沈んだ月の中から 01:残らない日記

 ここは牢獄だとか、自分は虜囚だとか、そういうポエムじみたことを考えていたのは10代の頃だ。もし漫画の登場人物だったら、俺の境遇に置かれた人物は「自由になりたい」「俺は幽閉されている」などと独白するだろう。それに気づいたあの頃は、しばらくポエムじみたことを考えて、自分のどうにもならない運命みたいなものを嘆いたりしていた。思春期にありがちなことなんだと思う。

 俺はずっと監視されているから、オーナーに持たされたiPhoneもあまり使わない。自分がGoogleで検索した内容も、SNSアプリでやりとりする内容も、どこまで監視されているかわかったものじゃないからだ。いくら自分の境遇に慣れているとはいえ、監視下で自分の個人的な趣向をどこまでさらけ出していいものか、ずっと迷っている。だから、あまり出したくない。
 今書いているこの文章だって、そのへんで買ったコピー用紙に書き殴っているし、書き終わったら風呂場で燃やす。ログは残したくない。そう、俺がわざわざiPhoneじゃなくて紙に日記や手紙めいたことを書くのは、そして書くたびに燃やしてしまうのは、残しておきたくないからだ。自分の気持ちや思考を吐き出すために書くけど、それは残さない。
 ただ、どんなにログを消したところで、俺が監視下にある事実は変わらない。俺の好き嫌いやら行動パターンやらは知らないところですべてデータが残っていて、俺が反抗できないように少しずつ懐柔していくのに利用されているかもしれない。それを考えると、俺のやっていることは無駄かもしれないけど。
 ぶっちゃけ、俺の住む場所すらもオーナーの家の中だ。オーナーは高層マンションに住んでいて、無駄に何個もある部屋のひとつが俺の個室。他に誰も住んでいないから、腹の立つことに表向きはふたり暮らしだ。いや、そんなかわいいもんじゃない。俺のことを多少知る人間にとっては、オーナーが愛人を飼っているくらいの認識だろう。きもちわりぃ。俺が愛人だなんて、ぞっとする。
 ここはオーナーの家だし、さすがに自宅に監視カメラや盗聴器は仕掛けていないだろうと最初は思っていた。でも最近、あいつならやりかねないと考えている。俺の個室にだけ仕掛けりゃいいからな。

 俺がこういう生活をしているのは、俺に特別な能力があるからだ。普通の人間が存在すらも知らない特殊能力は、うまく使えば金になる。世の中には、それを利用したい人間がいる。どこでかぎつけてくるのか、俺と似た能力のある人間は多かれ少なかれ目をつけられて、強いやつの支配下に入ってしまうらしい。
「強いやつ」なんてあいまいな言い方をしたけど、たとえばカタギではない組織だ。国家に管理される場合もあるらしいけど、俺は知らない。というより、お仲間と遭遇したことがない。痕跡みたいなものをたまに見ることはある。多分、俺たちの能力をうまく利用するために、強いやつらは縄張りをつくってお互いがぶつからないようにしているんだろう。
 本当に能力の高い人間なら、強いやつらに支配されることもなく、ひとりでやっていけるのかもしれない。そういう漫画ってあるだろ? 夢のない言い方をするなら、雇用されることなく自分で独立して稼ぐイメージだ。でも、裏社会の組織やら国家権力やらが出てくる状況では、そうそう漫画みたいな展開はお目にかかれない。俺は普通の人間と同じくらい痛みを感じるし、こわもてのおっさんに殴られたくないし、脅迫に近い形でオーナーの支配下に入った。他のお仲間も多分そんなもんだ。触れた人間を吹き飛ばすとか、そういうバトル漫画みたいな能力もあればよかったのに。
 俺の家族はいない。多分、いなくなった。もう人質に使われなくて済むから、よかったんだと思うことにしてる。

