Kindle書評『悟らなくたって、いいじゃないか』と『花井沢町公民館便り』

いろんな友達からおすすめされたフィギュアスケートのアニメ「ユーリ!!! on ICE」を見たくて、とうとうAmazonプライムに入ってしまいました。
曲もiTunesでいろいろ買ってしまった…。

そして「ポケットモンスター サン」もいまだにクリアできていません。のんびりやってる。

そんなわけで最近は本を読んでいなかったのですが、ふと「あ、読書しよ」と気が向いて、ようやく何冊か読み終わりました。
いってみよー。

プラユキ・ナラテボー、魚川祐司『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』


ミャンマーで仏教関連のことをあれやこれやと調べているニー仏さんと、タイの日本人僧侶プラユキ・ナラテボーさんの対談本。

最近はマインドフルネスのように「仏教由来だけど宗教色を抜いたもの」がもてはやされたりしてますよね。
あと、持ち物を減らすとか、ミニマリストとか言ってる人の中には、そこから座禅や瞑想に興味を持つ人もちょいちょい見かけます。

しかし、瞑想ひとつとっても、仏教には多くの宗派があり、多くの解釈があり、目的地(その瞑想によって得られる効果)も異なる。

なのにそれを知らないまま「これが正しい」と信じて、自分と目的地の異なる方法の瞑想を選んでしまい、「瞑想難民」になる人が少なくないそうです。
たとえば、瞑想を始めたせいで、かえって精神状態が悪化してしまったりとか。

これを聞いて、「なんで目的地が異なるんだ?正しい仏教はひとつだけだろ!」って思う人、いると思うんですよ。

「本当で正しい仏教がただ一種類だけ存在し、それはゴータマ・ブッダの説いた仏教と完全に同一である」という前提は、一部の人々のあいだで根強い。

私も「本当に正しい仏教は原始仏教だけじゃないか」なんて思ってた時期があったような…。
えぇ、スッタニパータとか手を出しました…。

でも、そんなのは不毛だよと。
仏教の解釈や思想がこれほど多岐にわたるのも、ブッダがもともと個別にいろんな人の悩みを聞いて、臨機応変に対応していたからだよと。

キリスト教だって、カトリックとプロテスタントとオーソドックスでは全然ちがうし、同じプロテスタントの中でもガチガチの聖書原理主義からめっちゃ現代にあわせたところまで、いろいろありますもんね。
アメリカの小説を読むと、「女は絶対にスカートを履くべきという流派の教会に属してるおばさん」が出てきて、いつもジーパン姿のヒロインは彼女の説教を苦笑いでスルーしてる…なんて描写があったりするし。

閑話休題。

そんなわけで、人によって瞑想の目的地はちがうわけだから、実際にいろんな流派の瞑想を試してみて、自分にあったものを選ぶといいよ!と案内している本なのです。

流派によってちがうんだよって説いてるのは最初のほう。
あとは瞑想難民が出てしまう(瞑想で悪化してしまう)原因として、瞑想にこんな効果があるからだよと説明したり。
実際にお寺で悩める人を受け入れているプラユキさんが、「こんなふうに実践したり、こんなふうに相手に問いかけてみる」と話したり。

個人的に面白いと感じたのは、「日本では輪廻というものがネタ的なものにとどまっているけど、ミャンマーなどでは真実だとして信じられているので、そこからくる発想や考え方のちがいがある」ということ。

ミャンマーなどの上座部圏において、多数派の仏教徒にとっては事情が違います。彼らの多くにとって、輪廻転生は「ネタ」でも「物語」でもない、端的な「事実」なんですよ。
(中略)
ミャンマーの仏教徒の普通の感覚からすれば、仏教に帰依して徳を積まずにそのまま死んでしまったら、その人の死後の行き先は、地獄・餓鬼・畜生といった悪趣になる可能性が高いわけです。

日本人男性と結婚したミャンマー人女性が、「このままでは夫は来世でひどいことになる」と真剣に案じて、「仏教に帰依して徳を積むよう、夫を説得してくれ」と相談してくるケースもあったんだとか。

タンブンする(徳を積む)っていうタイの表現、久々に見たなぁ…。
学生の時に読んだ『死をめぐる実践宗教―南タイのムスリム・仏教徒関係へのパースペクティヴ』に出てきた。

