Kindle書評『お墓は、要らない』『人間はどういう動物か』『A Bear Called Paddington』

ネットしてるよりも、本読んでるほうが楽しいし、精神的にも安定するな、と思います。
(多分、ネットの記事やSNSは短くて話題がぶつぎれになりやすいので、自分の思考が散漫になりやすいからだろうけど)

ただ、ネットとちがって読書のほうが途中でやめづらくて、読みすぎて体調悪化することは、ままある…。
気をつけていきたい所存です。
(多分これ何回も同じこと思ってる)

だんだん、ブログに感想を書くのが面倒になってきたので、「初心に帰って、ホンマに気が向いた本だけ書こう」と自分に言い聞かせてる。
というわけで気が向いた本の感想いってみよー。

高橋繁行『お墓は、要らない』


似たような趣旨の本では宗教学者の島田裕巳が有名ですが、なんとなくこっちの著者の本を読んでみたくなった。

お墓のことを考えた人ほど、お墓はいらないと言うらしい

私は10代の頃から「お墓なんていらないや」「むしろお葬式も簡素にやってほしいや」と思っていて、「死んだら比叡山に散骨してくれ」なんて言ってたような人間なので、この手の話題にはずっと興味があったのです。

※なんで比叡山なのかというと、丑寅の方角にあってわかりやすいし、遺族が普段の暮らしの中でふと思い出して山を拝めるから、ちょうどいいかなと思ってた。
遺族が京都市内に住んでる前提の話だよな…。
(しかも伏見や山科あたりだと比叡山は見えない)

家墓があり、周囲が散骨に反対する限り、容易に本人の遺志は実行されないものだ。

散骨を望んでいても、実際にはなかなか実行されにくいのだと著者は語ります。
実施する人が増えてきたとはいえ、まだまだマイナーであることに変わりはない。遺族もどうやればいいのか、わからなくて困ってしまう。
だからこそ、遺書を残すだけでなく、日頃から家族や周囲の人々と意思疎通をしたり、あるいは散骨などを手助けしているお寺やNPOに足を運んで準備しておくべきだよ、と。

樹木葬は、石塔ではなく、樹木を墓標とし、遺骨を土に還す葬送のことである。遺骨を「撒く」のでなく墓地に埋葬する以上、埋墓法に抵触しない。

これ、いいな。
墓地の一角を樹木葬のスペースに定めて、希望者を受け入れているところもあるそうです。

墓地の永代使用料は、その地域の土地の公示価格のざっと四倍が相場という。

皆が気になるお金の話も出てくるよー!
うちの両親は両方とも長男長女じゃなくて、入れるお墓がないので、そのへんも気になるところです。

昔の職場の人が、
「うちの両親、すごく仲良かったのに、自分たちのお墓をどうするかで今めちゃくちゃもめて、すっかり仲悪くなってしまったんですよ。怖いですよー」
って言うてはったのを今でも覚えてる…。

土葬や火葬が庶民の間に広まるのは、早くて十三世紀前半。村落の共同体による弔いの互助組織ができ、近隣で弔いの協力体制ができたのは、だいたい室町時代以降と、研究者の間では考えられている。石塔墓が誕生するのは、さらにその後ということになる。
(中略)
ただし江戸時代の石塔墓は、現在のような先祖代々の家墓ではなく、個人墓が中心だったようだ。先祖代々の家の墓が本格的に出てくるのは、明治になってからのことである。

家は必ずしも一枚岩ではなく、分割相続が一般的だったというのである。そうした半檀家制による分割相続は、江戸時代後半になると弱まり、長男の地位が向上してくる。

後半では家墓の歴史や祖霊信仰と仏教の関係の変遷もまとめられています。

「伝統」って、実際には伝統じゃないことが多いよね。比較的新しい慣習だったりしてさ。
大学の1回生の授業で「伝統とは、それが失われ始めてから初めて伝統と呼ばれるのだ」と言われて、はっとしたものですよ。

それだけでなく、手元供養のためにリビングで飾れる小さなお地蔵様(中が骨壺になってる)とか、浄土真宗は今生を重視するのでお墓云々にはあまり熱心ではないとか、滋賀にはお墓のない村も多いとか、無縁仏や家のお墓に入れない(入りたくない)人たちを受け入れて遺骨で仏像をつくりつづけているお寺があるとか、興味深い話のオンパレード。

自分の死を考えるのは『死に方』を考えるのではなく、死に至るまでの『生き方』を考えようということなのです。

どういう人たちとの関係を大切にしたいのか。
自分はどういう人間で、どういうふうに生きて、どういうふうに最後を迎えたいのか。
散骨やお墓に関するNPOの活動を通じて、自分の人生を見つめ返す人も多いと。

日高敏隆『人間はどういう動物か』


動物学や動物行動学といえば日高先生。

本当に利己的であれば、殺し合いは起きない

いろいろな話があって面白かったです。
日高先生がこの本を書くにあたっての前提、というか主張は、下記のとおり。

人間は昔からの哲学論争で言われるような存在ではなく、とにかく動物の一種である。では、どういう動物なのか? それを知ればどう生きるべきかも出てくるであろう。

こういうふうに視点を変えてみると、新しい発見があるよね。

まっすぐ立つためには、頭骨からつくり変えなくてはいけない、脳も曲げなくてはいけない、背骨の形も変えなくてはいけないとなってくると、体全体の大改造である。

直立二足歩行がどれだけ大変なことであるか、という説明が冒頭から載ってます。

背骨の改造だけでなく、妊娠中は胎盤が落ちないようにしないといけない。なんせ直立していたら、ちょうど重力のかかる方向に子宮の出口があるので、そのままだと胎盤も赤ちゃんも排出されてしまう。
言われてみればそのとおりだね…!

