Kindle書評『ヒューマン』と『日本はなぜ敗れるのか』

花田陵『デビルズライン』に萌えるあまり、Twitterで新しいリストをつくったり、公式アカウントや作者のアカウントをフォローしたり、作者のブログの画像を見つめ続けたりしていますが、私は元気です。
デビルズラインを読み返す一方で、積ん読も地道に消化してるよー。

あと、KDPのLPサイトの各ページにSNSボタンつけました。
Twitter、Facebook、LINEの3種類つけた。

ただ、「LINEで送る」は公式のソースがうまく動作してないっぽくて、URLの最後に「=」がついてしまう。ぐぬぬ。
なんかLINEだけ、テキストをパーセントエンコーディングしてねーとか、ちょっと変わった仕様でした。エンコーディングしなくても全然大丈夫だったけど…。
他にも必要のない文字が入ってたり、見本とされているソース自体がまともに動かなかったり(URLの最後に「=」がつく)、なんなのだろう、あれは…。

それはさておき、消化した積ん読の感想でござる。
本日のコンテンツはシリアス方面です。人類の進化をめぐるサイエンスと、第二次世界大戦からみる日本人論です。
いってみよー。

NHKスペシャル取材班『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』


自分の好きそうな本だと思って、ぽちっとな。

ホモ・サピエンスが、いかにして今のようなホモ・サピエンスになっていったのか。
それを人類発祥の地であるアフリカからスタートして、都市国家が築かれて貨幣が登場した古代ギリシャや古代ローマ帝国までたどっていく話です。

最初は、ヒト以外の霊長類とヒトとを比べる話から始まります。

ヒトとチンパンジーは、遺伝子的にとても近い。だが、決定的にちがうところがある。
それは、協力するかどうか。
未来を考えるかどうか。

自他の比較のなかで、自分を位置付けるということをチンパンジーはしないんですよ。チンパンジーは、ほかの人は、どうでもいいんですよ。

チンパンジーは、相手から助けを求められれば助けるけれども、自分から率先して助けにいくことはない。「自分は自分、他人は他人」という感覚が徹底していて、協力しあうことがないし、助けてもらってもお礼をすることもない。
また、病気になっても、ヒトのように将来を悲観したりしない。チンパンジーは、まさに「今、この瞬間」だけを見ていて(瞬間記憶能力はヒトよりも高い)、ヒトとはちがう喜び、ヒトとはちがう苦しみを味わう世界に生きている。

そこから、「ヒトは、なぜ協力しあうようになったのか。生き残る上で、どんな風に役立ったのか」という話になっていく。

最近の研究では、ホモ・サピエンスが世界中に広がっていった同時期に、ネアンデルタール人や、ホモ・エレクトスといった他の人類もいて、なんらかの接触があったことがわかっているという。
ホモ・サピエンスがネアンデルタール人の死体を見つけて食べた痕跡も見つかったり…。他にも、シラミの祖先をたどってみたら、ホモ・サピエンスが別種の人類と肉体的に接触していたであろうことが推測されるとか。
面白いねー!

なんかね、こう、次々と新事実が出てくるので、面白すぎてうまくまとまらないです。
いくつか紹介してみる。

「定住生活がどんどん強まっていって、巡礼を行いながら人々が社会としてさまざまにまとまっていくような社会、そのときに宗教というのが非常に重要な役割を果たしていた、信仰というのが非常に重要な役割を果たしていたと思われるんですね。その宗教施設にたくさんの人々が集まってくるようなことが、農耕にもかかわってくる、農耕の発生にもかかわってくるのではないかというふうに考えていいのではないかと

導入のメリットが薄く、ハイリスク・ハイリターンな農耕は、人々が喜んで積極的に始めるようなものではなかった。そのため、狩猟採集生活から農耕生活への移行は、千年単位でゆっくりと起こったらしい。
(宗教に関わる農耕というのは、たとえば栽培によって少しずつ品種改良されていった麦や米は貴重なので特別なお祭りにふるまわれたとか、あるいはお酒の原型となる発酵物がつくられたとか、そういうの)

都市の形成、社会の階層化にともなって、神々の世界も現実社会と同じように階層化され、人の世界と同じようなものだと捉えられるようになり、神は擬人化された

都市化には非常に多くのプラス面があります。しかし、同時に社会のストレスが原因で、戦争が起こります。

他の生き物とちがって、個体認識できる150人という限界を超えた大きな集団でヒトがまとまるようになったのは、なぜなのか。
そして、それが発展して都市が形成されていった時、ヒトの精神面にも変化が生まれていく。

