谷山浩子「冷たい水の中をきみと歩いていく」は恋の歌じゃない

谷山浩子の歌の中でも、特に透き通って美しく、そしてタイトルも長いことで有名な歌。
それが、「冷たい水の中をきみと歩いていく」です。
同じタイトルのアルバムに初登場したのち、何度もベストアルバムに収録されてます。

今日は、この歌との出会いとか思い出とかを書いちゃうよ!
「この歌が本当にきれいなので、私はいまだに泣きそうになることがあるよ」って一言に尽きるんですけど。
長いです。いってみよー。

データよりも思い出を重視するファンで、いいじゃない

この記事を書くきっかけになったのは、ついったーで回ってきた、とある記事でした。

有吉「いつも言うんだけど、ファンっていうのは思い出派とデータ派っていうのがあるわけよ。データを緻密に調べて、『背番号とか何年の〇〇で、こういう試合でしたよね』って言うヤツと、思い出の人がいるんだよね」

有吉「怒ってるよ。やっぱりデータ派を重視するんだよなぁ。マニアっぽい人たちは」

有吉「じゃあ、球場に毎日足を運んでてな、『あの選手はだれか名前しらないけど、あの投げ方の人好きだね』っていうおばあちゃんは、ファンじゃねぇのか?」

この記事を読んで、今まで自分が言葉にできずにいたものが、ちゃんと言葉になって示されてる!と思って、はっとしたのですよ。

今まで私は、ファンといえばデータ派の方がえらいような気がしてました。その方がすごそうに見える、という大変アホな理由で。
それに名前とか特徴とかを言葉で知ってる方が、あとでいろいろ確認できるから便利っちゃ便利なんよね。
たとえば大学で学問の端っこをかじっていた時も、最初にどんな感動や驚きを感じたかというのが非常に重要なんやけど、それだけでは論文なんて書けへんやん。感動を忘れることなく、データ派にならないといけない。調べて定義して比べて論じないといけない。
ネットでも、データ派の人の方がたくさん言葉を費やして文章書いてて、なんか立派そうに見える。谷山浩子も小説も漫画も鉄道も、私が好きなジャンルのものについて、データ派の人の方が、声がでかそうに見えるのね。

だからデータに詳しくない自分に引け目を感じることもあったり、真似してデータを集めてしゃべろうとしたこともあったんですけど、なーんかちがうよなって。
それに私、捨てたい病のせいもあって、データを集めること自体あんまり好きじゃないから、真似しようとしても無理なんよね。
そういう経緯で、ブログでも「谷山浩子のこの歌に対して、私はこんな思い出があって、こういう経緯で、こんな思い入れがあるよ!」っていう書き方をするようになりました。データ派っぽい書き方、できひんし。

そしたら、上記の記事について友達が、こんなこと言ってました。

わかる…!というか、わかった、書きます!遠慮なく自分の思い入れを語りますよ!
と一方的に鼓舞されて刺激を受けて、本日の記事を書くことになりました。多分そんなつもりでツイートしたんじゃないと思うけど、私は勝手にやる気が出たぜ!

前フリ長い。

今はもうないレンタルショップに、そのCDは置いてあった

中学1年か2年の頃、父と一緒に出かけた、家の近くのレンタルショップで出会いました。
アルバム『冷たい水の中をきみと歩いていく』と『ボクハ・キミガ・スキ』が置いてあった。

父の会員カードとお金を使って、1泊2日で借りてもらい、父がカセットテープにダビングしてくれている間、ノートに歌詞を手で書き写しました。
ノートはムーミンのニョロニョロが描かれており、昔の習い事の発表会で、母の友人からプレゼントされたものでした。その後、私が21歳か22歳になる頃まで、いろいろな歌の歌詞を書き写したものです。じきに谷山浩子の歌詞はPCで打つようになったのですが、1~2曲しか持っていないアーティストの歌詞は、ノートに写し続けていました。
『冷たい水の~』の歌詞カードは、最後の数ページがなくなっていて、「トライアングル」以降の歌詞はわかりませんでした。

レンタルショップに、谷山浩子のアルバムは、その2枚しかありませんでした。あまぞんが使えなかった時代、自分でCDを気軽に買えるようなお金がなかった時代、当時大流行したエヴァのTVアニメのビデオ(DVDではない)が、レンタルショップの棚に並んでいた時代でした。
谷山浩子のアルバムが店頭から消えた時は、中古品として売られていないかとセール用のワゴンを漁ったのも覚えています。

その後、レンタルショップはつぶれて、今ではコンビニだか個人医院だかに変わっています。
近くにあった別のお店もつぶれて、何度か入れ替わったので、もう、何がどこにあったか、正確な場所すらわからないのです。家の近くにあったのに。

