体はあらゆる力を失った。誰か救急車を、駅員さんを、と呼ぶ声が聞こえる。

 ふたりは音に乗って、すぐさま帰路をたどった。今日の仕事は終わりだ。ねぐらを目指し、まっすぐに突き進む音を奏でながら飛んでいたその時、急に音が途切れた。イナバがふり返るよりも先に、オロチの歌声が上がる。
「どうした」
「イナバ、見て、ここ」
 数百メートル後ろで、オロチが街を見下ろしていた。オロチの声が輪のように広がり、その輪の中に映った景色がぎゅうっと回転して、何かを映し出す。彼のはるか下にある豪邸の中が映っていた。長い廊下の一角に、かすかな緑の光が見える。
「……同類の痕跡だね」
「この屋敷で何かやってたのか」
「俺たちみたいに仕事してたんじゃないの?」
 能力を使って仕事をすると、こういう痕跡がしばらく残る。普通の人間には見えないし、もちろんオーナーにも見えない。ただ、似たような能力を持つ人間には見える。だからイナバもオロチも、能力を使う時は絶対に自宅から出ない。自分であらかじめ守りを固めた場所に本体を置いて、そこから音と意識だけを飛ばすのだ。でないと、同類に自分たちの居場所が見つかってしまう。他の同類も同じように身を守っているだろう。
「何の能力だろうな、これ」
「音の余韻は聞こえないし……全然ちがう能力みたい。昨日か今日に来たんだろうね。けっこうニアミスじゃん」
「……住人の声は拾えた。オーナーに一応報告する。もう行くぞ」
 とん、と音を立てて、緑の光を映し出す輪が消えた。

 家に帰ったら、お風呂に入ってすぐにふたりとも寝てしまった。寝る時すらもふたりはベッドを並べて同じ部屋で眠る。オーナーがそうしろと言ったからだ。ふたりはペアだから、常に一緒にいるのだと。
 夢の中で、イナバは昔オーナーとかわした会話を思い出す。オロチは深く考えない性格で、オーナーにもわかりやすくかわいがられていた。イナバはまるで父親か母親を弟に独占されたような気持ちを味わって、オロチに嫉妬したことも、淋しさを感じたこともあった。けれども、ある夜、オロチが寝ている時に、オーナーはトイレに起きてきたイナバを誘って、書庫に入れてくれたのだ。イナバは本を壊しそうだから、書庫に入っていいのはお前だけだよと言いながら。特別扱いに内心胸を踊らせ、イナバは本棚に並んだ背表紙を眺めた。
「イナバは本読むの好きだよなぁ。勉強できそうだ。本当は学校行きたかったか?」
 やわらかな声でオーナーが尋ねる。
「いや、あの……学校行っても、多分、同じ能力のやつはいないから」
「そうだな」
 オーナーは適当な本を手にとって、両手でもてあそんだ。
「お前たちがふたりそろって同じ場所にいたのは、奇跡だよ。能力を持つ人間はめったに見つからない。なのに、お前たちはすぐそばにいた。年も近くて、おまけに血縁関係でもないのに同じ音の能力を持っていた。わかるか?」
 ぱたん、と背表紙を軽く叩いて、オーナーはイナバの顔をのぞきこむ。
「お前たちは最初から、ふたりで何かをなすために生まれてきたんだ。ふたりで戦うために選ばれたんだよ」
「選ばれた……誰に?」
 ふふ、と笑って「神様かな」とうそぶく長髪の男は、自分で自分の語りに高揚しているようだった。
「オロチは悪く言えば単純で馬鹿なやつだ。でも、あまり考えないからこそ、迷いにくいし、能力を発揮しやすい。お前は年の割に難しい本も読むし、頭はいい。でも、考えすぎて迷うだろう。ふたりとも似ていないから、補い合える。それでいいんだよ」
 温かい手がイナバの頭をなでて、もうこんなに大きくなったんだな、と言った。そのやさしい声を、そこはかとなくにじみ出る甘い響きを、イナバはずっと覚えている。

 懐かしい夢を見ながら、イナバはかすかに微笑む。となりのベッドでは蛇革の腕輪をつけたままオロチが寝ていて、きっと好きなバンドの夢を見ているだろう。ふたりとも、翌朝の食卓でオーナーに仕事の報告をする頃には、どんな夢を見たのかなんて忘れているのだ。