特に面白かったのは、人口のコントロールが非常に難しいという話。
現代ですら、子どもの数が減りすぎたり増えすぎたりして、まったくコントロールできていない。
ましてや、ヒトは他の霊長類とちがって、母親以外の周囲の人間が育児を助けることで次の出産までの間隔を短縮し、たくさん子どもを産むことで絶滅しないようにする戦略をとった。
それが、敵となる大型動物を狩り尽くしたり、農耕によって安定した食料が得られるようになると、どうなるか…。

アフリカを出て世界中にヒトが広がっていく、いわゆる「グレート・ジャーニー」と呼ばれる大移動も、ヒトの開拓精神がもたらしたというよりは、人口の増加に耐え切れなくて新天地を目指していったというのが正しいそうです。

山本七平『日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条』


山本七平すげーな…と思いながら、また1冊読み終えましたぜ。

無駄に飢え死にする戦争だった

恐ろしい本だった。

「なんで日本は、どう考えても負けるであろう戦争をやっちまったのか」
戦時中にあった出来事をリアルタイムで記録していた小松真一の『虜人日記』を参照しつつ、また山本七平自身の従軍体験も交えつつ、山本は、これは軍部が悪いとか、そういう次元の話ではないことを指摘している。

たとえば、第二次世界大戦における日本軍が「兵站?何それおいしいの?」状態で、満足な食糧も運ばずに兵ばかりを戦線へ送った結果、戦場となったアジアのあちらこちらで日本兵が現地人の畑を荒らしたりして食べ物を得ようとすることになってしまった。
食べ物がなければ、敵と戦うどころじゃない。現地人の畑を荒らしていて、彼らの協力を得られるわけがない。

そのへんは高校の授業でも聞いて知っていたのですが、そういった兵の末路はどうなったのか。

ルソンの日本軍は殆ど餓死であり、しかも米軍は六月二十八日に、比島戦の打切りを宣言している。あとは、なすすべもない日本軍の残存部隊は、ただ、現地住民を苦しめつつ自らも餓死していくわけである。

太平洋戦争とは、圧倒的な敵の攻撃を前にしてイモを植える戦争だった――もしこれが戦争といえるならば。

アメリカ軍はそのへんがきっちりしていて、さまざまな食糧を用意したり、計画的に畑をつくっていたらしい。彼らが去っていった駐留場所にたどりついた飢餓状態の日本兵は、「ちゃんと畑がある!食い物だ!うおー!」と飛びついていって、結局そこの食糧も食い尽くしてしまったという。

山では食糧がないので友軍同志が殺し合い、敵より味方の方が危い位で部下に殺された連隊長、隊長などざらにあり、友軍の肉が盛んに食われたという。

生きのびるために日本兵同士で殺し合い、相手の人肉を食べた。
誰それは味方に足を撃たれて危うく食われそうになった、という話も普通に出てくる。
当然ながら、こうなると誰も信用できないし、まとまって進軍したり戦ったりできるような状態ではない。

前半には、バシー海峡のくだりが出てきて、暗澹とした気持ちになります。
「あそこの戦線が大変らしいから、とにかく兵を送ろう」というだけで、今にも沈みそうなボロ船に、トイレが足りなくなって甲板にトイレ小屋を乱立させて糞尿をたれ流すくらい、すしづめに、限界ギリギリまで兵をつめこむ。兵器や食糧すら持たせずに。

しかし、敵の攻撃によって船の数自体が減っているので、さしたる護衛もなくアメリカ軍の軍機が飛んでいる海峡を渡り、あっというまに撃ちこまれて船は沈んでいく。

そうやって積み込んだ船に魚雷が一発あたれば、いまそこにいる全員が十五秒で死んでしまう――。この悲劇は、架空の物語でなく現実に大規模に続行され、最後の最後まで、ということは日本の船舶が実質的にゼロになるまで機械的につづけられ、ゼロになってはじめて終ったのであった

結局すべての船が、早かれ遅かれ、最終的には、世界史上最大能率の大量溺殺機械として、活用されただけである

まるでアウシュヴィッツのガス室だった、むしろアウシュヴィッツよりもひどかった、と山本は書いている。そういうボロ船は、撃たれると5分もたたずに沈んでしまったのだから。
そんな恐ろしく馬鹿げたことを自国民に対して行っていたのに、現代の日本人のほとんどはバシー海峡のことを知らない。それこそ問題ではないか、と。

