秋田光彦 『葬式をしない寺』を読んだ

著者:秋田光彦(あきた・みつひこ)
タイトル:葬式をしない寺
副題:大阪・應典院(おうてんいん)の挑戦
レーベル:新潮新書

父からの貸し出しです。
オウム真理教の事件や阪神淡路大震災に、「仏教はいったい何をやってきたのか、何ができるのか」と衝撃を受け、脱・葬式仏教を目指し、何度も自問自答しながら、劇場型寺院を築いてさまざまな試みを行っている應典院の代表が書かれた本。

布教するよりも大切なこと

悩める人々を前にした時、ボランティアとして活動している時、僧侶としての意識から、つい仏教用語を駆使して語りそうになる著者。
でも、それが逆に相手の心を踏みにじることもある。

「仏教のこういう教えに沿えばいいのでは」と、相手を変えようとする(布教心を起こす)のではなく、目の前の人にただひたすら寄り添う必要がある。
その時、今まで学んできた説法としての仏教しか知らない自分の無力さに気づき、自分自身のよりどころとなる信心を問い直すことで、改めて見えてくるものがある。仏教の教義として学んだものを、他者との関わりを通してどこまで自分自身に問うことができたか。

「関係性としての仏教」という言葉が何度も出てきます。
今までの葬式仏教のままでは、日本のお寺は立ち行かない。
仏教者として、宗教者として、自分は人々や社会に対して何ができるのか。お寺という「場」をどう生かしていくか。
とても興味深く読みました。

とりさんとお寺・幼稚園編

読みながら、自分とお寺との関係を思い出してみるに。

始まりは幼稚園でした。
お寺の敷地内にある幼稚園に通っていたのですよ。
園内の1番広い部屋には阿弥陀如来が鎮座ましましていて、式典のたびにその部屋へ園児と保護者が集まって、阿弥陀如来を拝みながら「おしゃかさま」と呼んで、おしゃかさまの歌(正式なタイトルは知らない)を歌っていた。
…今思えばあれ、お釈迦様じゃなくて阿弥陀様やん!

まぁ、子どもにややこしい区別を教えるのは難しいと思われたんでしょうね。
「仏像にも仏教の宗派にもいろんな種類があって、仏教の開祖はお釈迦様だけど、うちの幼稚園は浄土宗系だから阿弥陀様を祀ってて」
なんて4~5歳の子どもに教えるのも面倒だし。
仏教系幼稚園の中には、もっと呼びやすいように、ご本尊を「ののさま」と呼ぶよう教えるところもあるようです。

仏教系だったので、幼稚園では仏教行事のイベントがあり、
はなまつり(潅仏会)…天上天下唯我独尊のポーズをとった幼いお釈迦様の像に甘茶をかける
ねはんえ(涅槃会)…涅槃図を鑑賞しながら園長先生の法話を聞く
などなど、いろいろありました。
さらに、極楽と地獄をめぐる古今東西の道徳的なお話を聞かされたり、そういう絵本をもらったりした。

幼稚園で接した仏教の世界は、道徳とおとぎ話の範疇でしたよ。
「嘘をついたら閻魔様に舌をひっこ抜かれるよ」とか、「悪いことをした人は死んだら地獄に落ちるけど、いいことをした人は極楽に行くよ」とか、「欲張りはいけません」とか、その程度のことです。普通ですね。

あ、あと、よそのお寺を皆で見学して、お抹茶を飲んだことはあります。
園長先生がその系列のお寺さんと関係の深い方だったらしく(詳しくは知らんけど園長先生の葬儀は大勢のお坊さんが読経する相当立派なものだった)、よその大きなお寺に園児一同でお邪魔して、そこのお坊さんの話を聞いたあと、お坊さんのたてたお茶をいただいたのでした。
今思えば貴重な経験やったなー。
…幼稚園児だったから、ほとんど覚えてへんのが残念だ。

とりさんとお寺・禅寺の托鉢編

他のお寺との関わりといえば。
土地柄、大きなお寺が多いので、朝、住宅街や勤務地のあたりを、普通にお坊さんたちが「おーーーーーーーーぃ」と朗々とした声を上げながら、托鉢に回ってきはるんですよね。
あれ、人によって声の張り具合とか、腹式呼吸がちゃんとできてるかとか、全然ちがう。
だから、「今の人はえぇ声しとんな」とか思いながら聞いてるの。

さらに、毎年お布施をしている有名寺院からは、春分と秋分の日になると「おとき(お斎)にお越し下さい」と招かれて、お寺の中でお坊さんたちのつくった精進料理をいただいて、お寺の庭を眺めることができる。
そのへんは京都ならではかもしれないですね。
ちなみに、托鉢に回ってきはるお坊さんのお寺も、お布施をしてておときに招かれるお寺も、うちのお墓があるお寺とは全然ちがうんですけどね。
本当にお寺だらけ、京都…。

とりさんとお寺・葬式編

とまぁ、日常生活の風景になじんでいるお寺そのものには、何の反発もない私なのですが。
葬式絡みになると、まぁ、いろいろあるよねぇ…。
こういう環境なので、お葬式も自宅や近所の公民館や葬儀会社の会館ではなく、お寺で行います。昔ながらの方法をとるわけです。
京都では公益社がお寺との良好な関係を築くことでシェアを伸ばしており、お寺の敷地内に葬儀会社が会場を設営する。葬儀会社とお寺の連携プレーです。

…でもね。
お寺さんには何のうらみもないけど、「無理だなこりゃ」って思うんですよ。
こんなの、自分たちの代になっても続けていくなんて無理だなって。
毎月お寺に顔を出さなきゃいけないし、お金も払い続けるし。
でも、それを私が母から受け継いで続けたとしても、このお寺にある先祖の墓には入れない。私は長男じゃないからです。
さらに言うなら、現在我が家にいる誰ひとり、今こうして維持してるお墓に入ることはできません。
だってこれ、母の実家のお墓だからです。
父の実家のお墓にも皆入れません。父は長男ではないからです。

少子化のいまどき、結婚相手は長男ばっか。
息子のいない家は、娘をとられたら供養を続けてくれる跡継ぎなんていません。昔は養子をとってたけど、今はそういうの下火だし。離婚率も高いから、結婚したらそれで終わりじゃないし。
そりゃ永代供養が広まるよ…って話ですよ。
それにぶっちゃけ、家絡みでお寺と関わり続けるのって面倒くさい。母からは愚痴しか聞きません。
こんなもん、晩婚化と低収入と個人主義の若者世代が受け継いでいけるとは思えんなぁ。

お寺はどう変わるのかな