※仏教徒とムスリムが共存している南タイの村で、どのように異なる宗教間の人々が同じ学校に行き、婚姻を結び、祈り、葬儀を行っているかをフィールドワークした本です。

他にいくつか面白かったハイライトを紹介しますよ。

仏教というのは「世の流れに逆ら」って、通常の「人間的」な「私─対象」関係の拘束を脱した、智慧のパースペクティブを開くものですが、しかしその帰結は、「人間と縁を切ること」ではないんです。

悟りを開き、最初は自分ひとりの中にしまいこんでおこうとしたブッダが、それを人々に伝えようとしたからこそ、仏教は生まれた。

そういう強烈な衝動の支配力にストップをかけて、「これは本当に私を幸福にしてくれるのか」と、冷静に判断して選択する心のスペースができるわけです。仏教的な意味での自由というのは、基本的にこの「選択できる余地」をつくるものなんだと思いますね。

戒を守る生活をすることで、煩悩の命ずるところに無軌道に従って、むしろストレスを溜めてしまうということもなくなり、仏教的な意味での「心からの自由」が達成される。

なんでもかんでも思うがままにふるまうことが自由なのではない。
戒律を守ってそういう欲望にふり回されなくなったほうが自由を感じた、と。

ヤマシタトモコ『花井沢町公民館便り』全3巻


前から気になってた漫画だけど、1巻が無料キャンペーンやってたから読んで、そのまま全巻買っちゃった。

ある企業の実験が失敗し、「生きたものを通さない、目に見えない壁(境界)」で囲われてしまった花井沢町。
この監獄状態となってしまった花井沢町を舞台に、その町の住人が最後のひとりになるまでを、あえて時系列をバラバラにしたオムニバスでつづったお話。

生きたものが通れないから、町の人は死ぬまで外に出られない。
死んだら外の人に連絡して、台車にのせた死体を境界まで持ってって、あとは外で埋葬してもらう。

生きたものが通れないから、医者も大工さんも入ってこれない。
だから予防に力を入れるし、住人はひととおりのDIYができるように通信教育を受けて、その中で得意な人が家を修繕したりするようになる。

壁の外に出られないから、最初は皆、在宅勤務してるんだけど、だんだん国からの配給や補償だけでだらだら生活する人が増えてくる。

花井沢町の中で、「どうせ子どもを産んでも外の世界に出られないのに」と考えて産まない人もいれば、「淋しくて耐えられない」と産む人もいる。
壁ができたあとに産まれた世代は、最初から外を知らない。

しかし、生きたものが通れないので、この狭いコミュニティの中からは逃げられないんですよ。
流動性のない人間関係って地獄。

特に怖かったのが、女性のストーカーに監視され続ける男の子の話と、自分につきまとってくる男性にレイプされる女性の話。
どっちも、本人はずっと嫌がってるけど、周りは真剣にとらえてないんですよ。

男の子は、「美人につきまとわれるなんていいじゃないか、筆おろししてもらえよ」なんて言われる。
女性は、かなり人口が減った時期の若者だということもあって「彼に冷たくするな。年頃の男女なんてあんたたちだけなんだから、もう少し仲良くしなさい」なんて言われる。

そして両方とも、決定的な被害が出てから、ようやく騒ぎになるのね。
男の子は女性に襲われ(恐らく首絞められそうになってる)、女性は男性に暴力をふるわれてレイプされて妊娠する。

どっちも本当にありそうだよなと思ったの。

もし男の子の性別が逆だったら、皆もっと最初から「えっ、怖くない?やばくない?」って気づいたと思うんですよ。
でも男の子だから「美人に見つめられていいなぁ」とか軽く流されちゃって大変なことになる。

女性のほうは、実際に似たような設定を他の小説で読んだことあるなって。
「この閉鎖空間の中で、他に男女がいないんだから、くっつくしかないじゃないか」みたいな理屈を男が言うんだけど、女のほうはその男を嫌ってて逃げようとする…っていうの。

多分、男は「他に女がいないから」って理由でOK出すだろうけど、女は「他に男がいないから」って理由でOK出す人、そんなにいないだろうな。
女に比べて男のほうが「寝てもいい相手」に対する基準がゆるいと思うのね。

しかし、この花井沢町を囲ってる壁って、どういう設定なんだろう?
上空も地中も対象になるのかな。それってどれくらいの範囲で?

ヘリからロープや何かを下ろして、それに中の人を捕まらせて救出するとか、地中深くトンネルを掘って脱出させるとか、できなかったのかなぁ。
なんて想像してしまった。

余談:読みかけの本


なんか読みやすくてすいすい進む。こういうテーマも面白くて好き。