で、そんな状態で運よく戦線にたどりつけたとしても、今度は「兵器も食糧も持たせずに兵ばっかり送ってきやがって、軍部は何を考えてるんだ」状態で、敵と戦うどころか、まず自分の食べ物を確保するためにイモをつくらねばならない。

問題はそれだけではなく、職人芸のような戦闘ができる「精兵」を求めたことにもあった。
特定の条件下において芸を磨くことが推奨され、訓練が行われていたけれども、当然ながらそういう「芸」は、条件が変わってしまえば役に立たなくなる。
それなのに、多くの人々はそのことを疑わず、むしろ芸を過大評価して、「精兵としての芸を極めれば、銃を持った敵にも日本刀で勝てる」的な思いこみを抱いた。
だからこそ、毎日新聞がでっちあげた百人斬りという荒唐無稽な話が信じこまれたり、女性たちに竹槍を持たせて本土を守らせようという馬鹿げた話が賞賛されて広められたりしたのだという。

そんな「精兵」を求めるだけならまだしも、兵器も食糧もなくて飢えている状態で「精兵」として戦えるわけがない。

簡単にいえば、少なくとも全員の九割は戦闘力としてはそこに存在していない。ただ標的として殺されるために存在しているに等しい。これが軍国主義はあっても軍事力はなく、精兵主義はあって精兵がなく、客体への正確な評価を踏絵にかえ「二十万なら資格あり、三万一千なら資格なし」としつづけた一国の終末の姿である。

※「二十万なら〜」云々は、実際に集まった人数よりも多めの人数を喧伝することを良しとする、春闘などのイベントやデモの主催者側の心理についてのたとえ。

また、当時の日本人の多くが、他国の文化に対して敬意を払わず、「いずれ日本文化を身につけるべき劣った二流の日本人」として侮蔑の目を向けるばかりだったことや、そのくせ自国の文化を客観的に把握することもできていなかったので、他国の人に対して「こうやって日本文化を身につけて日本人になれ」と示すこともできなかった、と指摘している。

そこにあるのは、自己の絶対化だけであり、「他に文化的基準のあること」を認めようとしない、奇妙な精神状態だけであった。絶対化してしまえば、他との相対化において自己の文化を把握しなおして、相手にそれを理解さすことができなくなるから、普遍性をもちえない。

そういう態度で、現地の女性とのあいだに関係を持って産まれた混血児ともども教育費ひとつ払わずに放り出したり、後先考えないことをいろいろやっていたので、もともとは反米だった現地の人々に反日感情を抱かせて、みすみす敵に回してしまっている。

北京在住三十年、北京市庁の観光課に勤務しつつ遺跡の保存にあたり、中国人から非常に尊敬されていた石橋丑雄氏が、「日本軍は、元来は親日的であった中国人まで、むりやり反日に追いやったようなものだ」と言われたが、これと全く同じことが、フィリピンにも言えるのではないであろうか。

それらの事件の背後には、現地における対日協力者への、あらゆる面における日本側の無責任が表われており、この問題の方が、私は、戦後の反日感情の基になっているのではないか、とすら思われるからである。

もちろん、そうではない日本兵もいたし、そういう人は現地の人とうまく交渉していけたのだが、「個人としてはそれができるという伝統がなぜ、全体の指導原理とはなりえないのか」と山本は問題提起している。

なんでやろう…。

戦争が終わって何十年もたったけれども、果たしてあの頃の、めちゃくちゃな戦争をやってしまったそもそもの原因は解決しているのか?
いや、していない、と山本は言う。
日本人は何も変わっていない、と。

余談:最近ぽちった本


セールしてたので、ぽちった。

相変わらず、Koboの追撃などで、Kindleストアはいつも何かしらセールやってます。

でも、『デビルズライン』にハマったおかげで、他の本に対してそこまで食指が動かなくなってしまった…。
「すごく好きで何度も読み返したい漫画があるから、今はいいやー」って感じ。

本当に好きなものを手に入れてしまうと、他の「そこそこのもの」に対して興味が失せてしまう現象に、名前をつけたい。
…あれかな、「本命があれば雑魚はいらない現象」とかかな…。