胎盤が落ちないよう、普段は強めに出口を閉めておくことになるので、その反動として出産は相当な負担をともなう。閉まってる出口を無理やりこじあけて赤ちゃんが出てこないといけないから。

直立二足歩行は、そういうふうに体の全体を改造してしまうので、もはや進化の過程で元に戻れなくなってしまう、と。

動物の世界では、メスは選ぶ一方で、オスは選ばれる一方である。しかしそこではだましたり、噓をついたりといったことが頻繁に起こっている。「自然は噓をつかない」という言いかたが流行ったことがあるが、これは大きな噓である。人間のやっていることは、自然の中にすべてあると思っていい。

だって我々も自然の一部だから。

攻撃性はそれぞれの個体に遺伝的に組みこまれたもので、学習や教育によって消し去ることのできるものではないという彼の指摘は、まったく正しかったのである。われわれは他人からなにか言われてムカッとくるのをおさえることはできない。問題は、そのあとどうするかなのだ。

ふむ。
怒りの存在自体を否定しようとすると、かえっておかしなことになるよね。
他にも「攻撃性は、ファッションの中で重要な要素である」という秀逸な一文がありましたよ。

二〇世紀に人間は、あまりにきれいごとを言いすぎてきた。人間は崇高で、賢い存在だということばかり強調してきた。

その一方で「人間は愚かでけがらわしい。動物たちは無益な殺生もしないのに…」みたいな言説も多かった気がします。
どちらにしろ極端ですね。

人間も動物であるから、利己的にふるまうのは当然である。しかし、動物たちは利己的であるがゆえに、損することを極端に嫌う。浅はかに利己的にふるまいすぎてしっぺ返しを食ったときに、やっとそれをやめるのではなく、もっと「先」を読んでいるらしい。どのようにしてそれを予知するのかわからないが、これはどうも損になりそうだと思ったら、もうそれ以上進まないのである。その点では、動物たちのほうが徹底して利己的である。きわめて賢く利己的だと言ってもよかろう。

動物たちは本当に利己的なので、あまり自分自身を危険にさらすようなことは、損だからやらない。相手は殺してしまったほうがいいのかもしれないが、殺そうとすれば自分が殺されるかもしれないから、そういうリスクは冒さない。すると殺しあいも起きない。

互いが損をしないように行動し、主張できるところはどんどん利己を主張していくと、結果としてある形の調和があるような具合に収まってしまうだけだ。

この指摘が大変面白い。
本当に利己的であれば、よほどのことがない限り殺し合いは起きない、という。
逆に、徹底して利己的であろうとするのは(恐らく人間にとって)難しいことなのだ、とも述べています。

生き物は、自分たちの「種」を存続させようなんて、これっぽっちも思っていない。ただ自分という単体の子孫(遺伝子)を残そうとしているだけ。
そのためにお互いが損得勘定をして利己的に生きているだけだよ、と。

日本では平気でものを断定的に言う。自分はそう思うという言いかたで主張するのではなくて、「これはこうなんだ」という格好で言う。

だれかがある主張をしたときに、「いや、おれはそうは思わない」と言ったってかまわない。神様はどちらが正しいかは知っていて、人間にはわからないのだから、ということのようである。

神の存在を信じている人のほうが、より科学的にものを考えているかもしれない。より科学を進めるのにいいメンタリティをもっているのかもしれない。日本人は自分が神様にとってかわっているようなところがあるから、「おれの言うことは絶対正しい」となる。

後半では、海外で暮らしていた時の経験から、日本とヨーロッパ(主にドイツやフランス)を比較した話も出てきます。

他に、コンラート・ローレンツと対談した時のこぼれ話もあった。

Michael Bond『A Bear Called Paddington』


『くまのパディントン』の原書です。
日本語版は今のところKindleで出てないっぽい。

こんなトラブルを起こすのは、パディントンしかいない!(ブラウン一家の共通認識)

けっこう読みやすい英語だったよー。

パディントンの生まれ故郷を、日本語訳では「暗黒の地ペルー」って訳してたと思うんだけど、原書では「Darkest Peru」になってた。なるほど、そうなるのか。

南米のあのへん、けっこうゴタゴタしてたんじゃ…と思ってWikipediaを見たら、この本が出た1950〜1960年代はクーデターが起きてるみたいですね。
(1948年、1962年、1968年にクーデターがあって、その後はペルー革命とかゲリラ戦争とか)

ペルーからイギリスに亡命して、たまたま出会ったブラウン家の一員となるパディントン。
彼の出かけるところ、何かしらトラブルが発生する。

朝食のベーコンを「あとで食べよう」と思ってスーツケースに入れて持っていったら、スーツケースの端からベーコンがはみだしちゃって、大勢の犬に追われたりとかね…。
(地面にこすれるほどはみだしてる模様)
ベーコン汚くない?それ、本当に食べるの?とツッコミ入れずにいられない。

あるいは、劇場へ行く時、コートの両方のポケットにマーマレードジャムのサンドイッチを入れていったりとかね。
車に乗ってる時に、コートをお尻で踏んじゃったから、ちょっとつぶれてるかも!なんてことを、のんきにしゃべるパディントン。コートのポケットの中もべったべたに汚れてると思うんですが…。

子どもの頃は深く考えなかったけど、今こうして読み返すと、「コートのポケットの中が…」とか、「洗濯が大変そう…」とか、「砂まみれのベーコン汚いやろ…」とか、気になってしょうがないです。
それなのに全然怒りもしないブラウン夫妻、おおらかですね。
ここが日本だったらもっと大騒ぎだよ。

しかし、それでもパディントンは疎まれるどころか、むしろ思わぬ活躍を見せて人気者になってしまうのである。