知らない恋よりも、失われた何かが強く心に訴えかけた

「冷たい水の中をきみと歩いていく」は、実らなかった恋の歌です。
実らなかった恋の美しく透き通った輝きが、「ぼく」の命を奪っていく歌です。こうして書いてみると意味わかんないけど本当にそういう歌です。

この歌を初めて聞いた時、私はまだ片思いに苦しんだことがなかった。むしろ恋愛全般に参加してなかった。
だから私にとって、この歌は「失恋の歌」というより、「失われた何かによって、自分自身も失われていく歌」として聞こえた。

大切な何かを失ってしまった男の子が、とても美しくきらめく詩的な夏の中で、失ってしまったものの輝きに魅せられて命を落とす。まるで亡霊に誘われて湖に沈んでいってしまうように、命を奪われていく。
そんなイメージ。
(詩的な夏というのは、リアルじゃない夏という意味です。さわやかで北欧の避暑地のようなイメージ。蚊とかゴキブリとかあせもとかアースノーマットとかが出てこない夏のことです)

実った恋よりも、実らなかった恋や、失われた恋の方が歌になるんやなぁ、ドラマになるんやなぁ、と漠然と思った。
そして、小説や漫画や歌を生み出す人は、失恋し続けた方がクリエイターとして生きられるのかもしれない、とも思った。

また、萩尾望都の「温室」という短編漫画を読んで以降、「冷たい水の~」を思い浮かべる時は、この漫画の絵が思い浮かぶようになりました。
この漫画のイメージが、歌のイメージと同じってわけじゃないんやけど、むしろ全然ちがう気もするんやけど、なんとなく。
『半神』文庫版に収録されてるよ↓

美しい音のつらなり

その後、私も遅ればせながら恋愛市場に足を踏み入れたりするわけですが、失恋しても、この歌が思い浮かぶことはなかった。
むしろそういう時は、「ひとりでお帰り」を聞きたくなるものだった。

私にとって、「冷たい水の~」は今でも、恋の痛みを歌った歌ではなくて、自分の力が及ばない何かによってきらきら輝きながら命を吸い取られていく不思議なお話の歌だから。

その不思議な雰囲気と、そして何よりも音楽として美しいことが、この歌を好きな理由です。
演奏といい、歌声といい、何もかもが歌詞の雰囲気にぴったりで、透き通った不思議な美しさがあるんよ。
「あー、きれい…」って思いながら聞いてしまう。

歌いながら泣いてしまうこともあります。きれいなので。
まるで変態ですが、大人になると涙もろくなるっていうのは本当だったんですね!割と簡単に感極まって泣いちゃうよ!
中学生の頃は、めったに泣かない子どもだったのになー…。

ベストアルバムに何度も収録されているため、私のiTunesには3曲も入ってるんですけど(つまり少なくとも3枚のアルバムに入ってる)、それだけの価値ある歌やわー。

最後に具体的な場面を思い描いてみた

ところで、歌詞に「グラスの底を」という言葉が出てくるからか、この歌には、グラス越しにきらきら輝く湖面を見ているイメージがあります。
自分のイメージに1番近いグラスを調べたら、デュラレックスのちょっと太めのグラスだった。

今日の記事はアフィリが多いですね…無断で他人のサイトの画像を使うわけにはいかないので、どうしてもあまぞんに頼ってしまうわ…。

ちょっと青みがかったグラスが、窓際か、あるいは庭のテーブルの上に置いてあるの。
そのグラスの向こうに、7月の日差しを受けてきらきら光る湖が見える。
読書の合間に、そのきらめきをぼうっと眺めていると、実らなかった恋の相手の顔が思い浮かぶ。

気がつくと、彼女と一緒に歩いている。
周りは明るいけれども熱くない。それは冷たい水の中にいるから。
もう自分には笑ってくれないと思っていたのに、彼女はとなりで笑っている。
でもそれは夢だから。

向こうに湖が見える。どうやらグラスの底を歩いているらしい。
でも、そう思っていたら、いつのまにか湖の中を歩いている。本当は沈んでいる。
さっきまで聞こえていた歌も、水に阻まれて聞こえなくなった。
でも気づかない。彼女と歩く夢を見ながら湖に沈んでいく。夢を見ているから、自分が沈んでいることに気づかない。
彼女の微笑みと、水面を揺らす夏の日差しが、きらきらしていて、自分が死んでいくことすら気づかない。

私の中では、そういうイメージの歌なのです。でも、そういう歌詞やんね…?
2回目ですが、意味わかんないけど本当にそういう歌です。