『もやしもん』って漫画は、菌が見えるという特殊能力を持つ主人公の話だ。そのせいで主人公は農業大学に入ったとたん、教授に目をつけられたり、教授の傘下の院生に絡まれたりする。主人公はそれについて、「俺がこんな扱いを受けるのは、菌が見えるって能力があるからでしょ? 自分自身を評価されたわけじゃなくて、自分の能力だけを必要とされてる感じで複雑な気分だ」みたいなことを言うんだ。
 俺は彼の気持ちがわかる。きっと、大金持ちの男も同じことを思うんだよ。「近寄ってくる女は皆、俺の資産を狙っているように見える。俺が金持ちだから愛してくれるんじゃなくて、俺のことを無条件に愛してくれる女がほしい」って。それと似てるんじゃないか。誰だって愛されたい。受け入れてほしい。自分に何もなくても。
 でも、この漫画では、主人公の台詞を聞いた院生が一蹴するんだ。「人が人を評価するのは、その人の能力に決まってんだろ」って。甘ったれんなって言われた気がした。すっごく冷めてる意見だなと思ったけど、正しいとも思った。俺は自分がこういうふうに生まれたことを受け入れて、その条件でどうやって自分が少しでも生きやすくなれるか考えながら動いていくしかないんだって。俺には主人公みたいな友達もいないし、大学にも行けなかったけど。
 ちなみに漫画は紙の本で買って読んでる。別に紙の味わいが好きだからとか、そんな素敵な理由じゃない。漫画喫茶の会員カードなんてつくりたくないし(そもそも俺は身分証になるものがほとんどない)、ログを残したくない主義の影響でネットの買い物もしない。電子書籍も漫画のアプリも使わないだけだ。読み終わった本をとなりの部屋に置いておくと、オーナーの部下が定期的に処分してくれる。本を買うお金はオーナーから出ている。
 子どもの頃はテレビもよく見ていた。映画館にも行った。今はどっちもしない。駅前の本屋で小説なり漫画なり新書なりを買って、自分の個室で淡々と読むことが多い。家の外に一歩出れば、オーナーの部下が警備も兼ねて俺を尾行している。わかっていても気分のいいものじゃないけど、尾行をまいてやろうと奮起していたのは、昔の話だ。今はもう、どうでもいい。やるだけ無駄だから。

 オーナーは30代だか40代だかのおっさんだ。でも、あんまりおっさんっぽくない。金を持ってるから自分の外見にも投資してるんだろう。顔は悪くない。その点だけはよかったと思う。自分を同じ家に住まわせて監視してる相手が、汚いツラして脂ぎったおっさんだったら嫌すぎる。きれいなお姉さんだったらもっとよかったけど、世の中そんなにうまい話はない。
 オーナーはヤクザではないらしいが、絶対にカタギではない。少なくとも普通の社長ではない。俺みたいな能力の人間がいるという情報を得て、なおかつ俺がそういう人間だと突き止めて脅迫に近い形で支配下に置いて、俺の能力を利用しながら高層マンションの自宅に住まわせて、俺の世話や尾行を部下にさせていられるというのは、普通に会社を経営しているだけの人間ができることじゃないはずだ。
 金と権力を持った男にありがちな話で、オーナーもかつては美女をよりどりみどりで家に連れこんでいたらしい。俺が来てからそういうことをしなくなったのも、俺が愛人呼ばわりされている理由のひとつだ。俺に見られようが遠慮せず、リビングのソファで裸の女と遊ぶくらいのことはやりそうなのに。
 なんでそんなことを知っているのかというと、繁華街で水商売をしているらしい男に絡まれた時、「あの人も昔は家で女遊びをしていたのに」「お前みたいに平凡な男を囲うなんて」とかなんとか言われたからだった。たまに近道をしようとして繁華街を通ると、こういう目に遭う。オーナーのことを知っていて、俺を愛人だと思いこんでいる人間が、あの界隈には多い。めちゃくちゃ不愉快だし、嫌な話だ。

 オーナーが帰ってくるのは、いつも日付が変わってからだ。俺は日付が変わる少し前に寝てしまう。たまに夢うつつの状態で、ぼんやりとドアやカギの音が聞こえる。俺を監視しているから、俺が家にいるのはわかっているはずだけど、オーナーはわざわざ様子を見にくるらしい。重い足音が廊下を歩いてきて、俺の個室のドアを少し開ける音がする(カギなんてついてないし、プライバシーも何もあったもんじゃない)。俺がちゃんとベッドにいるのをその目で確かめると、すぐにドアを閉めて去っていく。

 こないだ、オーナーが珍しく夕方に帰ってきた。だだっ広いリビングのでっかいソファに寝転がって本を読んでいた俺に、「夕飯はどうする?」と聞いた。俺はそっちを見もしないで答える。
「適当に食べる」
 オーナーは低い声で笑った。
「お前、いつも冷凍食品とか、コンビニでチンするだけのおかずとか食べてるだろ。米を炊くことは覚えたのに、そこから進歩しないな」
 尾行している部下に聞けば、俺の食生活なんてまるわかりなんだろう。たとえキッチンに監視カメラがついていても驚かない。
「……この家、無駄に高層階だし、セキュリティ厳しいからデリバリー頼みにくいんだよ。つーか何、あんたも夕飯食べんの?」
「食べる。寿司でもとるか? デリバリーなんて気にすることないだろ。お前はまだフロアの管理人に遠慮してるんだな」
 このマンションはご丁寧にも、1階のエントランスだけでなく各フロアにも管理人が常駐している。夕飯を食べたいだけなのに、わざわざ管理人とやりとりをして配達してもらうなんて馬鹿らしいと俺は思ってしまう。冬なんて、コンビニで温めてもらったおかずが、リビングに到着する頃にはだいぶ冷めている。マンションの入口から家の入口までが異様に遠い。
 俺は本を閉じて立ち上がった。
「寿司とるなら好きにしろ。19時に邪魔されないなら、俺は別に文句ないし」
「ああ、いつものように頼むよ」
 ネクタイをはずしながら、オーナーがふっと笑った。悪い笑みを浮かべていた。

 俺の個室にはベッドとウォークインクローゼットがあって、服や読みかけの本、その他の持ち物は全部クローゼットの中にぶちこんでいる。ぱっと見た感じ、部屋にはベッドしかない。それは、なるべく広い空間で能力を使いたいからだ。
 19時、部屋の真ん中に立って目を閉じる。俺の能力。漫画みたいな能力。もっともっと、そう、もっと漫画みたいに物理的な強さがあれば、俺はこんなふうに愛人呼ばわりされて雇用主の家へ軟禁されることもなかったのに。ちらりと浮かんだ雑念は、やがて光の中に溶けていった。
 頭上で緑色の細い光の輪がふたつ、くるくると交差しながら回る。火の玉のような光がいくつも、ゆうらりゆらりと俺の周りを飛びかう。火の玉がふっと姿を消した時、俺の意識はここにはない。膨大な何かが濁流のように流れこんでくる。俺の体を出発した火の玉が、目にも止まらない速さで家の外を駆け回って、たくさんの情報を手に入れて一気に戻ってきたような感じだ、としか表現できない。
 俺は私生活のログを残さない。でも、俺が能力を使って手に入れた膨大な何かは、一時的にでもログとして残る。火の玉が操るままに俺の腕は動いて、紙に大量の文字列や情景のイラストを書きこむ。個室の外には箱が置いてあって、俺は意識がもうろうとしたまま、自分の腕が何かを書き残した紙をその箱に投げこむ。あとはその紙を深夜に帰宅したオーナーが持ち去っていくのだ。
 しばらくして意識が戻ると、あとはもう何もやる気になれない。歯を磨いて、風呂に入って、寝るだけ。

 意識が戻った時、リビングのソファに横たわっていた。
「今日もお疲れ様」
 すぐとなりのソファにオーナーが座っていた。ローテーブルの上には、寿司が何個か残っている。スピーカーから静かな音楽が流れていた。
「……なんで俺、ここにいんの」
「お前が廊下に倒れていたからね」
 俺とちがって、オーナーは心底くつろいでいるように見えた。こいつにとって、俺は有能な飼い猫くらいの認識なのかもしれない。俺が倒れていたからソファに運んで寝かしておく。部下をつけて世話をする。まったく警戒せずに自分のプライベートな空間に住まわせておいて、俺にはプライベートなど与えない。対等な相手だとも思っていない。そして実際そのとおりだ。いつまでこんな生活が続くんだろう。
「もう寝る」
「今起きたばかりじゃないか」
「能力使ったあとは疲れてるから寝たいんだって、知ってんだろ」
「お前の好きなサーモンの寿司、とってあるよ」
 しぶしぶ起きて食べることにした。ここで俺が無視したところで、残っていた寿司は捨てられるだけなのだ。音楽と、俺の食べるかすかな音だけが聞こえる。オーナーはテレビをつけようとせず、ただ黙って見ていた。居心地の悪さを感じながら、黙々と食べる。

 俺が食べ終えるのを見計らったように、オーナーがため息をついた。少し酒くさい。
「お前、俺のこと避けてるよねぇ」
「気のせいだろ」
「確かに、人間全般を避けてる感じだけど。でも俺の家に住んでるのに、なんで俺のことまで避けるわけ?」
「ごちそうさま」
「ケイ」
 オーナーが俺の名前を呼ぶ。
「今だってずっと俺から目をそらしてるし、俺の名前だって呼んだことないよなぁ?」
「うっせえな!」
 立ち上がった俺の手首をつかんで、オーナーが引き止める。顔にはくつろいだ笑みを浮かべたままだった。面倒くさいことになったと思った。オーナーが腹の底を隠して笑っている時はろくなことがない。話が嫌な方向に長引く予兆だ。
「だって俺の前にお前を飼ってたやつ、あいつとは普通に仲良く会話してたんだろ。なのになんで俺とは仲良くしてくれないわけ? 何? お前のご主人様は今でもあいつなのか?」
 それを根に持ってるのか、と心底うんざりする。
 今のオーナーはふたり目だ。最初のオーナーも同じように、俺を家に住まわせて監視しながら能力を使わせていた。俺は今よりもっと子どもだったし、誰かに受け入れてほしかったし、淋しかった。だから前のオーナーには自分から歩み寄ろうとしていたのだ。ストックホルム症候群という言葉が思い浮かぶ。通信制高校を卒業し、二十歳になったあとで、今のオーナーが現れた。どうやったのか知らないが、前のオーナーに仕事で痛手を負わせ、俺を脅してこの家に連れてきた。
「ご主人様なんていねえよ。馬鹿か」
 思わずオーナーをにらみつける。
「無理やり連れてこられて、そのへんのやつらに愛人呼ばわりされて、気分いいわけないだろ。俺はお前の言うとおりに仕事してるし、それ以上は口出しすんな!」
 手を振り払って、俺はリビングから逃げた。

 シャワーでシャンプーを洗い流していると、急に浴室のドアが開いた。服を着たままでオーナーが踏みこんでくる。
「何だよおい、入ってくんな」
 オーナーはシャワーで濡れるのも気にせず、俺の首をつかんで無理やり目を合わせた。
「痛ぇよ」
「お前が俺の愛人扱いされてるの、なんでだと思う?」
「はあ?」
「愛人だと思わせておけば、お前に手を出すやつがいなくなるだろ?」
「意味わかんねえ」
 オーナーの手をつかんで引きはがそうとする。オーナーの指が首に食いこんで痛い。不自然なほどのんきな声で、オーナーが歌うように言った。
「あーあー、お前が女だったらよかったのになぁ。惚れさせれば俺から逃げ出す心配もないし、もっと楽だったのに」
「い、て、え」
「俺のところに来て何年になる? 野良猫だってもう少しなついてくれるもんだろ? こんなに手間かけてやってんのにさ」
 ざあざあと降りそそぐシャワーの音も、オーナーの声をかき消してはくれない。
「お前、たまにここで紙燃やしてるだろ。お前の能力で見えたものを勝手に消したりしてないだろうな。何を燃やした? 俺に何を隠してる?」
 燃やしたのは、どこにも吐き出せない自分の中の何かだ。日記も手紙も全部、書いたらすぐに燃やす。誰にも見られないように。誰にも届かないように。誰にも知られないように。俺はログを残さない。残せばきっと、こいつに利用される。
 かすれた声で絞り出した。
「誰が言うか、ボケが」
 オーナーの顔から笑みが消えた。
「俺を裏切ったら殺すぞ、ケイ」
「……勝手にしろよ。俺の能力がいらないって言うならな」
 首をつかんだオーナーの手に力がこもった。
「お前は俺のものだ」
「ちがう」
 舌打ちして、オーナーは手を離した。すっかりずぶ濡れになった姿が、浴室のドアの向こうに消えていく。

 今日も俺は自分の中の何かを紙に吐き出して、浴室で真っ黒になるまで燃やし尽くす。燃えカスを粉になるまでつぶして排水口に流す。もし監視カメラに映っても読みとれないよう、文字の上に文字を重ねて書き殴り、あとは読み返すこともなく火をつけてこの世から消し去る。
 19時になったら能力を使って気絶して、目を覚ましたら風呂に入って寝る。24時すぎに帰ってきたオーナーが、俺の個室のドアを開けて何を考えるのか、俺は知らない。